🔴「働き方改革」の迷走も「TT」の混乱も根っこは同じ

NHKの「番組作り」から学べること

NHKの番組制作(「えいごルーキーGABBY」「Rの法則」)に関わっていた時に、「なるほど!」と納得したことがあります。冒頭のアイキャッチの写真は、「Rの法則」担当のディレクターと一緒に、ある部屋に入った時に置かれていたものです。発泡スチロールのボードに、4色の付箋紙が貼ってあります。

これが「番組」のイメージです。つまり、プロデューサーもディレクターも、この付箋紙の色が何を意味するかを「共通言語」として誰もが理解しているので、番組全体の流れ、コアの部分がイメージしやすいのです。しかも、付箋紙はアナログ感覚で、貼ったり、剥がしたり、異動したりすることが自由自在にできます。

何事も、まず、初めにこのような「共通言語」(誰もが理解している土台)を用意することが大事であるように思います。それは「ルール」とも言い換えられます。学校で大事なのは「正論」をかざすことではないように思います。なぜなら、「正論」は誰もが納得して初めて「正論」になるからです。つまり、「濁り」(個人的な思惑や感情)が入っていてはいけないということです。

「働き方改革」は、何を狙ったものなのか

「働き方改革」は、いくら時間節約をしても、授業で教師が相変わらず説明に時間をかけているようでは何も変わりません。むしろ、学習者を自律的学習者に鍛えることで、教師の説明や確認にかける時間が大幅に削減され、生まれた時間を学習者の自立を促進する活動に充てるという方向にシフトしていくのが大切なことではないかと痛感します。

たとえば、「やらされる宿題」から「自己申告・自己選択の課題」への転化、「探求」をワン・ウェイになりがちな「個人が調べたこと」を発表する学習ではなく、チームでテーマを設定し、内容を練り上げて問題提起から討論に至るという学習へと質的に転換させるようにします。

そして、インタラックのHP、アルクwebマガジンでご紹介したような思考ツール(階層式マッピング)を教え、屋台式学習、ポスターセッション、マイクロ・ディベート(教育的ディベート)等、人前での発表という手段との併用により、家庭学習が反転学習(学習者にとっての有意味学習)になります。

世の中に誤解(というよりも偏見)を与えた「働き方改革」や「教育再生会議」というネーミングはスローガンを狙ったようでしたが、逆にそればかり繰り返されることにより、肝心の「目的」は伝わらず、「どうするか」という方法論の乱立につながったように思います。

「働き方改革」の本来の目的は「教師のこれまでの働き方を見直し、自らの授業を磨くとともに日々の生活の質や教職人生を豊かにすることで、自らの人間性や創造性を高め、子供たちに対して効果的な教育活動を行うことができる」です。太字の部分は「仮説」です。そこでは、「❶ 働き方を見直す」と「❷ 自らの授業を磨き、日々の生活の質や教師人生を豊かにする」の2つの内容があります。

「❶働き方を見直す」については盛んに言われていますが、❷の部分は「どうすればそれが可能になるか」を話し合われているでしょうか。単に時間を削って「楽になった」で終わらせるのではなく、「教師の人間性を高める」「創造性を高める」とは具体的に何をすることなのか、さらに「子どもたちにとって効果的とは、何を意味するのか」について常に話題にしていく必要があると考えます。そして、最後はそれができたかどうかを検証することが大事です。

それぞれ、太字でハイライトさせた部分を読むと、本来の「目的」が見えてきます。しかし、残念ながらそれが見失われ、今は「働き方」(時間の使い方)というばかりが話題になってしまっていることがわかります。もし、その名称が、「働く意識(働き甲斐)改革」といった「目的」がしっかりと認識できる名前であったなら、もっと違った議論が生まれていたのではないかと推察します。

私が、現役最後に勤務していたのは、富山県 砺波市立出町中学校です。その校訓は「天資養活 自他共栄」です。また、私の出身中学校(砺波市立庄川中学校)の校訓は「明快練磨」です。いずれも1947年に創立してから77年経っていますが、今の時代にもつながる、いや今の時代だからこそ大切にしたい精神であると考えます。

「天資養活」は「自分の生まれ持った資質、自分らしさ(個性)を自分で高める努力をする」という意味です。「自他共栄」は、「自分だけでなく、それを周りの人たちのためにも活用できる」という意味です。

「明快」とは「はっきりしていて気持ちがいい、筋道が整然としている」という意味です。「練磨」とは、「自分の努力、そして仲間と共に鍛えて磨き上げる」ということです。

2つの校訓には、「個別最適な学び」と「協働的な学び」の往還が見られます。卒業生は全員がこれを覚えており、自身の生き方のベースにしています。

このように「目的」(何故、ここで学ぶのか、何のために学ぶのか)を見失わないことが大事であるように思います。つい、目先の「目標」だけを追いかけてしまうと、途中から迷走しやすい(「わかっているはず」で始めてしまい、途中から向かう方向がバラバラになる)」ということを警鐘とせねばなりません。

「働き方改革」は、いくら時間節約をしても、授業で教師が相変わらず説明に時間をかけている、ずっと喋っているようでは何も変わりません。むしろ、学習者を自律的学習者に鍛えることで、教師の説明や確認にかける時間が大幅に削減され、生まれた時間を学習者の自立を促進する活動に充てるという方向にシフトしていくのが大切なことではないかと痛感します。

ALTとのTTは何のためなのか(ゴールを共有しているか)

今、時代の趨勢から、ICTを使った教育の充実が叫ばれています。デジタル教科書、QRコードの活用、タブレット端末が当たり前のように使われています。しかし、ICTの「C」とは Communication のことですから、人間同士のやり取りを抜きにした実践は、本来の軌道から外れてしまうことになります。たとえば、ALT(外国語のネイティブ・スピーカー)は「異文化」を背景に持っている生身の人間です。それを「英語を教える役目」というふうに履き違えてしまうと、「AIで代用できるのでは?」と考えてしまいます。

実際に、インターネット上では、 生成AIと英語でやり取りができる会話サイトもあります。また、スマートフォンには、iPhone なら Siri, Android なら Google アシスタントといった音声認識アプリ(バーチャル・アシスタント・アプリが入っているので、これを「英語バージョン」にすれば英語でやり取りが楽しめます。

ただ、それはあくまでも「練習」のためです。機械と心が通い合うことはありません。機械は感情を持ちません。英語らしくはなっていますが、抑揚はまだまだ不自然です。一度、すぐに言ったことを通訳してくれる「ポケトーク」に”怒った口調”で入れてみました。訳された英語は、普通の口調で提示されました。その様子を見ていた生徒たちは、言葉は人間の気持ちが入ること、相手の表情や話される抑揚があって、初めて正しく伝わるのだと理解したようです。SNSで、LINE や メール でのトラブルが多いのは、それがないために、自分目線(自分のことが中心)になってしまうからです。

何のために、デジタル教科書を使うのでしょうか。たとえば、QRコードを読み出せば、いつでも正しい英語の発音が聞ける。それだけでいいのでしょうか。そうではなく、ALTが自分の口をスマホでアップにして、モニターにつなぎ、「l(エル)」の発音は舌を歯茎にピタッとくっつけて「エゥ」と発音する様子、「th」は、舌の先に歯を当てて発音する様子を見せるようにすれば、子どもたちはすぐに「正しい発音」を理解します。さらに、ALTは個々の発音をきちんとチェックし、OK(合格)と言ってやれば、自信を持って話すようになります。

教科書を終わる(学習指導要領に記載されている「つけるべき力」を確実につける)ことがコインの表だとしたら、コインの裏とは何でしょう。それは、生徒が、廊下や校外でALTと出会った時、ALTの興味・関心、さらには授業で聞いたことをもとに「即興のやり取り」(雑談)ができるようにすることです。だからこそ、英語の授業は「英語を教える」のではなく「英語を実際に使って、望ましいコミュニケーションを実感できる」ことが大事になります。最後は人間同士のCommunication につなげることが求められます。

そう考えると、TTの概念を日本人教師とALTが共有しておくことが大事です。1年の最後はどんな力をつけるのか、そのために用意するパフォーマンスは何か、それをどう評価するのかといったことを最初にしっかりと話し合っておかなければなりません。「1回の授業をどう進めるか、そこにどうALTを使うか」といった近視眼的な捉え方では、ALTだけでなく子どもたちも、何のためにTTをしているのかがわかりません。もし、私たちが、海外の日本語を教える機関で TTをすることになったとしたら、日本語を学ぶ方に「日本に興味を持って欲しい」という気持ちで仕事をするのではないかと考えます。ALTたちもそのように考えて日本に来ていることを忘れてはいけないと思います。

TT とは「ペア」です。ペアのメリットを考えてみれば、その仕事、お互いの役割はすぐにわかります。まず、ペアになることで、「一人相撲」(自己流)ではなくなるということです。お互いの主観と主観が、話し合われることで「客観」(納得を引き出す)になります。2人で一つの仕事をする場合、信頼が基本になります。水泳の授業では「バディ」といって、泳いでいるペアの相手をずっと追いかけます。それは、命を守るための「責務」なのです。だとすると、一人が「主」でもう一人が「従」の関係ではなく、お互いを大切なパートナーとして扱うことが大前提となります。

ペアでする仕事にどんなものがあるでしょうか。「餅つき」「2人でする漫才」などがあります。それぞれ、一人が一方的に自分の仕事(餅をつくこと、話をすること)をしているでしょうか。餅つきには、つき手と返し手の阿吽の呼吸が必要です。それがギクシャクしていては「いい餅」(授業なら、育った子ども)は出来ません。さらには、どのタイミングで「手水」(足場かけ)をつけるかを臨機応変に判断しなければなりません。

漫才でも、お互いの呼吸がぴったりあっていること、間の取り方、ボケとツッコミのタイミングが絶妙でなければ笑いは起きません。大学で教えていたとき、ゼミ生を連れて「寄席」(吉本)に行った事があります。レポートのテーマは「芸人にみるコミュニケーション能力」です。

寄席では、休憩時間は場内は暗く、漫才や落語が始まると明るくなります。講演、演劇やコンサートとは逆です。しかし、これこそが「授業」に生かされる考え方です。講演、演劇は、内容が面白くなければ、ついウトウトしてしまいます。スライドを使って進める授業や講演も、部屋を暗くするので眠くなります。

では、なぜ、寄席では始まった途端に明るくなるのでしょうか。それはお客さんの表情、お客さんの反応を確かめながら話をするためです。さらには、それをネタの途中に入れて、アドリブでやり取りをするからこそ、聞いている方も、一緒にネタを楽しむことができるのです。授業では、お客さんとは「生徒」のことです。予定調和で授業をするのではなく、生徒の反応を見ながら授業を進めること、TTであれば、一人が生徒に向かって指導をしているのであれば、もう一人はその様子、理解度などをしっかり確認し、理解していないと判断した時は、随時、補足する(相手にそれを伝え、簡単な言い方で rephrase する、具体例などを示す)ことが大事です。ご覧ください。Team Teaching Plan のイメージです。二人の授業での役割が脚本のようになっています。

ALTとのTTは、このように、ピンポンをするかのように、小気味よく連携しているでしょうか。それを丁寧に振り返ってみることです。Team Teaching の Teaching Plan も二人が子どもたちの学習意欲、気づき、習得にどのように貢献すればよいかを考え、単元全体のストーリーを共有しておくことが大事です。打ち合わせの時間を1時間の授業のたびに取ろうとするから出来ないのであって、ゴールさえ共有しておけば、ALTに事前に頼んでおくことも、ALTが気を利かせて、自分が授業に出られない日に、ビデオレターやメールを送ってくれるようになります。それが、本当のTTではないでしょうか。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント