”自己研修”HINT!

生徒に授業で格言を紹介したいと思っています。何かいい格言はありますか?また、有効な指導方法も知りたいです。

格言は、授業で習った言語材料を実感する格好の教材になります。ただ、教師が一つを取り上げて説明するだけでは不十分です。どんな意味かを生徒が自分なりに考えてみること、または生徒が印象に残った格言(mostly impressed)を選び、何故それを選んだのかを語るという学習にすることで「思考・判断・表現」といった力の育成につながります。

  1. Begin with the end in mind. (何事も終わりを意識して始めることだ)– ステファン・R・コヴィ-
  2. Success is not final, failure is not fatal: It is the courage to continue that counts.(成功は最終的なものではなく、失敗は致命的なものでもない。大切なのは、続ける勇気である) – ウィンストン・チャーチル –
  3. What is not started today is never finished tomorrow. (今日始めないことが、明日終わることはない) – ヨハン・ゲーテ –
  4. People only see what they are prepared to see. (人は、見ようとするものしか見えない)– ラルフ・エマーソン –
  5. Whether you think that you can, or that you can’t, you’re usually right.(できると思おうが、できないと思おうが、たいてい、その判断はほぼ正しい)– ヘンリー・フォード –
  6. It may not be easy.  But that doesn’t mean it can’t be done. (簡単なことではないかもしれない。だが、それはできないことではない)– ベーブ・ルース –
  7. Learn from Yesterday, live for Today, hope for tomorrow.  The important thing is not to stop questioning. (昨日から学び、今日に生き、明日に希望を持つ。大切なのは、疑問を抱くことを止めないことだ) – アルバート・アインシュタイン –
  8. Whatever you can do, or dream you can, begin it. Boldness has genius, power, and magic in it. (自分にできること、夢見ることは何でも始めたらいい。大胆さは、天性、力、そして魔力を持っている)– ヨハン・ゲーテ –
  9. It always seems impossible until it’s done. (それを成し遂げるまでは、いつも不可能に思えてしまうものだ)– ネルソン・マンデラ –
  10. Life is not measured by the numbers of breaths we take,  but by the numbers of moments that take our breaths away. (人生は、呼吸の回数で測れるものではない。息を呑む瞬間の数によって測られるものだ) – マヤ・アンジェロウ –
  11. We make a living by what we get, but we make a life by what we give.(私たちは得るものによって生計を立てるが、与えるものによって人生を切り開く)-ウィンストン・チャーチル –
  12. Information is not knowledge. The only source of knowledge is experience. (情報は知識ではない。知識の唯一の源は経験である)– アルベルト・アインシュタイン –
  13. It is less important what one has than what one does with what one has.(何を持つかよりも、持っているものをどう使うかの方が重要である)– アルフレッド・アドラー –

自律的学習者を育てたいのですが、アドバイスをいただけないでしょうか?

まず、「自律的学習者」について、明確な定義を理解しておくことが必要です。そもそも、「自立」と「自律」はどう違うのでしょうか。大辞林では、両者の違いを次のように端的に説明しています。

自立』は、他の助けや支配なしに一人で物事を行うことであるのに対して、『自律』は、自分の立てた規律に従って自らの行いを規制することをいう。

規律とは、集団生活において人の行為の基準となるものです。集団で生活する時に望ましいのは、「利己」(自分のことを優先)ではなく、「利他」(相手の立場に立って考える、人の役に立つことを心がける)という視座を持つことです。

これは、新しい学習指導要領で取り上げられた『主体的』に通じる考えです。「主体的」と似たような言葉に「自主的」というものがありますが、2つのニュアンスは微妙に異なります。その違いについても知っておきましょう。

自主的」は、他者からの指示がなくても自分から行うことです。英語で表現するなら voluntary (自発的な)となります。ボランティアという言葉が誤解されて使われることが多いのは、「無報酬で行う」という部分に影響を受けているからと考えられます。そもそもは、自分で手をあげるという意味です。

一方、「主体的」の方は、「自らの意志や判断に基づいて」と言う部分は
同じですが、「自らの責任のもとで行動しようとする態度」であるというところが特徴です。主体的な人は、周りに迷惑をかけない(嫌な気持ちにさせない)、目指すゴールに向けて実現可能な計画を立て、さらに自己修正もできます。

自律的」も「主体的」も、「こうなりたい」というゴール(到達目標)を最初に作ってあるかどうかが鍵になります。それは、教師(指導者)から一方的に与えられるものではなく、あくまでも「自己選択・自己決定・自己責任」といったプロセスを通して身につくことです。

そのためには、日常的に、授業だけでなく、学年や学級の諸活動などにおいて、自身の「メタ認知能力」(自分を客観視できる力)や自己評価能力を高められる場面を演出するようにすることが大切です。そして、それは担任一人の責任でやることではなく、チーム(学校全体、学年という組織)として取り組むことです

 この「メタ認知能力」と「自己評価能力」が高まってくると、人はどう変われるのでしょうか。それは、自己肯定感(セルフ・エスティーム)が高まり、自分が好きになってくるということです。人と比べて自分を卑屈に感じることがなくなり、こだわりが生まれ、自分の成長や自分らしさを大事にするようになります。 
 学習集団の中に、相手への respect(相手を尊重する、相手の考えを傾聴する)が生まれてくると、心地よさを感じるようになり、やがてネグレクト(無視すること)やいじめ、問題行動も減っていきます。

 学校が荒れた時は、つい「大人の力」(権威やルール)に頼ってしまいがちです。しかし、生活指導ばかりに力を入れてしまうと、「何のために」が見失われ、モグラ叩き(目先)のように、その場限りの対症療法になってしまいます。
 私は、勤務した中学校(3校)がいずれも荒れました。燃えた机が屋上から落ちてくる、毎日非常ベルがイタズラで鳴らされる、当時、「アンパン」と言われたシンナーやトルエンの吸引など、喫煙以外にもたくさんのことが起こりました。後から冷静に考えると、大人側の対応の問題点などで思いつくことは多いのですが、荒れている時は、そのような心の余裕がなくなってしまいます。
 ある日、心身の疲れから、8人の学年スタッフのうち、6人が午前中、年休をとられました。学年主任と私は、急遽、学年の生徒たち(6クラス)を体育館に集め、学年集会で「特別授業」をしました。荒れてはいましたが、自浄作用を求める生徒会のメンバーを中心に、学校をよくしたいと願う生徒たちも多く、彼らが本当に献身的に動いてくれました。

 しかし、今思うと、問題行動の多くは、本来の「生徒指導」(個々の自己実現をサポートすること)を「生徒指導=生活指導(問題行動への対応)」と勘違いしてしまったことから起きていたように思います。
 自己実現に必要なのは、むしろ「生徒理解」(個々の生徒と向き合うこと)です。特に、日々の授業が、教師自身が”ワクワク”しない(自分が生徒になって受けてみたいと思える授業になっていない)ようでは、生徒たちの心が耕されることはありません。
 
 セミナーの中では、「たんぽぽ」を取り上げ、参加者の方々と一緒に、前項でも取り上げた「自律的学習」について考えています。「たんぽぽ」と聞くと、すぐに坂村真民氏の詩を思い出される方も多いのではないかと推察します。

踏みにじられても
⾷いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする

坂村真⺠「タンポポ魂」

 たんぽぽは、生命力の強い雑草であり、道路のアスファルトの隙間、石垣の間など、どんなところでも自生します。他の植物が生きていけないような厳しい環境でも生育できます。また、根さえ残っていたら、必ず再生します。

 私たちの仕事は、VUCAの時代こそ、このタンポポのようなたくましく生きようとする子どもたちを育てること、自律的学習者を育てることではないかと考えます。そして、何よりも、教師自身がたんぽぽのように、目の前の困難にへこたれず、理念や信念を持って「たくましさ」を育てるという責務を担うことが大事ではないかと痛感します。

 やることがたくさんある、時間が足りない、教科書を隅から隅まで網羅しなければ入試に対応できない、そう考えがちです。しかし、それは教師の must の気持ちや、強い思い込みから生まれているように思います。

 皆さんが、今まで経験してきたことを思い出してみてください。泳げるようになった時、自転車に乗れるようになった時、パソコンが使えるようになった時、習い事や部活動などで上手になった時、どんな気持ちでやっておられたでしょうか。「上手くなりたい」という強い願い、そして自分の意志で続けたからこそ、できるようになったのであり、人からやらされたわけではないということです。

 勉強も同じで、授業中の課題、活動、振り返りなどを通して「自律的学習者」を育てることで、自ら「もっとできるようになりたい」と願うようになります。
 家での学習が「させられる宿題」ではなく、「やりたくなる学習(反転学習)」(家で取り組んだことを授業で確認する、仲間と内容を深める)に転換してきます。
 すると、教師が教えなければならないと重荷に感じていた内容を、学習者自身で学びとるようになります。それを互いに発表し合うような協働学習(互いに良い影響を与える学習)にすれば、教科書を「すべて教えなければならない」という呪縛から解き放たれ、逆に学習者が自分で気づく回数が増え、定着につながります。
 大事なのは、教師側の発想の転換ではないでしょうか。

たんぽぽの「綿毛」から何をイメージされますか

児童生徒も、教師もワクワクする授業がしたいのですが、どのようにしたらよいのでしょうか?

 ”ワクワク”は、当教育研究所の名称にもつけさせていただいたように、人が行動を起こす全ての原点となります。

最近、次のようなテーマ(演題)でお話をすることがありました。
「教えられる授業」VS.「学びたくなる授業」
    - 人がワクワクする心理を考える –

 前者は、(教師が)教える→(生徒は)教えらえる、という関係です。
一方、後者は、(教師は)教える→(生徒は)学びとる、という関係に
なります。つまり、後者の授業では、生徒が「主体」(授業のど真ん中)となり、自己決定しているということです。

 ここで、2つの公式をご紹介しておきます。いずれも、人の学習意欲を喚起するのに不可欠となるものです。

 一つは、1998年にカナダのビクトリア大学(University of Victoria)で行われたGlobal Institute(グローバル教育セミナー)に参加した時に教わった「地球市民の方程式 (A = MVP)」です。

 AとはActionのことです。人が行動を起こすには、Mission(使命感、責任感)Vision(見通し、ゴールからおろした計画)Passion(情熱、夢、希望)の3つの要素が必要になるというものです。
 そして、これらは「かけ算」であるところがポイントです。たとえ2つができていたとしても、残りの1つが0に近い状況(苦手な分野)であるとしたら、明確なアクションにはつながらないということです。

 教師の場合、教員採用試験を目指した段階で Mission や Passion にはあまり差がないと考えます。しかし、教師になってから、行動力(実践力)で大きな差ができてしまうのは Vision の有無が原因です。
 望ましい成果をあげる教師は、準備も早く、最後の詰めを誤りません。
これは、成功へのイメージ(プロセス)が脳の中にできているからです。
それは、「本質」が理解できていると考えられます。

 一方、ギリギリになるまで腰を上げられない、つい「明日、やろう」「日曜日にやろう」と先延ばしをしてしまう教師は、具体的な見通しが
立っていません。ゴールイメージができていないからです。すると、どうしても判断が鈍くなり、肝心なタイミングを逸することが多くなります。やがて、教員間に温度差が生まれ、間延びすることや遅れが出はじめ、負のサイクルに陥ってしまいます。心の「荒れ」は、そのような綻びから生まれ、「形」(生徒の非社会的・反社会的行動)として出てきます。
 ですから、「わかっているはず」でスタートするのではなく、上述したように、学年部会や教科部会で、言葉の「定義」や「何のために」を丁寧に話し合うようにす。そして、育った生徒像(ジグソーパズルの仕上がった絵)を共有し、実現への計画(1年を通して、つなげていく部分を特化する)を立て、適宜、修正をしていきます。それが、「できた!」という生徒の自信につながります。

 もう一つは、「学力の公式」です。これは、現場(富山県砺波市立出町中学校)にいたときに、尊敬する砂田龍次校長先生から教えていただきました。ただ、ここでいう「学力」の定義を「学校などにおける系統的な教育を通じて獲得した能力」だけに限定してしまうと、あまりに勿体無いので、ここでは「真の学力(学んだことを他に活用できる力)」に置き換えさせていただきました。勉強だけでなく、習い事やスポーツなど、様々なことに当てはまるように思うからです。

真の学力(学んだことを活用できる力)=
「素質」+「やる気」「環境」+「素直さ」


 青でアンダーラインを引いた部分オレンジでアンダーラインを引いた部分はどこが違うでしょうか。前者は「個人」に関する部分、そして後者は「学校教育」に関する部分だということです。
 「環境はわかるが、素直さは先天的なものではないのか?」と思われた方がおられるかもしれません。ここで、人が「素直になる(謙虚に受け止める)」のはどんな時かを考えてみたいと思います。

 その多くは、誰かに褒められた、人から感謝された、自分が「納得」できたときなどではないでしょうか。だとすると、そのような機会がふんだんに出てくる学校生活が送れるかどうか、教師が「説得」ではなく「納得」を引き出すような言い方をしているか、上位下達の説明ではなく、生徒の考えやつまずきを生かした授業をしているかどうかが、生徒が素直になれることに大きな影響を与えるということがわかります。
 
 だとすると、教科書を開いて、すぐに「教えなければならない内容」に飛びついて、練習のためのプリントを作るのではなく、生徒の様子を丁寧に観察すると同時に、「へえ、これは面白いな!」「奥が深い」「ここをしっかりと話し合ってほしいな」「ここを発展させてみよう」などと、教師自身が教材に惚れ込む姿勢を持ち続けることが肝要です。
 Teacher’s Manual は多くの場合、教科書の編集著者や力のある教師が時間をかけて書いています。それを読むと「へえ、こんなことまでできるのか」「そんなこと、全く知らなかった」「上位の生徒を待たせないためには、そうすればよかったのか!」というアイデアも紹介されているので、視野が一気に広がります。力をつけるのは、主観(個人の考え)ではなく、客観(多くの見方、考え方から導かれた考え)です。ですから、今まで通りを「当たり前」と考えず、他者に授業を見てもらうことで「自己流の指導」だった部分を自覚できるようにし、「正しい山」の頂上に向けて、生徒たちを「正しい指導」で導くことができるようになります。

 最近、行ったある中学校での校内研修の感想を紹介しておきます。

その後、全国の先生方からたくさんの質問メールが届きました。以下、それらをご紹介しておきます。随時、私の考え(今までに学ばせていただいたこと)を述べていきます。

学習指導要領が大きく変わったのに、現場では、旧態依然の授業がまだまだみられます。文法練習のためのプリントの山(ワークも使っている)、教科書本文やワークの問題をそのまま定期テストに出題、本文の訳を中心とした本文読解、等々。リテリングは、ほとんどが本文の暗記です。教科書を先に進めるだけで精一杯の授業をどう変えればいいのでしょうか。

ALTとのTTが、型通り(文法を教える授業)になってしまいます。事前の打ち合わせの時間も取れず、リスニング、音読のモデルなど場面が限られてしまいます。TTの授業で、教科書をどう扱っていけばコミュニケーション中心の活動が仕組めるのでしょうか。また、ALTのもっと効果的な活用方法があれば教えていただきたいのですが。

テストの作成は、どうしても1週間前(範囲の発表時)に作成する傾向が強いのが現状です。これでは、行き先の書かれていない電車やバスに乗せているようなものです。そのことを改善するような機会や示唆が必要だと感じるのですが、どうすれば、マインド・セットの変容を強要することなく、教師の意識を変えられるでしょうか。

今の学校現場では、若い先生が育ちにくいように思う。初任者研修等は形式的に行われているが、教師であることの素晴らしさを感じさせるには至っていない。残念ながら、彼らから教育に対する情熱を感じられない。あるいは、せっかく頑張ろうとしても周囲の理解や支援がなく、孤立していく教師もいる。辞めていく若い先生の数の多さに驚かされる。教師になった限りは、未来の日本を背負って立つ若者を育てる骨太の教育がしたいと切に思っているのだが…。

「よいテスト(問題)」と「よくないテスト(問題)」を見分けるポイントとして、どのようなことが挙げられるでしょうか。中嶋先生に言われたように、定期テストを学期初めに作成し、テスト前に最終完成させるようにはしています。ただ、「目的、場面、状況」を意識しすぎるせいか、問題文の説明がどうしても長くなってしまいます。客観的にどういった視点で自分が作成したテストを振り返ればよいのか、ポイントを教えていただきたいです。

研修の大切さを伝えるには、どう働きかければよいでしょうか。これまで受けてきた「研修」が一過性のものが多かったためか、多くの教師は、校内研修に対してあまり期待していないように思います。「部活動に行きたい」とか「研修を受ける余裕がない、それよりも他にやるべきことがある」という声を聞きます。教師一人ひとりが、授業力、学級経営力を高めてこそ、生徒たちが逞しく育っていくのではないかと思うのですが。校内研修によって、全体に活力が生まれる方法はあるのでしょうか。

授業の「振り返り」は、どのような形が望ましいのでしょうか。本校では、ポートフォリオの形で、自由記述で授業を振り返るようにしています。しかし、教科によっては、作文の上手な子が実力以上に評価されてしまうという問題が起こっています。日本語の上手、下手に左右されない「振り返り」の方法を伺いたいです。

退職まで中心的存在で活躍していた先生が、再任用になった途端に周囲の見方が変わります。「給料が減ったのだからあまり働かせては申し訳ない」という遠慮、さらには「再任用=野菜の切れ端」(使えない)のような扱いをされていると感じることがあります。少しでも役に立ちたいと考えて、再任用を選択したのに、これまで培ってきた知識や技能を活かす機会がパタっと減ってしまい、寂しさを感じています。このまま、「任期の終了」を待つだけなのでしょうか。