🟠一生懸命教えているはずなのに、なぜ子どもたちが伸びないのか?

– 名人の授業に見られる「1/f ゆらぎ」 – 

◆ 教師も子どもも「負担感」が募る授業から、ゆらぎを活かした授業へ

教師が、どんなにたくさんの活動、指導法を知っていたとしても、「どんな子どもを育てるのか」という教育理念が土台になっていなければ、子どもたちは見向きもしません。

教え方が大事なのではなく、子どもたちが、思わず「やってみたい、知りたい(読みたい)、書きたい、話したい」と願うような課題になっているか。学習に取り組むうちに、いつしか時間を忘れて夢中になっていたという活動を仕組んでいるか。教師の関心が、そのような「内発的動機付け」が図れる学習に向かっているのかどうかです。

今、インターネットやSNSを使うことが当たり前になり、授業ではデジタル教科書(ペーパーレス)やタブレット端末を使うのが主流になってきています。しかし、全国で授業(多くは英語)を拝見していますが、子どもたちはテレビを見るような眼で教材に接しているようです。つまり、何のためかが知らされず、「自分ごと」にできないもどかしさがあるのだと考えられます。

デジタル教科書のコンテンツは、教科書の改訂ごとに質が高くなっています。逆に、教師はそれに依存するようになっていないでしょうか。外国語活動をやっていた時の生き生きとした表情が、最近見られなくなりました。多くの方は、「デジタル教科書を使って進行する授業」で、パソコンやモニターを操作することに気持ちが向かっているようです。授業を拝見させていただくたびに、教育において最も重要な教師の「創造性」が劣化しているのではないかと不安になります。

◆ 1/f ゆらぎとは?

皆さんは、「1/fゆらぎ」という言葉をご存知でしょうか。自然現象において見られる揺れ(ノイズ)のことであり、たとえば人の心拍の間隔、ろうそくの炎の揺れ、電車の揺れ、波の音、小川のせせらぎの音、雨音、小鳥のさえずり、秋の虫の羽音、木漏れ日、蛍の光り方、スカートの揺れ、髪の揺れなどがそうです。それは心地よさを感じる揺れだと言われています。

共通するのは、ずっと同じリズムではないということです。かといって、バラバラに起こるのではなく、「規則性」と「不規則性」が実にバランスよく表れています。

植物、動物、昆虫、鳥は、自然という環境の中で逞しく生きています。自然と共生する中でその仕事を黙々としています。カナダのビクトリアを訪問した時、first peopleと呼ばれる人たちの暮らしを垣間見る機会がありました。北海道のアイヌ部落を訪れたときもそうでしたが、五感を活かし、知恵を育んできた人類の歴史に圧倒されました。

私たちの周りには、この 1/fゆらぎが存在するのだということをまず理解しておくことが大事ではないかと思います。私たちもまた、それを意識した生活を心がけることで、ストレスが軽減されていくのではないかと考えます。ネットでは、1/fゆらぎは次のように説明されています。

1/fゆらぎ(エフぶんのいちゆらぎ)とは、パワー(スペクトル密度)が周波数 f に反比例するゆらぎのこと。ただし f は0より大きく、有限な範囲をとるものとする。ピンクノイズはこの1/fゆらぎを持つノイズであり、1/fノイズとも呼ばれる。自然現象においても見ることができ、具体例としては人の心拍の間隔、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、目の動き方、木漏れ日、蛍の光り方、スカートの揺れ、髪の揺れなどがある。また物性的には、金属の抵抗、ネットワーク情報流が例として挙げられる。自然界の1/fゆらぎ音を聴くと、脳内がα波の状態になり、人間の生体にリラクゼーション効果をもたらすと発表されている。

ヒーリング・ミュージックの効能の説明にも使われる言葉であり、規則正しい音とランダムで規則性がない音との中間の音で、音響振動数のゆらぎが生体リズムのゆらぎと同じ音楽は、人に快適感やヒーリング効果を与えると考えられる。1/fゆらぎは研究が進むにつれて、結晶の格子振動、地球の自転、自然現象、生物など多岐に及んで、いわゆる名曲と言われるものも1/fゆらぎを示すことが分かってきた。1/fゆらぎが一部の人間の歌声にも現れると主張されることもある。代表的な例としてMISIA、美空ひばり、宇多田ヒカルなどが持つとされる。

ろうそくの炎の揺れが例として挙げられていますが、北欧では、季節によっては夜がとても長くなるので、キャンドルが必需品となっています。キャンドルの灯りに人の心が癒されるのは、そのゆらぎが1/f(エフぶんのいち)だからなのでしょう。

また、色々と調べてみると、生体のリズムも基本的には1/fゆらぎをしており、この1/fゆらぎは快適性と大いに関係があるようです。人間は五感を通して外界から1/fゆらぎを感知すると、生体リズムと共鳴し、自律神経が整えられ、精神が安定し、活力が湧くのだそうです。

◆ 名古屋市には、「コンセプト1/f」という名称のフレンチ・レストランがあります。そこでは、訪問する客が居心地の良さを感じられるよう、木をふんだんに使った店内の装飾、テーブルのキャンドル、スタッフの対応、BGMなど、「コンセプト」という名の通り、至るところにその真髄が見られます。

私が、1/fゆらぎをこのHPで取り上げようとしているのは、授業でも同じようにこの1/fゆらぎが存在するのではないかと考えるからです。特に、名人と言われる方の授業では、それを強く感じます。彼らの授業では、子どもたちが「心地よさ」(温もり)を感じているので、声も表情も明るく、教師に指示されなくても、自然に拍手が起こります。「えーっ?」とか「あっ!」という声が自由に飛び交います。

では、その「授業名人」とは何ができる方のことを言うのでしょうか。

よく、同僚と授業の話をしていると、やれ「彼は達人だ」とか「あの人こそが授業名人だ」とかいう話になったことがあります。一体、どこが違うのでしょうか。

まず、「達人」の定義を国語辞典で調べてみると、「豊富な経験と長年の鍛練により、その道の真髄を体得した人」というように書かれています。これを読む限り、多くの研究授業を見る、自分でも授業を公開するなど継続して研鑽を積み、生徒や保護者にも信頼されるなど、人間性も磨かれなければ到達できないことがわかります。児童生徒が教師のことを「達人」と呼ぶことはありません。「達人」とは、あくまでも「同業者」(教師)から見た視点です。

一方、「名人」はどうでしょう。国語辞典には「名人とは、その分野で特に秀でた人」とあります。さらに、「名人気質」で調べてみると、こう書かれていました。「世間の評価や損得よりも、自分の技芸や価値観を大切にする気質」。なるほど、自分が有名にならんとするがためではなく、無骨なまでに自分の職務(校務や授業)に向き合っているということなのでしょう。

小学校や中学校では、「○○名人」という呼び方がよく使われます。たとえば、「縄跳び名人」「カルタ名人」「一輪車名人」「折り紙名人」と呼ばれて、一目置かれている子どもたちがいます。いずれも、仲間からその努力が認められ、「あの子には敵わないなぁ」という称賛を持って使われているようです。

ここがポイントになりそうです。人が人を教えるのですから、まずは教える側が、人としてモデルになれる存在であることが問われます。「教え方」というテクニック(枝葉末節)ではなく、日々努力を重ねる教師の「人間性」(根っこ)に魅力を感じられるかどうかです。生徒や同僚の悪口、愚痴、言い訳、虚言などが日常的に見られるようなら、どんなに教え方が上手でも、生徒たちは違和感を持ち、その教師と距離を置くようになります。(成績のために仕方なく忖度はしますが)

私は、今まで数多くの方の授業を映像、または実際に拝見してきました。大村はま氏、有田和正氏、向山洋一氏などは、まさに「授業名人」と言えるのではないかとか考えます。英語教育ではどうでしょう。先輩の諸先生、友人、そして後輩を含め、たくさんの英語授業を見てきました。私見ながら、ここでは3人の方の名前を挙げたいと思います。

◆ 名人から学ぶ「1/f ゆらぎ」

◆1人目は、奥住 公夫先生です。当時は吉川町立東中学校教諭で、その後松伏町の教育長になられました。私はその時、隣の中学校(吉川南中)にいました。奥住先生は、私がそれまで取り組んでいた「テストのための授業」「小手先の指導技術を求めていた姿勢」を根底から覆してくださった方です。奥住先生のクラスでは、どの生徒も笑顔で、明るい笑い声で満ちており、自己表現に実に楽しそうに取り組んでいました。出来上がった作品(書かれたもの)は、いずれも学んだ英語を駆使して、自分のこと、仲間のこと、身の回りのことについて生き生きと語られていました。初任から3年目で奥住先生に出会い、今までの教師が中心になって進める授業が、生徒たちの活動(個人、ペア・グループ)を主体とした取り組みへと大きくシフトされました。奥住先生が書かれた書籍を読むたびに、生徒の書いた作品にため息が漏れました。と同時に、英語をまるで母語のように使って、大人をも感動させる文章、英詩、エッセイを書くことができるのだという事実に衝撃を受けました。年月が経ち、セミナーでお会いした奥住 桂先生がご子息と伺った時はとても驚きました。その後、彼は中嶋塾の入塾され、共に学びを深めることになります。現在は、埼玉大学で学生さんを指導しておられます。

◆2人目は、蒔田 守先生(元筑波大学附属中学校教諭)です。彼とは同い年(北原延晃氏もそうです)です。彼はICUに合格し、私はICUに行くことができませんでした。(東後勝明先生に憧れていた私は、その後、東後先生がおられた獨協に進みます)蒔田先生との出会いは1997年です。拙著『英語のディベート授業30の技』(明治図書)を読まれた蒔田先生が、自費でそれを30冊購入され、友人に贈られてからです。その後、松本茂氏監修の『生徒を変えるコミュニケーション活動』(教育出版)でご一緒し、菅 正隆さん・北原延晃さん・久保野雅史さん・田尻悟郎さん、蒔田さんと私の共著『6Way Street』(バンブルビー)へと交流を深めていきます。平成14年に富山県砺波市立出町中学校で行われた筆者の公開授業(関係代名詞の導入、ネパールってどんな国?)を見るために、肥沼さんと一緒に夜行バスで駆けつけてこられました。その後、東京の研究大会に呼ばれてお話をしたり、筑波大附属中にお邪魔して授業を拝見したりするような仲になりました。そして、英語授業研究学会の全国大会で、私は、蒔田先生の授業(中1の現在進行形)のコメントをすることになります。彼から送られてきた映像を拝見して、衝撃を受けました。まさに「Focus on Form」の授業だったからです。初めて現在進行形を学ぶ生徒たちは、何も知りません。蒔田先生は、クラスの折り紙キングが折り鶴を折る様子を、教材提示装置(Over Head Camera)を使いながら、実況中継で説明をしていかれます。最初は、折っている様子を現在進行形で紹介(teaching)し、裏返して同じ作業をする段階に入ると、今度は、途中まで言って後を生徒に委ねられました。つまり、coachingです。同じ作業であっても、折り紙が完成に近づいていくわけですから、生徒とのインタラクションは、意味のある言語活動になります。折り鶴が完成に近づくにつれ、どの生徒も「ちょうど〜している最中」の状況では、be動詞 と 〜ingを使うのだということに気づき始めます。そうして、蒔田先生は、授業の最後に「実はね」と言って、現在進行形が「今まで習ったbe動詞を使った文と同じSVCであること」を意味づけられました。「やっぱり!」どの生徒も自分が気づいていたことを最終確認(帰納的な指導)します。このようなデザイン力、そして1時間通してずっと生徒とインタラクションをしながら、生徒に気づかせ、定着をさせていく。彼もまた「授業名人」です。

◆3人目は、稲岡章代先生(元賢明女子学院中学校・高等学校教諭)です。彼女もまた私と同い年です。残念ながら、稲岡先生は令和元年9月5日に急逝され、全国の英語教師が悲嘆にくれました。彼女と出会ったのは、姫路でのセミナーでした。その後、お互いの教育理念が似ていることから、交流が始まり、やがて授業ビデオを送っていただくような関係になりました。彼女の授業は、いずれも「生徒が主役」です。教師が目立とう(参観者に自分の指導の様子を見せたい)という授業には出会ったことがありません。生徒愛が土台にあり、実に一人ひとりの生徒のこと、そしてその背景になる家庭環境のことを具体的にご存知でした。また、生徒たちの学習履歴、他教科で学んでいる「旬」の情報、生徒たちの興味・関心、習熟度を活かした授業をされていました。今から、すでに30年も前から、当たり前のように「個別最適な学び」と「協働的な学び」を往還させてこられたのです。単元全体がinput for outputになっていること、AAR(見通し・実践・振り返り)が見事に成立しています。彼女の真骨頂は、前の活動(入力・練習)が次の活動(言語活動)へと、自然に(必然性を持って)繋げられていることでした。彼女を「授業名人」として、大修館書店から出した『英語教師の授業力を高める3つの力』にご紹介しました。稲岡先生の理念や指導プロセスがわかる書籍が手に入るサイトをご紹介しているので、参考になさってみてください。

◆ 3人に共通する 1/f ゆらぎを検証する

3名の方に共通するのが、授業中に見られる1/fゆらぎです。きちんとした「系統性」、「一貫性」のある指導だけでなく、ハッと気づく場面、さらには子どもたちを揺さぶるような「意外性」が用意されています。それがいつも自然なのです。だから、生徒だけでなく、授業を参観している者も思わず居心地の良さを感じてしまう。それこそが「名人」であることの証明なのだと考えます。

教師が、自分が用意したことを「予定調和」でやっているような授業では、子どもたちの「自己決定」の場面は出てきません。毎回、金太郎飴のような単調な授業になります。これは、教師が「規則性」(規律、ノルマ、縛り)ばかりを強く求めてしまうからです。

一方、揺さぶりや伏線回収などが学びのプロセスの中に組み込んであると、子どもたちは「何かあるはずだ。見つけよう」とワクワクしながら考えます。そのような「意外性」が、1/fゆらぎのキモなのです。

子どもたちのユニークな意見や考えが生まれ、仲間とのやり取りの中で学習が高次の内容へと質的に昇華していくのは、1/fゆらぎがあるからこそと言えます。そして、そのような授業では、終わりのチャイムが鳴った瞬間、教師が用意してくれた「魅惑ある英語の旅」の終わりを知り、ハッと我に返ります。

上述したように、「名人」と言われる方の授業では、「意外性」(予測できない、何が起こるか分からないこと)が所々に表れます。授業を参観する方も、そんなこと考えたこともなかったと驚かれます。予定調和の授業と意外性のある授業の違いは「知的興奮」があるかどうかです。

3人の名人は、いずれも子どもの立場に立ち、彼らの気持ちに寄り添い、意外性のあるレアリアの教材を用意されました。マスキングの手法を使い、新出単語や言語形式(文法)の導入をクイズのようにして楽しませられました。さらに、子どもたちの意見や呟きから閃いたことをすぐにクラス全体に広げていかれました。

指導案を、自分のやりたいことを決め決めで書かず、プリントやスライドも最小限に削減し、子どもたちとのフレキシブルなインタラクションを授業の柱にされていました。ですから、授業中の表情が豊かで、ある時は語り部(声優)に、ある時は役者(エンターテイナー)というようにその指導は変幻自在だったのです。

これは、子どもと一緒に授業を紡いでいるからです。決して、自分の説明で理解させようとするのではなく、「あっ!わかったっ!」とか「え〜?!」という声がふんだんに出るような授業づくりを楽しんでおれたからです。「名人」と言われる方は、そのような授業が、子どもたちを「わくわく感」でいっぱいにすることを熟知しておられたのです。

子どもたちは、「教え方」(指導技術)が上手になろうとする教師よりも、授業をわくわく感でいっぱいにさせてくれる教師の方を求めています。

子どもの習熟度、興味・関心を活かした授業を心がける、単元全体をストーリーで考える、どこでどんな意外性を仕組むかを考える、といったことを目指すのであれば、子どもたちの反応や書かれたものから授業作りのコツが学べるようになります。

それこそが、書籍やセミナーからは絶対に学べない、正真正銘の「授業づくりの奥義」です。

浜辺に立つと、寄せ波引き波の音が聞こえてきます。寄せ波は激しく荒く、引き波は海砂をならしながら静かに遠ざかっていきます。佇んでいると、交互に聞こえてくる演奏をいつまでも楽しんでいたい気持ちにさせられます。名人の授業も、この二つの波が作り出す心地よいリズム🎵を持っています。授業も、寄せる強さだけではなく、引く美しさも必要であるように思います。

そのハーモニーが見られるのが、このHPでもご紹介している東京都北区立飛鳥中学校の「カマキリ先生」(理科)の授業です。今一度ご覧になってみて下さい。前回、読まれたのとは違う気づきがあると思います。

◆ 授業名人の授業のよさを、どこまで自分の力で見つけられるか

さて、私は、セミナーに呼ばれた時は、できるだけ蒔田さん稲岡さんの授業ビデオをお見せし、参観者が気づかれたことをお聞きし、協議会の後で「謎解き」(授業の見方)をご紹介することにしています。

昨年、中嶋塾@東京2023(対面型で毎月1日9時半から17時まで研修)と地球市民オンライン塾2023(全国40名の方と毎月オンラインで2時間の研修)の合同研修(オンライン)でお二人の授業をストップモーション式の授業分析(10分〜15分視聴し、グループごとにわかったことを話し合う)をしてもらいました。そして、その後、全員に「謎解き」として資料(授業の見方)を送りました。塾生の方々にとって、その内容(見えていなかったこと、指導の意義がわからなかったことなど)は大きな衝撃となったようです。以降、その視点を自分の授業づくりにも活かしていこうとする塾生が増えました。

人は、自分の力以上のことはできません。自分が今持っている視点や関心があること以外のことには気づけません。学習指導要領を読まずに、というか書かれていることを斜め読みしただけでは、何も見えてきません。そのような状態で、セミナーや How toを紹介する書籍を読まれても、本質は理解できないままなので、上っ面だけを眺めていることになります。

仮に、「自分の力はこんなものではない。もっとできるはずだ」と自分では思っていても、それはわかっているつもりであったり、自分への期待度が含まれたものであったりしているためで、自分を客観視できる視点(メタ)を持たない人は伸びていきません。

そう考えると、教師の「基礎基本」とは、教科書を使って日々の授業ができるかどうかではなく、自分以外の授業を参観して、「学べるところだけでなく、改善点(印象や疑問に思うことだけでなく、こうすれば良くなると明確な根拠を持って指摘できること)も述べられる力がある」ということではないかと考えます。

教師が目指すべきは、「自分がやりたい授業」(利己)ではなく、「子どもたちが身を乗り出して聞こうとする、時間を忘れて夢中になって取り組もうとする授業」(利他)です。子どもたちのポテンシャルを高め、教科が好きになり、「もっとできるようになりたい」と願うような授業です。

ですから、確かな視座を学び、「正しい指導」を知ることが大事です。それは、日々の授業の中でしか磨けません。たとえ、セミナーに出たり、本を読んだりしても、結局「自己流」(自分では気づけない「何か」が抜けている)でやっているのであれば結果にはつながりません。

ぜひ、このHPをご覧に皆さんも、今の「授業力」の現在地を確かめてみてください。まず、蒔田 守先生の授業(中1、現在進行形の導入)の「謎解き」を載せておきます。ご覧になって、ご自分の今現在の授業の見方がどうなっているかを確認なさってみてください。最初は、ショックかもしれません。しかし、現実を知った方々は、「このままではいけない」と奮起され、みるみる授業が上達していかれました。よろしければ、このHPに載せてあるメールアドレスに感想を送ってみて下さい。やりっぱなしではなく、誰かに向けて書くことできちんと整理できるようにあるからです。

https://nakayoh.jp/wp-content/uploads/2024/08/オンライン)①蒔田先生の授業(謎解き編).pdf

なお、稲岡先生の授業(中2、未来表現be going toの導入)については、8月31日に姫路で行われる「稲岡先生を偲ぶ会」(生前、稲岡先生から薫陶を受けて来られた兵庫の先生方の集まり)でお話をした後で、この項に追加する形でご紹介をすることにします。これも、また圧倒される授業です。

8月31日に予定されていた「稲岡先生の授業の謎解き」は大雨による新幹線運休のため、10月12日に延期されました。HPには10月中旬以降にアップします。

すでに、蒔田守 先生の授業分析(PDF)をご覧になり、ご自分の「授業の見方」がどうであったかを確認された方からメールやコメントがありました。

ショックでした。それが当たり前だと思っていたことが、実は自己満足だったということがわかりました。満足させる相手が違っていました

教師がどう教えるかではなく、生徒をどう学びたいという気持ちにできるかが大事なのだと痛感しました。教師がしたいことではなく、もっと生徒がしたくなることを考えたいです

できないことを、つい、生徒のせいにしてしまっていました。授業は子どもと一緒に作るものだ、主体性を高めなければならないと同僚に言いながら、実はプリントやスライドを作って50分を予定通りに終わらせようとしていた自分。これでは思考・判断・表現どころか学習意欲も高まるはずがありません

自分自身を「客観視」できるようになれば、みるみるできるようになっていきます。それは「メタ」(もう一人の自分)を作るということです。自己流、自己満足ではなく、「本当にそれでいいのか?」と問いかけられるようになるには、優れたモデルを知ること、正しい指導、望ましい生徒理解のあり方を理解することが基本となります。

まだ、蒔田先生の授業の謎解きをご覧になっておられない方は、稲岡先生の授業分析がアップされるまでに、ご自分の「現在地」を把握して見てください。管理職の先生、指導主事の先生から指摘される前に、自分の弱点を知っておけば、自分で解決することができます。人がずっと覚えていることは、人から言われたことではなく、自分で気づいたことです。

次に紹介するのは、大修館書店『英語教育』2007_12月号に書いたもの(「授業の質を高める8つの授業マネジメント」)です。授業作りの参考にしてください。

https://nakayoh.jp/wp-content/uploads/2024/08/授業の質を高める8つの授業マネジメント.pdf

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント