🟠「英語教育ゆかいな仲間たち」の3人(菅・田尻・中嶋)の共通点とは

教師を志したときの「初心」が残っているか

「できない」「仕方がない」と言うのか、それとも生徒のポテンシャルを信じ、ピグマリオン効果を使って最後まで応援するのか。

それは、教師の中に「初心」が残っているかどうかの違いです。

「何のため」に教師になったのか。これを常に自問自答できるようにしておくと、自身の指導や授業がブレるということはありません。大切なのは自身を客観視できる「メタ」(もう一人の自分)を用意することです。

生徒のポテンシャルを「暗記力」や「理解力」(テストに正しい答えが書けるか)に限定するのではなく、発想の豊かさや大人には思いもつかないメタファーの使い方などに驚嘆できる教師の「度量」(心のゆとり)や「遊び心」こそが彼らをまっすぐに育てるのだということを理解しておくことが大事です。

「荒れ」は教師の指導に対する反発が主なもの

教師は、他に大人がいないクラスでは、つい「裸の王様」になってしまうように思います。「舐められたくない」という窮屈な考えでいると、自分のやりたいことを生徒に「させる」授業になり、自分の指導で「わかった」と言わせたい教師になります。そこには、教師の癖である「SOS」(しゃべりたがる・教えたがる・仕切りたがる)が透けて見えます。

キャッチの絵は、赤穂 遥さん(当時、関西外大生)が、教育実習に臨む学生たち対象に作った冊子『ただ今、教育実習中!』に描いてくれたものです。彼女は、『英語教育ゆかいな仲間たちからの贈りもの』(日本文教出版)を読み、3人の特徴を活かしたイラストを描いてくれました。

タイトルで「英語教育ゆかいな仲間たち3人の共通点」と書きました。菅 正隆氏(大阪府公立高校、大阪府教育センター、文科省教科調査官、大阪樟蔭女子大、現在、大阪城南女子短大学長)田尻悟郎氏(神戸市公立中学校、島根県公立中学校、関西大学)と中嶋(埼玉県の公立中学校、富山県の公立小学校、中学校、教育事務所の指導主事、中学校教頭、関西外国語大学、英語わくわく授業研究所代表)の共通点とは何でしょうか。

それは、学校の大きな荒れや教育困難校を経験しているということです。さらに、荒れの原因を生徒のせいにするのではなく、むしろ「授業を彼らにとって魅力的にするにはどうすればよいか」という立場に立って、子どもたちと向き合い、彼らの感性から学び取ろうとしたことです。ずっと30年以上も交流を続けられるのは、根っこの部分が同じであることが大きいと思います。

私たちは、1980年代に教師になりました。当時、多くの学校現場が荒れていました。生徒の考えや意見を取り上げ、彼らの興味関心を活かし、夢中になるような魅力的な授業をしていた教師もいましたが、他の教師から「生徒をつけ上がらせるな。もっと厳しく指導しろ」と言われました。「生徒指導=生徒を叩いていうことを聞かせる」という風潮ができていました。

教師の「力」による生活指導(授業も、教師が1時間ずっと仕切る)が続き、「作用反作用」の法則通り、学年が上がるにつれて「反発」(抵抗)が生まれ、学校全体の「荒れ」につながりました。窓ガラスが何十枚も割られ、消化器がばら撒かれ、毎日イタズラで非常ベルが鳴らされ、シンナーやトルエンを空き缶に入れて口に咥え、ふらふらになりながら登校したり、廊下では自転車レースが行われたりもしました。多くの教師は精神的に疲れ、体調不良から年休をとるというケースが増えました。

今、授業を拝見していて、当時と同じような教室の空気(予兆、匂い)を感じることがあります。

それは、ICTを使いながらも、結局は教師が中心になって授業を進めている。教師の関心が生徒理解よりも、指導技術に向かっている。生徒のあら探し、生徒の英文の間違い探しが優先され、彼らを過小評価している、研修会で愚痴や言い訳が出てくるという状況があるからです。

80年代では荒れましたが、今の生徒たちはSNSという捌け口を使って「ストレス」を発散しているようです。しかし、このような状況が続くと、心はだんだん教師(学校)から離れていくのではないかと考えます。

決めつけ(色眼鏡)で人を見ることほど、愚かなことはありません。生徒の育った環境、保護者の仕事や学歴などで、その生徒の学力や人格を「決めつけて」いる方に出会うことがあります。

子どもを育てるのは「感動」→「憧れ」→「誇り」のサイクル

学校は、「この学校に来てよかった」「この先生に出会えてよかった」という「誇り」を育てる場所です。そのためには、学校行事だけでなく、授業の中でも「感動」が生まれるようにしなければなりません。「わかった」ではなく「できた!」と感じる時に、人は「感動」を覚えます。それは自分が努力をして達成したことによる「自己肯定感」の表れです。

「入力」(教師の説明、デジタル教教科書、プリント)が続く授業では、子どもたちは「依存的」になります。

しかし、「出力」(スピーチやプレゼンテーションなどの発表、生徒が書いた自己表現)の機会があると、仲間の取り組み、工夫やアイデア、そして自分にはない構想などが垣間見られるようになります。その時、「いいなぁ」という気持ちになります。つまり、「憧れ」が生まれるのです。部活動や学校行事で「上級生が下級生から憧れられる」という状況を作ろうとしている学校は絶対に荒れません。

教師の力は限度があります。むしろ、仲間同士の「協働的な学び」を活性化させる(よいモデルが登場するように仕掛ける)ことで、学級に「感動」や「(よいものへの)憧れ」を作り出すことが可能になります。

勘違いしてはいけないのは、教師が「憧れられる」のは「力の指導」や「授業の進め方」ではなく、その人の「人間性」だということです。生徒は見せかけのものに騙されません。本質を本能的に掴み取ります。(皆さんも子どもの時にそうであったように)たとえば、授業中だけでなく、その前後に教師の姿勢を感じとります。「検印」などによる「省エネ」ではなく、手間暇を惜しまずに、一人ひとりと丁寧に向き合おうとする姿勢(テストに励ましのコメントを書く、ノート指導でも積極的に関わるなど)に対して、生徒はその努力に感謝すると同時に親近感を覚え、やがてその先生を好きになります。人は、自分の「好きな人」からしか学ぼうとしません。

私は、3度「荒れ」から、たくさんのことを生徒たちから学びました。生徒の教師に向けられた眼差し、教室の空気(成績のために仕方なく「忖度」をしている、静かに授業を受けている)から、教師との人間関係が察知できるようになりました。

目的を共有しない同僚は、多くの場合、「共同」(分担作業)になります。それ以上のことはできません。しかし、同僚が「同志」になると「協働」(お互いに良い影響を与え合う)が可能になります。学校という組織を「ワン・チーム」(同志の集まり、表面的な仲良し集団ではなく、生徒や自分の「力」をつけるための「仕事人」の集まり)にできること。それが生徒の成長に大きな影響を与えるのだと思います。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント