スマート農業のような「省エネ教育」を目指すのか、それとも「手間暇をかける部分も大切にできる教育」を目指すのか
スマート農業は、AIなどの先端技術を活用し、農業の効率化と生産性を高める取り組みです。農業従事者の高齢化により、農業人口が急激に減ってきている(2010年205万人➡︎ 2023年116万人)ため、スマートトラクター、ドローン、ロボットなどが導入されているようです。富山の実家が農家だった(今はJAが集中管理)こともあり、この先どうなるのか、スマート農業にとても関心があります。
同じように、教育でも「働き方改革」やAI の活用によって、時間や労力を削減しようとしています。世の中は、AIの加速度的な普及に伴い、速さや利便性を追求することが当たり前になってきています。しかし、昨今、話題になっている「採点ナビ」や入力のためのコンテンツがメリットのデジタル教科書を「当たり前」にするのでしょうか。
教師も「スマート農業」のような効率よい教育を目指すべきなのでしょうか。それとも、「野山の豊かさ」を知り、「自然と共生する喜び」を感じられる子どもたちを育てるために、手間暇をかけることをおざなりにしない教育を次世代にも残していくべきなのでしょうか。それを判断するのは、全国津々浦々、自分が任された教室で指導をしている教師です。評価であっても、タブレット端末を使った授業であっても、AIに任せる部分と「任せてはいけない部分」を明確に線引きするのは教師です。
AI が当たり前の世の中では、むしろ AI にはできない「非認知能力を高めること」が大事だと言われています。昨年の8月24日に、アルク主催で行われた教師応援オンラインセミナー(特典として、関西大学教授の田尻悟郎氏とのオンライン対談が見られる)で次のようなお話をしました。
学校教育の全ての根幹は、教育基本法から始まっており、そこには「教育の目的は人格形成」であると明記されています。ということは、学校で行なっている授業や諸活動は、いずれも個々の子どもの人格形成に寄与するものでなければならないということです。
そのためには、教師が自分のやりたいことをやることではなく、子どもたちが「主体的」に動けるように鍛えること(それは、ゴールを知り、見通しを持って行動できること)です。それは、教師がクラスの一人ひとりのよさ(天から授かった資質)や自分らしさを活かせるようにし、仲間と互恵学習ができるような学習環境(言語環境)を醸成するということです。
「思考」させたいのは「何のため」や「どのように」
「思考ツール」は、使い方に一工夫必要です。ただ、無造作に使っているだけでは効果が上がりません。たとえば、マンダラートの中心に「ボランティア」と入れてみましょう。そこから連想するものは、次のようなものになります。
このように、教師が「タブレット端末」の使い方、「思考ツール」の使い方に無頓着であると、volunteer work と入れさせてしまいます。すると、周りに出て来るのは、関係ある言葉(ボランティアワークでできること)だけになります。教師がクラスで話し合わせたいのは、そのようにすでにわかっていることではありません。話し合いを活性化させるためには、「Why (何故か)」や「How(どのように)」の部分を含んだ適切なテーマです。たとえば、「ボランティア活動に積極的に取り組めないのはなぜか」というテーマを与えてみると、多様な考えが出てきます。
次の3つのマンダラートを比べてみてください。中心に入れた「問い」で周りに書かれるものがまるで異なってくることがお分かりいただけるのではないかと思います。
セミナー開始早々、私は次のマンダラート(A表)を150名の参加者にお見せし、中央のテーマから連想すること、つながることを周りに書いていただくようお願いをしました。中心に入れていただいたのは、「英語の授業で人格形成ができるようにするには?」という問いでした。
マンダラート A 表
中央のテーマは、「根っこ」の部分です。周りに書くべきことは「木の幹」に当たる内容になります。しかし、このようなことは、普段から考えていないとなかなか連想できないでしょうし、その具体も思いつかないのではないかと思います。
特に、若い方々にこれをお聞きすると、「えっ?」「そんなこと考えたこともなかった・・・」というつぶやきとともにパタっとペンが止まってしまうことが多いように思います。たとえば、日々自分がやっていること、または自分が関心を持っていることを周りに入れてみたとしましょう。すると、次のようなマンダラートにならないでしょうか。
マンダラート B 表
なんだか変です。いずれも「人格形成」とはつながらない、目先のことになっています。一方、力のある先生は、マンダラート(C表)の周りに次のようなことを書かれます。
マンダラート C 表
B表とC表の違いは何でしょうか。
それは、「なぜ、自分は英語教師になったのか」という初心を今も忘れず、「どんな生徒を育てたいのか」という理念を持っているかどうかの違いではないかと考えます。
人の作ったもの(セミナーで紹介される実践、書籍に書かれている実践、さらには教科書会社が作っている年間指導計画など)に飛びつき、それをそのまま使っていると、どんどん自分で考えることがなくなり、何かに依存をする(楽をする)ようになります。
やがて、子どものときに持っていた創造力(元々は想像力)、知的好奇心(あるときは知的飢餓感)、そしてワクワクする気持ちがどんどんなくなっていき、いざという時に何も思いつかず、オロオロしてしまいます。
子どもにそのような姿を見られたくない教師は、プリントやスライドを多めに用意し、無事50分(45分)を予定通りに終えられるように「授業進行案」(学習指導案とは真逆)を考えてしまいます。
こうなると、子どもたちの気持ちはだんだん離れていきます。時として、教師の真面目さ(教師は「全て」を教えなければならないと考える)は「負の連鎖」を作ります。教師の説明の時間が増える、生徒は受け身となり集中力が切れる、活動に時間がかかり予定よりも遅れる、定着が悪くなりますますプリントの量が増える。このような悪循環な流れ(負のスパイラル)に入っていきます。そうならないようにするには、「思考」を楽しめるような「負荷」を用意することです。
「負担」は相手から、「負荷」は自分から
「負荷」と「負担」は違います。国語辞典(大辞林)では、次のように説明されています。
「負荷」 (責任などを)負い、担うこと。自分で引き受けること。
「負担」 自分の能力以上に課せられたと思う仕事や責任。重荷。
人から何かするように言われた時は、自分が予定したこと、自分で選んだことではないので「負担」(自分の時間がなくなる、余計な仕事が増えたと感じる)と捉えることが多くなります。何よりも、自分が見通しを持てない時は不安になり、「負担」を感じます。
一方、「負荷」は「もっと力をつけたい」という自己決定によって行われます。その場合、極端にハードルを高めるようなことはしません。あくまでも「プラス1」レベルです。つまり、「負荷」は自己理解できているからこそできることです。
たとえばフィットネス・ジムで体力増強マシーンのウエイトを少しだけ重くするとか、ルームランナーのスピードをあげるようなことです。
さらに、人が「知恵」を発揮する、「創造力」を発揮できるのは、自分に「負荷」(たとえば研究授業、人前での発表など)をかけた時です。指示を待っている状態ではなく、何かを求めて自ら一歩踏み出している時です。
その時は、自分が成長している楽しさを感じています。楽しいことは続けられます。楽しくなければ、どこかが間違っています。それを忘れてはいけないと思います。教師から与えるプリント(文字がびっしりと書かれたもの)、メリハリもなく、ただ時間がかかる活動、調べたことを発表するという単調な学習、いずれも、ワクワクしたい生徒たちにとっては「負担」になっています。
アルクの教師応援オンライン・セミナー(2時間)が終わってから、参加された方々からたくさんのメールをいただいたのですが、元塾生からのメールに次のようなことが書いてありました。
世間は今、「働き方改革(効率と手軽さ)」を追求し、いかに短時間で明日の準備を終えるか、ということを追い求め、発信しています。若手はプリントやスライドを作り、50分をどう流すかということに終始しているように感じます。タブレット端末を使った授業もそうです。「何のため」という目的もなく、ルールも曖昧なまま、ただ使っているという授業をよく見かけます。授業を拝見したり、授業についての相談を受けたりすると、いまだに「どううまく教えるか」(教師目線)という技術に留まっているように感じて「あぁ…」と思ってしまうことがあります。そういう意味では、本当に、スタート地点を「忘れてはいけない」、原点回帰となるセミナーでした。ユズリハの一枚の葉として、彼らが気づいてくれるまで根気強く関わっていこうと思います。
教師が自身に課す「負荷」、学習者向けに用意する「負荷」(教師が与えるのではなく、子どもたちが自己決定する)が有機的に働くようになれば、個々の「人格形成」に向けて、学校が本来の機能を取り戻すことができるのではないでしょうか。