学習スタイルを「負担・不安」から「負荷+見通し」に変えれば、生徒は主体的になる
🟠「浮き輪に依存していては、いつまで経っても泳げない」でも書きましたが、授業で生徒に与えているどれとどれが「浮き輪」に当たるのか、そしてそれを外すのはいつなのかを全体構想(単元計画)の時に考えておくことが教師の責務です。なぜなら、「評価」をするということは、自分の力でできていることかどうかを見極めなければならないからです。
では、皆さんに質問です。
「浮き輪」を外すのは、どのタイミングが望ましいでしょうか。
セミナーでこのような問いかけをすると、多くの方は「できるだけ、入力が終わってから」と言われます。入力がきちんとできていなければ、出力はできないだろうという思い込みがあるからです。
このような考え方をされるのは、定期テストを中心に評価をしている方に多いようです。一方、パフォーマンステストもバランスよく入れて評価をしている方の「目指す生徒像」は大きく異なっています。前者は「入力ありき」になっており、後者は「実際に使いながら、何度でも」という考えです。
たとえば、後者のタイプは、授業のルーティン(帯学習)として習ったことをすぐに使う活動を入れています。チャットやインタビュー・マッピングなどがそうです。トピックは生徒へのアンケート(関心のあること)から抽出したものを3択で提示し、習ったことをどう使えばいいかを考えさせています。また、グループごとに「リレー・ノート」に取り組み、習った言語材料や語彙を日常化させる工夫をしています。さらには、授業の最初と最後に「のりしろ」を用意しています。たとえば、前時で学んだことを入れた teacher talkを用意し、最後は次時への見通しを与えて終わっています。
また、小学校では、「浮き輪」(板書した英文)を突然外す(消す)のではなく、部分的に消していきます。まず、最初は習った言語材料以外の部分を消します。次に、残っている部分を消します。こうすると、マスキングされた箇所(隠されている部分)を自分で補うようになります。「浮き輪」を外す前に、少しずつ「負荷」をかけて、「慣らし運転」を位置付けていきます。こうすると、生徒はだんだん「英文をどう組み立てればいいか」とか「どう情報を付け足していけばいいか」を考えられるようになります。
練習のための練習では、生徒は「できそう」という気持ちにはなれません。最後の発表前に、途端に不安になったり、無理だと諦めたりしてしまいます。大事なのは、イメージを掴むためのトレーニング(少しずつ、負荷をかけながら回数を重ねること)です。たとえば、スピーチをするとき、一人ずつ前に出てきて行いますが、直前まで次の発表者は、仲間のスピーチを聞いて評価しています。これでは、評価も自分の発表も中途半端になってしまいます。実際に自信を持ってできるようにするには、「次の発表者は廊下で待機し、自分のスピーチに向けて最後のイメージトレーニングをする」というルールにしておくことです。これによって、集中して準備にかかれます。
教師はそれをみて、やはり無理だったのかとため息をつき、また次なる「浮き輪」を用意してしまいます。このようなことを繰り返している限り、「できなかった」ことだけが焦点化され、生徒をさらに過小評価するようになります。
そもそも「浮き輪」を使うのは何故かを考えてみましょう。それは、泳ぐために必要な「技術」を教わっていないということです。また、怖いという思いが、泳いでみたいという感情よりも強いからです。
「キックバイク」から学べることは
「技能」を無理なく身につけるのに参考になるのが、「キックバイク」(ペダルのついていない自転車)です。今までの自転車には「補助輪」をつけるのが常道でした。補助輪がついていると、確かに倒れません。ハンドルを持ってペタルを漕ぐという練習にはなります。しかし、最も大事な「バランス感覚」(ハンドルをコントロールできること)、「スピード」が出ても怖くないという感覚はなかなか身につきません。
補助輪を外すという発想は今までなかったことです。しかし、「キックバイク」が発売されるや否やそれは大ヒットとなりました。「なるほど、これなら速く自転車に乗れそうだ!」という納得感が生まれたからです。
では、英語学習における「スピード感」、そして「バランス感覚」を身につけるとはどういうことでしょう。それは英語学習の本質です。それができないと「聞き取れない」「質問ができない」「自分の考えが言えない」「まとめられない」ということです。教科書で学ぶ文法や語彙(知識)そのものではありません。それを断片的に知っていたとしても「自分が望む通りに使えない」のであれば、言葉を学んだとは言えません。
世の中には、失敗(うまくいかないこと)を恐れてチャレンジをしないという人が案外多いようです。その理由は、嫌な思いをしたくないということなのでしょう。しかし、自分が何かできるようになるには、実際に取り組んでみるというアクションが欠かせません。やらないことはできるようにはならないからです。やっているうちに、うまくいかないことを工夫する(知恵を出す)ようになり、できるようになる。それが自信になり、また何かやってみようとするようになる。世の中で成功している人はそのようなことを「習慣」のようにしています。
「浮き輪」を外すのも同じです。単に「浮き輪」を用意するというのではなく、子どもたちが話せない、質問ができないのは何故か、まとまったことが書けないのは何故かという根本的な問題に対して、どのような練習や手立てを用意するかです。
教師はゴールを想定したら、そこから逆算をし、「浮き輪」を外すステージを予測して「浮き輪」につかまってバタ足をする、ビート板で練習をする、水が怖いと思わないように潜ることを教える、さらに息継ぎを教えると言った「慣らし」のプロセスを用意しなければなりません。
教科書を終わらせる、文法を教えるためにプリントやスライドを用意するとか、単語を覚えさせるために何度も書かせるとか、ただ本文を音読する練習をするとか、目先しか見ていない指導を繰り返している限り、子どもたちが自信を持って話せる(書ける)ようにはなりません。
英語を語順のまま理解する(英語は結論から述べ、順に情報を付け足す言葉)ことができるようにするには、すでに意味のわかっている文章を頭にイメージが湧いてくるような読み方を何度も何度も練習することが大事です。
つまり、新しい内容を意味のわからないまま読む練習をしても、頭には入ってこないので、「わかる」という感覚にはなりにくいということです。過去に習った単元を音読するのを習慣にすると、すべての基本文を覚える(日本文を英語に直せる)のと同じで、学習者の「基礎体力」になります。「覚えなさい」と言わなくても、結果として覚えてしまうのです。
◆ 苦手な生徒でもわかることをターゲットにした授業は、全体的にどんよりとした雰囲気になりがちです。リーダーとなる生徒たちがつまらないからです。「全員で一歩」「平等でなければならない」という偏狭な考えではなく、リーダー群を伸ばして、良いモデルを見せるようにすること、上下関係を作らない学習集団を育て、関わりのある場面を用意することで、下位の生徒たちはみるみる引き上げられていきます。教師の力など限られています。生徒にとって最も良い教師とは、直近の「自分の失敗」(ミス)です。それを教訓として活かすことが定着に最も有効です。ということは、教師の説明(入力)中心の授業では、ミスが生まれないので「問題発見から問題解決」につながる学びにならないということになります。
その次に影響が大きいのは、クラスの仲間の取り組みや考えです。もし、クラスが間違いやミスを嘲笑されるような雰囲気なら、人前で言うのは恥ずかしいと言う状況になってしまいます。それは、教師の姿勢(入力を中心としているから、間違いを訂正する機会が増える)が原因です。マズローの欲求5段階説の「社会的(帰属)欲求」と「承認欲求」レベルのことが満たされない状況であれば、その上にくる「自己実現」(理想を持ち、それに向けて努力をすること)など夢のまた夢になります。私が、授業は「学級づくり」であると述べるのは、このような関係づくりに配慮しながら授業をしなければ、ワクワクすることなどできないと考えるからです。
教師の説明ではなく、仲間の取り組みや考えが他の生徒へのインフルエンサーとなり、クラス全体が高まっていきます。ですから、「低位の子どもたちでもわかるように」という考えで、稚拙な(簡単な)課題を用意することは、逆に学力低下を招くことにつながります。それは「親御心」ではなく、自律的学習者を育てるという責務の「放棄」です。
イタリアの経済学者パレートは、自説「パレートの法則」の中で、どんな集団であれ、2:6:2の割合で、必ず2割のリーダーが生まれると言いました。小学校では児童会を、そして中学校で生徒会を担当していた私は、この考えに大いに共感し、学校、学年、クラスという組織を有機的に機能させるには、リーダーをどう伸ばすかが鍵になると考えました。
最初から学習を不得手としている子どもたち(2割)にターゲットを絞ってしまうと、上位の2割は活動が限定され、クラスのムードは全体的に停滞してしまいます。むしろ、上位層を伸ばし、仲間に良いモデルを示すようにすることで、真ん中の6割がそれを参考にして頑張り始めます。それにより、下位の2割も引き上げられていきます。
一方、最初から下位の(問題を抱えた)生徒をターゲットにした課題、一から十まで説明が書いてあったり、部分を書き換えるだけのワークシートを用意してしまうと自己決定することがなく、学習にワクワクしないどころか、簡単な(稚拙な)内容に到達したことで満足するような(探求しようとしない)集団に育ってしまいます。
旧友の田尻悟郎氏も北原延晃氏も、私とほぼ同じ考えで、答えを教えない「ペア学習」を母体として、リーダー群を徹底的に鍛えられました。私のクラスでは、それにより自分の力で頑張ろうとする生徒の数が増え、スピーチ、ディベート、エッセイや英詩の取り組みでは、苦手な生徒がリーダーを凌駕するような逆転現象(発想や感性)も生まれました。