◆ わかったつもりの危うさ
国語辞典で「定義」を確かめることは、地図を広げ、羅針盤で正しい方角を確認しながら前へ進むのと同じです。曖昧な理解のまま航海に出れば、やがて「おや?おかしいな」と迷走してしまいます。
「自主的」と「主体的」の違い
「自主的」とは、やることが決まっている活動を、人に言われなくても行うこと。掃除当番のようなものです。
一方で「主体的」とは、目的を理解し、自分で計画を立て、自己調整を図りながら、自分の目標に向けて見通しを持って取り組むような姿勢です。
「主体的な学習者」を育てるには、教師ができるだけ生徒に任せることが大切です。
ただし放任ではなく、まずゴールを明示し、その到達までの道筋を考えさせることが不可欠です。教師が細かく指示を続ければ、生徒は「依存的学習者」となり、指示待ちの姿勢から抜け出せません。
「応用」と「活用」の違い
「活用」という言葉が学習指導要領に用いられているのは意味があります。
「活用」とは、これまで学んだ知識や技能を自分なりに組み合わせて、新しい問題を解決することです。時間を与え、その判断は学習者に委ねなければなりません。
もし、教師が条件を細かく指示したワークシートを配布してしまうと、生徒が自ら考える余地はなくなります。教科書のそれぞれの単元には必ず「学習者自身が自分で解決するための問い」が用意されています。しかし、実際の授業では、その部分も”バカ丁寧”なワークシートを用意し、教師主導で進めてしまうケースが少なくありません。
これは「活用」という言葉の定義を正しく理解していないことから起こる誤りです。
言葉の定義を曖昧にしたまま進めれば、成果が上がらないばかりか、学級の中に「活力」が生まれず、教育活動が閉塞してしまいます。
◆ “斜め読み”したことは蜃気楼
このHPもそうですが、スマホで斜め読みをするだけでは、蜃気楼を眺めているようなものです。
「なるほど」とか「そうなんだ、いつかやってみよう」で終わってしまいます。
「学んだことを具現化する」ためには、自分なりに言語化する作業をしなければなりません。
そうでないと、いつまで経っても、「いつ、何を、どのように」というイメージが湧いてこないからです。人間は、頭に具体的なイメージ(こうなればいい)ができていないことについてはアクションを起こすことができません。
セミナーを行なっていると、いろんな方に出会います。
しかし、どの会場でも共通していることがあります。
受講者は、ほぼ2つに分類できるということです。
研修後、前に進もうとする人は、最後に講師のところにやってきて、こう言われます。
「できていないことがいくつも見つかりました。でも今はスッキリしています。
必ず変えたいです。子どもたちのために」
このような方は、自分の授業の何が問題なのか、何ができていないのかを日頃から内省する習慣を持っています。新しいことを知りたいためにセミナーに参加するのではなく、自分の授業を改善するヒントを手に入れるために足を運んでおられます。それが分かると、パッと目を輝かせられます。煙の出るスピードでノートにメモを取っていかれます。
講師に向けて語られる言葉は、帆に新しい風を受け、加速していこうとする意思表示です。
一方、自分ができていなかったことを初めて認識された方は、一様にショックを受け、ため息とともに無言で立ち去っていかれます。
どちらかというと、何か新しい活動はないか、画期的な指導技術はないかと「まだ見ぬ答え」を探しに来られるタイプ(セミナリアン)が多いようです。日頃から「できないのは子どもが悪い」という考えでは、ご自分の問題点にはなかなか気づくことはできません。
ゴール(育てたい子ども像)が曖昧なので、具体的にどこをどう変えていいのか分からず、努力も必要になり、時間もかかりそうなことから諦めてしまいます。
かくして、今の帆(自己流)を張り替えることもなく、今まで通りの「航路」(教科書を終わらせること)を選んでしまうのです。
Q どちらの教師から、子どもたちが「研修を受けた恩恵」を受けられるでしょうか。
研修は自分のためではなく、あくまでも「子どもたちに還元する」ために受けているのだということ、子どもたちの顔を頭に描きながら研修に参加をすることが大事です。
研究授業を拝見させていただくと、実際にそのような方たちが逞しく成長された様子がよくわかります。
◆ 「矜持」のある教師は苦境に強い
厳しい言い方かもしれません。
しかし、「忙しいから」「今は他にやることがあるから」といった理由で、本を読むことを後回しにしたり、せっかくの研修の機会に参加しなかったり、教材研究や定期テストの作成を先延ばしにしたりするのは、結局のところ子どもたちのためではなく、「自分のため」になってしまいます。
本来、最後のゴール──つまり「卒業の時にどのような生徒が育っているか」という姿を明確に思い描き、そのために授業でどんなメリハリ(軽重)をつけ、どんな段取りで進めるかを考えれば、時間は意外なほど生み出せるものです。
加えて、私たち教師は「専門教科の力を評価され採用され、その働きによって給料をいただいている」存在です。である以上、子どもや保護者に対して「忙しいからできなかった」という言い訳は、残念ながら通用しません。
私たちが教師になったのは、楽をするためでも、部活動で好成績を残すためでもないはずです。どんな状況にあっても、「なぜ自分は教師になったのか」という初心を忘れずに歩み続けること──それこそが教師の矜持であり、教育の本質に立ち返る原点なのだと思います。