「正しい指導」とは、「知識」も「技能」も身につける指導
突然、アイキャッチで発音記号(phonetic symbols, pronunciation symbols)が登場して驚かれたのではないかと思います。現場で混乱が続いている「技能」については、「浮き輪」をメタファーにした説明をさせていただきましたが、今回は違う角度(育った側)からお話をしてみたいと思います。
巷では、新出単語を教師またはデジタル教科書で発音を聞かせ、生徒に“repeat”をさせる指導が多いようです。しかし、それは果たして「正しい指導」と言えるでしょうか。それでは、生徒は具体的に舌をどこにつけるのか、歯はどこに当てるのかがわからないまま、当てずっぽうに発音してしまいます。
大学で教えていた時、教職課程を履修している学生たちに中学校1年の教科書を読んでもらったところ、「えぇっ?」と驚くようなことがありました。単語の発音です。多くの学生が again [əgén]を「アゲイン」, beyond [biɑnd]を「ビヨンド」, alone [əlóun]を「アローン」, really[rí:əli]を「レアリー」, dictionary [díkʃənèri] を「ジクショナリー」と読んでいたのです。しかも、中学校でそのように教わったということでした。同じようなことは、次のような単語でも起こります。たとえば、says, said, heard, enjoyなどです。教師の後から読むときは大丈夫なのですが、発音記号通りの発音をきちんと教え、発音記号の母音の部分を見せながら、間違いやすいことを伝えておかないと、やがてsays [séz] を「セイズ」、said [séd] を「セイド」、heard [hə:rd] を「ヒアド」、そして enjoy[ indʒɔ́i] を「エンジョイ」と発音してしまうようになります。これも “Repeat after me.”指導の弊害です。家庭でも「正しい発音を意識した音読練習」ができるために、「正しい指導」(発音記号通りに発音できるようになる)をすることが必要です。
また、テキストを音読してもらうと、どの学生も平板な読み方で、どの単語も同じように読んでいることに気づきました。たとえば、I think I can do this job. であれば、I→think→I→can→do→this→job. のように一語ずつ順に読んでいるという状況でした。
もし、教育実習に行き、任されたクラスで、間違いに気づかないまま“Repeat after me.”で教えれば「伝言ゲーム」のようになります。教師が「無知」である(最低限、指導すべきことを知らない)ことは、教師を信頼して学ぼうとしている生徒への裏切りになります。そうなったら大変です。そこで、すぐに「正しい指導」(中学校の時に行っていただきたかった指導)を行いました。次の3つです。
【 ⑴ 正しい知識を与える 】
まず、発音です。日本語にはない「l(舌を上の歯茎に当てる)f, v(下唇に歯を軽く当てる)th(舌先に歯を当てる)」はスマホのカメラ(反転)を使ってできるようになるまで指導をしました。さらに母音の[æ/ə/ə:r/ɔ:r]は口の形と舌の位置を、子音の [ sとʃ , bとv , lとr ]の明確な違いも同じように自分の口を確認しながら練習をしました。教室では、スマホの代わりに手鏡が使えます。また、ALT(口元をアップにしてモニターで見せる)と一緒に丁寧に指導をすることをお勧めします。また、できているかどうかも随時確認し、指導を一貫してやらなければ、だんだんいい加減になっていきます。
さらに、日本語の発音は「高低」(ピッチ)なのに対して、英語の発音は「強弱」(ストレス)が特徴であること、英語は「内容語」(一般動詞、名詞、形容詞、副詞、疑問詞、指示代名詞、not)と「機能語」(冠詞、助動詞、be動詞、人称代名詞、接続詞など)に分けられ、内容語だけを強く長く読むのがルールだと伝えました。ほとんどの学生が「初めて聞いた」と驚いていました。そこで、(I) think (I can) do this job. のように( )内の「機能語」を短く弱く読み、「内容語」である下線部だけを強く長く読む練習をしたところ、終わった途端に「おお〜っ」という声が上がりました。
【 ⑵「音の連結部分」「消失部分」を自分で見つける 】
次は、「音の連結」と「音の消失」の部分を自分で見つけられるようになる指導です。最初は「音の連結」についての指導です。学生たちには、「母音は磁石と同じで、前の単語にピタッと吸い付くというルールがある。ローマ字をイメージしてみて」と伝えました。そして、Here is your pen. / in our / such a long のように板書して、「母音で始まっている単語(冠詞を含む)を下線部のように前の単語にくっつけることで、Hereis(ヒィアズ)/ inour(イナワ)/ sucha(サッチャ)の発音になり、連結(リンキング)の発音がスムーズにできます。テキストの中から、母音で始まっている単語を見つけて、前の単語につなげ、そのまま発音してみてください」と言いました。この指導で、今まで one of us を「ワン・オブ・アス」と音読していた学生たちが oneofusと単語をくっつけ「ワナバス」と、cut it out は cutitoutとつなげて「カリラゥ」と読めるようになりました。
「音の消失」については、子音で終わる単語の最後の子音と子音で始まる次の単語の子音が同じような発音、たとえば black coffeeなら、2つ目の子音の c にcoffeeのように「取り消し線」を引き、その子音を飲み込むように発音する指導をしました。これにより、彼らはblack coffeeを「ブラッ・カフィ」と読めるようになりました。また、b, c, d, g, k, t などの子音で終わる単語(dog, bed,など)は最後の子音をあえて発音しないというコツも身につけました。
【 ⑶ 見極め(発音テスト、音読テスト)をする 】
最後は、見極めです。まず、辞書や教科書に書かれている「発音記号」を元に正しく発音する練習を行い、1ヶ月後に私が日本語で言った単語(1年生のテキストで習う単語)を即座に英語で発音するという試験(20問)を用意しました。20問中18問以上正しければ合格というルールです。どの単語が出題されるかわかりません。合格しなければ、再試験となり、再試験でも合格できなければ評価が「Dランク」になってしまいます。それを聞いて、どの学生も毎日本気で練習をしました。
発音のテストが終わったら、次は音読試験です。範囲は、テキスト中のmonologueの文章(自分で選ぶ)です。ルールは「テキストの内容を理解し、ナレーターになりきって聞き手の頭に映像が浮かんでくるように読む」ということです。発音とストレスだけでなく、英語らしさ、滑らかさ、抑揚も評価基準となります。
結果はどうだったでしょう。9割の学生が一回で合格、残りも2回目のテストで合格しました。
そのせいもあって、留学を経験していない学生たちであっても、ネイティブの教員が驚くほど発音や音読が上手になりました。「教育実習で生徒たちの良いモデルになりたい」と願っていた学生たちは自信をつけたと同時にTOEFL, TOEICのリスニングのスコアも上がり始めました。不思議でも何でもありません。先に、自分が正しく発音できないものは聞き取れないと言いました。英語らしく読めるようになるということ、目を早く動かして速読ができるようになるということが、そのままリスニング力に反映されていくからです。
英語という「技能教科」でやるべきこと
「知識」はすぐに得られても、それを実際に自分で使えるようになるには時間がかかります。「技術」は、書籍や人から教わることはできますが、「技能」は自分で身につけなければなりません。英語は「4技能」を身につけることを目指しているので、保健体育、音楽、美術、技術家庭科と同じ「技能教科」と考えられます。
体育を例にして説明してみます。たとえば、跳び箱で何段(例えば7段)跳べるか、鉄棒で逆上がり(順手か逆手)ができるか。これらは、水泳と同じように「技能」です。自分の力でできなければ「評価」されません。教師が、跳び箱で手のつく位置を教えて実際に跳んでみせたり、「こうやるんだ」と逆上がりをしてみせたりしたところで、子どもはできるようにはなりません。
必要なのは「練習」です。多ければ多いほど、習熟できます。友だちの跳び方や逆上がりで手の曲げ方、目線、足を蹴り出すタイミングなどをヒントに自分でさらに練習をします。こうして、初めて「できた!」という感動が生まれます。「技能」が身についた子どもは、さらに欲が生まれてきます。「もっと上手になりたい」という欲です。
「英語」はどうでしょう。
「英語ができる」というのは、テストの点数が高いことではなく、実際にネイティブとやり取りができる、洋画や英語のニュースなどを字幕なしで理解できる、英字新聞や洋書を読んで理解できるということです。いずれも、4つの「技能」を獲得したからこそできることです。
上の体育の例のように、「技能」は簡単には身につきません。練習が不可欠です。さらに、浮き輪(ワークシート)を使った練習から、だんだん「負荷」(使用頻度を減らす)をかけ、最後は「言語活動」(浮き輪を外した活動)にまで高めないと、「できた!」という自信にはつながりません。そのプロセスを、単元全体を見通して丁寧に計画します。「説明による理解」(how to use)ではなく、「実際の使用」(how much they use)を想定した授業を考えるのです。「力がつかない授業」では、やがて生徒から「なんちゃって教師」のレッテルが貼られてしまいます。
そうならないように、マンダラ・チャートで「3年生の最後に育ってほしい姿」を中心に書き、そのためにはどんな指導(活動)が必要かを周りに書いていきます。その中から、優先したいことをそれぞれ名刺大のカード(または付箋紙)に書き込み、それを並べながら、いつ、どこで、どのようにそれをすればいいかを考えてみるのです。令和型学習指導案を書くのはなかなか大変ですが、慣れてくると、逆にそうしないと不安になります。点(今日はこれを教える)の指導に逆戻りしてしまうからです。研究授業でそれに取り組まれた福岡市の3名の先生方は、「今では、単元全体の構成を最初に考えることが当たり前になっています。それをやらないと技能をどうリンクさせるかと言うつながりが見えてきません」と述べておられます。
単元全体を考えると、指導すべきこととして、ALTの話す英語が聞きとれるようになる訓練、キーワードを捉えて質問ができるようになる訓練、即興でやり取りができるようになる訓練、速読速解(読み)ができるようになるための訓練、情報を整理する(書く)訓練などをどこかでしなければならないことがわかります。それを50分のプログラムの中に組み込んでいかなければ、いつまで経っても生徒はできるようになりません。大事なのはその全体計画です。
「聞く力」を高める「正しい指導」とは
「正しい指導」というのは、「できた、聞き取れるようになった」ということを実感できる指導であり、教科書に書かれていることを教えるとか、授業を進めるためのプリントやスライドを作ることではありません。
リスニングであれば、何度も音源を聞くという指導は「正しい指導」とは言えません。聞き取れない部分は、何度聞いても聞き取れないからです。大事なのは、「聞き取れなかった部分」を特化して、リスニングのスクリプトを用意し、強弱をつけて読む、連結部分や消失部分を意識して読む、音源と同じ速さでシンクロ読みをすると言うことです。それができるようになったら、スクリプトを見ないで最初から一気に聞きます。すると、音が浮かび上がってくるようにはっきり、くっきり聞き取れるようになっており、生徒たちが感動します。
リスニングとリーディングはコインの表裏の関係です。リスニングの指導だけでは聞き取れるようになりません。スクリプトを音源と同じように読める指導が不可欠です。特に、英語らしい発音でできるだけ早く読む練習をすることで、「英語の語順」のまま理解できるようになります。それがリスニングにも活かされます。このような力を日常的につけるには、「英語を聞く機会を増やす」(授業の8割は英語で行う)ことが大事になります。
私は、英語検定協会の派遣講師の仕事をしている関係で、スタッフとお話をすることがよくあります。ある時、理事の方が「教師の英語使用量が多い、ALTとのTTで英語によるインタラクションを頻繁に行っているクラスでは、英検3級、準2級の合格率がとても高いというデータが出ています。逆に教師が日本語を多く使っているクラスでは、それがガタッと落ちるんですよね」と言われました。ある意味、「教室中を英語でいっぱいにする」というのも「正しい指導」と言えるように思います。
「正しい指導」を知るには、上述したようなことが紹介されている本、「4技能」を身につける指導について書かれている本を手に入れ、朱書きをしながら読み込むことです。実際に授業で役に立つ書籍を求めるなら、文科省検定教科書の編集著者が書かれているものをお勧めします。なぜなら、学習指導要領のねらいと自分の実践がきちんと意味付けられているからです。何よりも、生徒用のCAN-DOリスト(3段階のルーブリックを含む)、授業実践と定期テストの繋がりを三位一体で取り上げています。
「〜しよう」は、果たして本時の目標なのか
「知っている」と「できる」は違います。「ああ、それ聞いたことあります」(実際にはやっていない)というレベルなのか、それとも「すでに習慣になっている」レベルなのかという差です。以前の記事で、「技能」とは「何も見ないでできること」だと言いました。できているかどうか(技能)は自分ではわからず、他者からの評価で初めて自覚できます。そこが指導のポイントになります。
授業の最初に板書される「本時の目標」を振り返ってみましょう。「〜しよう」と言う指示になっていないでしょうか。それは、本当に生徒が「やってみたい!」と思う内容でしょうか。教師がやりたいことになっていないでしょうか。授業の目標とは「到達目標」です。教科書には「〜しよう」とか「してみよう」と書かれていますが、それをそのまま「本時の目標」にしてしまうのはNGです。学習指導要領に書かれている「つけたい力」を意識させるのは教師の責務です。
確かに、「どの子もわかるような授業がしたい」という思いは、すべての教師に共通するものです。しかし、「自分(教師)の力でわからせたい」と考えてしまうと、とんでもない方向に向かってしまいます。
「しよう」にした場合、どういう視点で「できたかどうか」を振り返るのでしょうか。その基準が示されていなければ、振り返りでは「感想」しか書けません。そう考えると、生徒に「何が、どこまで」という具体的な数値も書かれたCAN-DO(3段階のルーブリックが入っていること。定期テストとの関連が具体的に示されていること)を渡しておくことがいかに重要であるかがわかります。教師が「〜しよう」いうアバウトな「行動目標」にしてしまうのは、それができていないことが原因であるように思います。
「〜しよう」という目標を立てがちな教師は、本時の課題を苦手な子どもを対象とした簡単な内容にしてしまいます。これは、苦手な生徒が最後まで授業について来られるようにしたと考えてしまうからです。しかし、残念ながら「すぐに終わるような内容」や「練習レベルで深まらない内容」では、上位の生徒が早々と終わらせてしまうか、途中から飽きてしまいます。するとどんどん「私語」が増えていきます。大事なのは、上位の生徒の考え方をモデルにしたり、答えを教えずに「ヒント」を与えるような協働学習( peer learning )を展開することです。そのためには、どの子にとってもわくわくするような課題が必要になります。
「〜できる」になっている場合、教師は授業終了の15 分前には「本当にできたかどうか」を自分で確かめられる言語活動を用意します。そうでないと、振り返ることはできないからです。入口(導入)と出口(確認)が一緒になっていれば、子どもたちは見通しを持って活動をします。一方、「〜しよう」という課題の場合、「できたこと」の確認はしなくても子どもたちは違和感を持ちません。
「知識」を手っ取り早く手にいれるには「教師のわかりやすい説明」が必要だと考え、そのような授業を目指していると、どうしても「指導技術」にばかり目が向かってしまいます。すると、どんどん教師の説明の時間やプリントの量が多くなっていきます。教え込まれた生徒たちは、実際に自分ができているかどうかを確かめないまま授業が終わってしまうので、「わかったつもり」になります。
その後、教師はパフォーマンステストや定期テストの結果に愕然とします。「どうしてできないんだ?あれだけやったのに…」と頭を抱えてしまいます。しかし、それは先を急ぐあまり、知識が本当に「技能」として使えるかどうかを確認することを怠ってしまったためです。
大切なのは、単元の最後のゴール(つけたい力)を単元の最初に知らせておくこと、そして途中で「中間評価」の場面を作り、他者評価、自己評価を行い、現在地を知らせることです。さらに、ゴールに向かって学習の「自己調整」を図り、最後は「できた!」という実感が得られること、そして仲間の良い取り組みに刺激を受けて「主体的に学習に取り組む態度」を育てるというプロセスです。
教科部会で「技能」を高める指導のコンセンサスを
一人の若い先生が、セミナー終了後に残っておられて暗い顔でポツリと言われました。
教科部会で、子どもたちにマンダラ・チャートを使ってキーワードから連想する質問づくりやインタビュー・マッピングをやってみたいのですが、と相談したら、ベテランの先生から猛反対されました。『無理、無理、彼らにそんなのできっこない。あなた、学年の実態わかってるの?教科書はちゃんと最後まで終わってね。そんなことやってて学年の平均点下げないでね』と言われてへこんでしまいました。デジタル教科書をトロンとした目で見ている生徒を見ていて危機感を持っています。なんとか、英語でインタラクションができる子どもたちを育てたいのですが…。
ベテランと呼ばれる先生の中には、長年の経験から自分の型ができてしまっていて、「いくら学習指導要領が変わっても、今さら指導を変えたくない」と考えてしまう方もおられるようです。勤務校にそのような先生がおられる場合、人間関係でギクシャクしたくないという思いから、やりたいことを諦めた、そのうち新しいことに挑戦することが億劫になった、という経験はなかったでしょうか。
確かにデジタル教科書のコンテンツの内容はよくなってきています。ただ、教科書会社がその完成度を高めようとすればするほど、生徒は考えなくなってしまいます。それを使うことにより、生徒はまるで映画や番組を見ているような気持ちになります。
しかし、「教材」としてはどうでしょうか。生徒たちの想像力を高めることはできているでしょうか。
丁寧すぎること(情報を与えすぎること)や予定調和の流れにしてしまうことは、「わかったつもり」になりやすいこと、生徒の自由度を奪うこと、想像力を欠如させることにつながらないでしょうか。1つの場面(型)を提示することにより、試聴した後は金太郎飴のように同じような表現が出てきているように思います。私は、そのような授業に出会うと思わずブロイラー(鶏舎)を思い出してしまいます。
昔、JAWS や EXORCIST を洋書で読んだときは、その描写から場面を想像して震え上がりました。しかし、その後で見た映画はがっかりさせられました。リアルな場面は登場しましたが、自分が想像した世界とは似ても似つかぬものでした。Harry Potterシリーズを読んだALTも1作目の映画をみて失望し、「もう映画は見ない」と言っていました。
日常のコミュニケーションの場面では、実物が用意できるとは限りません。話される内容、書かれた内容から判断しなければなりません。言語(母語や外国語)を学ぶということは、想像力を豊かにし、それを「相手の立場や意向に気づける能力」につなげることにつながります。最初から「出来上がったもの」を与えるのではなく、不完全なものを与え、何が足りないのかを考える、どう並べ替えたら論理的になるかを考えるなど、子どもたちを「主体」にした活動にするのが教師の授業デザインです。
先ほどご紹介した若い先生は、デジタル教科書が当たり前になった中で、子どもたちをもっとワクワクさせたい、夢中になって言語活動に取り組んでもらいたいという思いを持っておられました。なんとか応援してあげたいと思い、私は松本 茂先生監修の『生徒を変えるコミュニケーション活動』(教育出版)をご紹介しました。中1を蒔田 守先生、中2を山岸信義先生、中3を中嶋が、高1を向後秀明先生が分担執筆しているものです。特に、蒔田先生が書かれた「Show and Tell」の指導は全ての言語活動の土台になること、それこそが「技能」を高める不易の指導であることをお伝えしました。皆さんの中で、この蒔田先生が書かれた原稿をまだ読んでいないという方がおられるとしたら、あまりにもったいないことです。蒔田先生の「中1の現在進行形の指導」同様、きっと目が点になるはずです。参考 https://nakayoh.jp/2024/08/20/


せっかく「正しい指導」に出会いながら、ルールや手順を飛ばしてしまい、やがて「伝言ゲーム」のように其処彼処(そこかしこ)が「自己流」になっていないでしょうか。それを振り返ってみることが大事です。「生徒が乗ってくるから」という理由だけで、安易に活動(練習)を選んでいないか。単にビンゴや英語の歌を楽しんでいないか。それが、どんな力をつけるためのもので、その後、どんな言語活動につなげるのかは、きちんと計画されているかをチェックするのです。一人(主観)ではなく、仲間とやることで「客観」(正しい指導)になります。
自分で「これでいいのだ」と思い込んでしまうと、違う山の頂上に向かっていることがわかりません。やがて、なかなか力がつかないことから、どうもおかしいということに気づきます。しかし、今更後戻りすることもできず、イソップ物語の「酸っぱい葡萄」のように、「正しい指導(向こうに見える山)の道は険しいに違いない。向こうに行っていたらきっと大変だったろう。まあ、こっちで良かったんじゃないか。思い出もできたし」と言い訳を考えてしまいます。しかし、自分が担当した生徒たちにとって、本当にそれでよかったのでしょうか。それを考えてみなければならないと思います。
「こうなりたい」「こんな授業がしてみたい」が、教師を成長させる
「how to 本」は、オムニバスで「指導技術」が登場しますが、残念ながら「何のために」という目的や「コミュニケーションの必然性」が薄く、情報を整理し、考えを形成する上で不可欠な「思考ツールを使った指導方法」や「メタ認知能力」を高めるためのプロセスが紹介されていないものが多いようです。また、表紙や帯に書かれた「誰でもできる」とか「驚異的な効果」といったセンセーショナルな文句が書かれています。多くの場合、それは著者が考えたものではなく、出版社が「売るため」に用意されたものですが、そのような言葉に飛びつくと当てが外れてしまうことがあります。
お勧めは、学校の同僚、または友人と「今まで読んだ本でお勧めの本はどれか。それは何故か」という話をすることです。それによって、納得できるようになります。自分が今まで知らなかった「目から鱗の指導」を知る機会にもなります。ぜひ、やってみてください。
1980年代、全国で中学校が荒れていた時、授業をなんとかしたいという思いからセミナーやサークルが盛んに行われ、書籍を読んで研鑽される先生方が数多くおられました。そのムーブメントはその後もずっと続きました。しかし、最近はネットで簡単に情報が手に入ること、学習指導要領を正しく理解されていないこと(量が多いのが原因なのですが)、説明やプリントだらけの授業に違和感を持っていないことなどから、研修会に足を運ぶ若い先生が減ってきているようです。
私が全国で拝見する若い先生(小学校、中学校)の授業は、デジタル教科書の進行役を務めるような授業、ワークシートを見ながら話す活動や英文をノートやワークシートに書いてから発表する指導する授業(文科省の意向と真逆)などが散見しています。これは、よいモデル(優れた授業実践)をご存知ないこと、自分の到達目標をもっていないことが原因であるように思います。
研修会、サークルに行くと、先輩や後に同志になる仲間に出会えます。彼らから多くの情報を得たり、実践を知ったりすることができます。「この本は読んだ方がいい」「この先生の実践は役に立った」といった情報、「生徒指導のコツ」「不登校の生徒への対応」なども紹介していただけます。そして、研修会で出会った方で「この人の授業を見たい!」と思った方がおられたら、年休を取ってでも見に行くことです。県外視察を活用できるなら、普段から書籍等で「優れた授業」を探しておくことです。その方がクラスの生徒と共に醸し出す圧倒的なエネルギーは「ライブ」でなければわかりません。
以下にご紹介するのは、生徒一人ひとりの「技能」を高め、個別最適な学びと協働的な学びを融合(または往還)させながら生徒たちの学力を高め、心を育てておられる先生方です。私が責任を持ってお勧めします。ぜひ、授業をご覧になり、教師(ALT)と生徒が醸し出す圧倒的なエネルギーを感じ取ってみてください。
池岡 慎先生(広島大学附属福山中・高等学校)胡子 美由紀先生(広島市立美鈴が丘中学校)松田 由紀子先生(福岡市立原中央中学校)栗橋 ゆかり先生(東京都町田市立金井中学校)本田 大輔先生(東京都北区立飛鳥中学校)八木 一真先生(福島県新地町立尚英中学校)TTがらみでは、矢野 和樹先生(福岡市立柏原中学校)阿南 翔平先生(福岡市立城香中学校)上野 正純先生(福岡市立三筑中学校)参照https://nakayoh.jp/2025/03/15/