🟢「中嶋塾@東京 2023」 4月例会レポート(全3回)

    「利他」も「利己」も、授業に表れる

 最初の”アイキャッチ画像”は、富山県砺波市で行っていた旧中嶋塾(平成17年〜21年)の足跡をまとめた冊子です。それ以降、大阪(関西外大)に移ってからは、吉田達弘氏(兵教大)、今井裕之氏(関西大)、柳瀬陽介氏(京都大)などと一緒に「地球市民を育てる教師のための研修会」(平成19年〜29年)を、そして大阪府中学校校長会長の宇治和比古氏と共に全ての教科の授業をストップモーションで視聴し、助言する「NU〜の会」(平成20年〜25年)を開きました。

 また、菅 正隆氏、田尻悟郎氏、高橋一幸氏、久保野雅史氏、田村 壽氏らとのジョイント・プロジェクト「英語教育ゆかいな仲間たち」は、指導主事時代から始めてもう20年にもなろうとしています。北海道から沖縄まで様々なところに伺い、セミナー、校内研修、授業見学などもしてきました。特に、「高知市」「福岡(YokoYokoネットワーク)」「南筑後地区」「小樽市」などは長期に渡り、継続して関わらせていただきました。

 本年3月に大学を退官し、「英語わくわく授業研究所」を立ち上げましたところ、多くの方から「その後」に向けての熱いリクエストをいただき、その重責を感じています。

 今回は、その1つである「中嶋塾@東京2023」(令和5年4月23日、東京都北区飛鳥中学校にて開催)についてご報告します。先にご紹介した「地球市民オンライン塾2023」の報告とは趣を異にしています。受講生の方々がそれぞれ学ばれたことを、ある方は「実況中継」で、またある方は「エッセイ」で紹介いただくというものです。

 少々長くなりますが、学校体制や授業の現状に問題を感じている方々が、見つけた改善のヒントについて書いておられますので、参考になさってみてください。なお、内容は、第1部〜第3部の3回に分けてご紹介します。

🟠 4月例会【第1部】

⑴「ない」ものから見つかった「ある」もの

 無意味な指示や説明が「ない」−。講座の間、集中が途切れ「ない」−。ワクワクが止まら「ない」−。こうして第1回中嶋塾の幕が開けた。これが本当の「学び」なのか?貢献しながら、それぞれの「自己更新」を目指す。自ら学びに向かい、新しい視点をつかみ取る。教師の凛とした佇まい、隅々まで見渡す目線、練りに練られた発問。それらの中に、私たちが肌で感じた学びがあった。

 教師が答えを教えるのではない。学習者が自ら学び取る。すべての活動に意味がある。それがスルスルと「伏線」になり、様々な場面でつながっていく。

「あっ、そういうことか!」、ひらめきや発見は「学び」に。「どういうことかな?」、そんなモヤモヤした「疑問」も同じく「学び」に。これが「伏線」であり、次の学びにつながる「のりしろ」となる。伏線を張り巡らせ、回収した喜びを共有させる。そういう授業を作ることが教師の務めだと、痛感させられる。アクティブは「能動的」ではなく“脳働的”。頭脳がアクティブになるために、数々のしかけがある。

 例えば、I went to Asakusa yesterday.に対して、What did you buy there?と尋ねられたら、 I bought … といった答えに行き着く。そこから発展させるのは困難だ。しかし、Why did you go there? なら、どれだけでも深掘りできる。「切れる発問」ではなく、「つなぐ・広がる発問」だからこそ、興味・関心が生まれる。演出をしよう。映画のようなダイナミックさ、演劇のような臨場感、そしてショーのようなワクワク感を求めて。変えよう。授業に流れを作り、話すときに「間」を作り、生徒を「主役」にした授業に。疑問、興奮、驚き。思わずハッとするような瞬間を、ストーリーとして作り出す。伏線を張り、たくさんの気づきが生まれる。

 教師は演者であり、監督であり、演出家だ。時にわざと間違え、注意を惹きつけるのもいい。1回で完結させず、次の授業で気づかせてもいい。答えを探し当てるまでのモヤモヤした気持ちがあれば、脳がアクティブになる。そこには深い学びが「ある」。

⑵「知りたい!」という瞬間をどう生み出せばいいのか

「みなさん、4つのテーブルを見てください。ここには、これまで積み上げてきた私や同志の叡智が詰まった資料を並べています。このテーブルには、校内研修の研究紀要、研修報告書、生徒の声が詰まったアンケート。そして、ここは生徒が成果物として仕上げた英語のエッセイや卒業文集。こちらには、自作の感動教材DVD、大学生と制作したパワーポイント集。書籍化されなかった幻の本。そして、ここには、教育実習生に向けた実習の手引きやALTの研修資料があります。さあ、みなさんはどの資料が読みたいですか。グループで話し合い、どのテーブルに行くかを決めてください。じっくり読む時間を取ったあと、そのテーブルで集まった人同士で気づきを交換しましょう。そこで得た情報を、ホームグループに戻って共有してください」。

  脳がヒートアップし、佳境に入ったところで、塾長はそう言い、午後の研修を始められた。この日、2回目のジグソー学習だ。他者の意見を取り入れ、自分の考えを深めていく活動。この一連を支えているのは、「思考」と「言語化」の繰り返しだ。得た知識を、言語化できること。これが「概念の形成」に必要な第一歩となる。学びの「必要感」。並べられた資料には、私たちの「知りたい!」が詰まっている。

 私は「校内研修の研究紀要」がどうしても読みたかった。本校の校内研修を活用して、教師の授業力の向上を目指しているからだ。「ごめん、私に行かせて。必ず、情報ゲットしてくるから!」同じグループで希望が被ったが、頼み込んで、目指すテーブルへと向かった。

 そして、向き合った一冊の研究紀要。古びた冊子を開いてみると、そこにはこんなことが書いてあった。「学び方を身につける学習を推進する」。

( 学び方? 首を傾げた私の横には、いつの間にか塾長が立っておられた。「私が研究主任をしていたとき、それまでの学習指導案を載せるような形式をやめたんですよ。一人ひとりが編集長になり、見出しも工夫するんです。仮説を立て、授業実践を通して分かったことを見開きの2ページで書くようにしました。最後は、どの書き方、どの内容に惹かれたかを投票し合うんです。すると、先生方はどうなったと思いますか?」「書きっぱなしではなく、読み手に伝わるように書かれますね。何より、出来上がった冊子を真剣に読むようになります」。塾長は笑って言われた。「ビンゴです!」)

 個々の教師は、思い思いにやってみたいことを選び、最初に仮説を立て、1年かけて検証する。学校の研修主題からおろした「個人研究主題」を定めることで責任感が生まれる。たとえ、それが小さな取り組みでも、1年間継続して続けることで必ず成果が表れる。一見、バラバラにも見える研修だが、教師の個性や多様な考えに支えられ、逆に研修が「当事者意識」で捉えられる。最後には「生徒の評価(声)」を検証の証拠として提示することで説得力が増す。だから、教師は授業をやりっぱなしにせず、必ず生徒の評価を読んで意味付ける。次年度にそれを活かすために、冊子に書き残す。まるで「リレー」を見ているような取り組みである。

 大切なことは、何事も「自分ごと」にすること。校内研修もジグソー学習。中嶋塾もジグソー学習。バラバラの課題であっても、互いに学び合いがある学習。自分で選び、自分で決める。責任をもって伝え合う。「自己選択」と、「自己決定」が、自分の学びを加速させる。関わり合えば、互いの学びも加速する。「知りたい」を生み出す仕掛け。それは、学習者のニーズに合った課題を、複数用意すること。自分で選び、自分で決め、伝え合うことを通して獲得するという、当該者を主体的にする「ジグソー学習」がそこにあった。

⑶「つながる」って、なんて楽しい

  フィンランドではMiksi(Why)?が大事にされている。でも、なぜ? それは、学習者が求める「納得解」こそが本当の学びだからだ。テストで出題される「唯一の正解」ではない。塾長に言わせると、事実発問は「切れる発問」。答えが出れば「はい、おしまい。では、次」と言う学習。推論発問と評価発問は「つながる発問」。個々の生徒が”Why?”と”How?”で深掘りされる。他の生徒たちを傍観者にしないこと。“Do you agree? Why?” “What about you?” こうすると、次々と発言がつながり、生徒同士がつながり、心もつながっていく。だから、授業は「学級づくり」。

 中嶋実践から学ぶのはWhatとHowの融合であり、WhichとWhyの調和。そもそも、その活動の目的は?目標は?なぜ、ここで活動を止めたのか?一挙手一投足に「意図」が存在する。だから「振り返り」は「まとめ」ではない。「わかったこと」や「知ったこと」ではない。自分が「思考」したことを履歴として残すためには、「どう次に活かすのか」が抜けてはならない。なぜうまくいったのか?なぜうまくいかなかったのか?

 「仮説」と「検証」は、教師年輪を作る「物差し」になる。Why? で問いかけ「原理原則」を掴んでいく。How? で「目的と戦略」「目標と戦術」を具現化する。なぜ英語を教えるのか? どんな人間に成長してほしいのか?なぜ、この時期にそれを教えるのか?

 すべてはつながっている。いや、最初からつながっているわけではない。つなげていくのが私たちの仕事だ。(【第2部】に続く)

【第2部】の予告です。

 ⑷「卒業文集」- 赤茶けた生徒の感想が教えてくれたこと

 ⑸「私の教師年輪」― 紙芝居づくりから見えてきたこと                               

 ⑹ ちょっと待って!「それは何のためか」を生徒に説明できますか?                   

🟢 4月例会 【第2部】

⑷ 「卒業文集」- 赤茶けた生徒の感想が教えてくれたこと

  なぜ、中嶋先生は10年間もハードカバーの卒業文集を作り続けたのか。 ずっしりと重く、分厚い文集の数々は、正に、生徒たちの心を耕す「戦術」となっていた。英語で自身を理解し、言葉を選び、思いを伝える。「ワクワクする気持ち」が「目的」(これを伝えたい)に向かい、「こんなことを表現したい」が「到達目標」(願い)となる。

卒業文集の題材は実に多岐に渡る。夢、恋、友人、家族愛、自然、環境、身近な人、日常生活など表現形式も多種多様。poemあり、二人による紙上ディベートあり、ポスターあり、4コマ漫画もある。イラストは手書きだ。お気に入りのスクリーン・トーンでデザインする。仲間が作品にコメントを寄せる。一人ひとりが1ページの編集長だ。工藤直子氏の作品をヒントに書いた「なりきり作文」、パソコンの統合型ソフトで作られた「創作童話集」、修学旅行後は「後輩に伝える”Best Place to Visit”」の英字新聞集。「卒業文集」は、そんな3年間の集大成となっている。 圧倒されたのは、中3の生徒たちが書いた、赤茶けた感想文の数々だ。

(みんな、何度も書き直したんだろうなぁ。そこまでこだわりを持たせることを、私は今までしてきたのだろうか。間違いがなければそれで受け取っていた..。)

(学んだ言葉で、ずっと心に残るものを作る。英語がその手段になっているって素敵だと思う)

(塾長は、後輩の読み物教材や自己表現のモデルにするために作っているって言われた。決して自己満足や思い出作りじゃないんだ…。)

(これが中学校最後のゴールなのか。最後はここにつながっていくんだ。だからBackward Designが大事なんだ…。)

 自分がこだわって「自己表現」したことは、仲間の作品も読みたくなる。「そう来たか」「そういう見方もあるな」。周りの作品に触発された途端、無償に書き換えたくなる。そこから、また新たな編集が始まる。「思考・判断・表現」が織りなすこだわりはエンドレスだ。思いが「スパイラル」に昇華していくプロセス、それは、まさに中嶋塾の初日で学んだことだった。下線(出力)のゴールなくして「入力」は成り立たない。

1. input for “output” ● 伝えたい思いがあるからこそ人は学ぼうとする

2. 教育 for “人格形成” ● 人格は教えられるものではなく、育てるもの

3. 学習 for “概念形成” ● 学びたいのは知識ではなく、様々な捉え方や考え方

4. 評価 for “自信・意欲” ● 適切な評価が、学習者の「できた!」「もっと!」を引き出す

5. ペア活動 for “協働・自立” ● 一人ひとりが自立できるための協働学習

6. 研修・授業 for “自己更新” ●「振り返り」とは「自己更新」(新しい自分)の足跡

いずれも、根底にあるのは「何のため」という目的が明確なことだ。

⑸ 「私の教師年輪」― 紙芝居づくりから見えたこと−

 塾生たちは、校内研修の紀要(個人研修の足跡)や「卒業文集」をはじめとする塾長の「教師年輪」(成果物)の数々に圧倒されていた。それを見て、塾長がおもむろに口を開かれた。

「では、机の上のスケッチブックを開いてください。今から、皆さんの教師年輪を紙芝居にします。年表ではありません。自分が変わったという経験を掘り起こしてください」。

(なるほど、そのためだったのか? 朝から机の上に置いてあり、ずっと気になっていたスケッチブック−。  

 今、腑におちた)

  活動の内容はこうだ。

① スケッチブックを横にして、ページの左側半分に木の年輪を書く。

② その中心に自分が教師になった年齢を書く。

③ 年輪の1つ1つに自分の年齢を書き、ターニング・ポイントとなった事象について、その年の年輪の輪に詳細に書き込む。年表ではなく、自分が変容した年を特化する。

④ その事象からページの右側に線を伸ばし、それによって自分は何が出来るようになったのか(自分が教訓として得たこと、今も活かされている内容)を具体的に書く。

⑤ ①~④を元に、自分の「教師人生」(教師年輪)について紙芝居の絵コンテを描き、 語り部となって発表する。ページは最大5枚まで。

(ブツブツ、時に天井を見上げながら思い出している塾生)

塾生たちが仕上がりそうになくて、焦っている様子を確認してから、塾長が言われた。「時間延長請求権をあげます。何分欲しいですか?指で示してください」。塾生たちは、それを聞いてホッとし、一斉に指で自分が希望する数字を示した。(全体を確認した後で)「では、あと3分さしあげます」。

 正に『自己決定』だ。自分で申告したのだから、そのなかでなんとか書き終えなくては、と無我夢中で書き続ける私たち。そのとき、塾長のこんな声が、ペンを走らせる私たちの背中越しに聞こえてきた。

塾長「先生方、まさか最初からアバウトに『10分』なんて言っていませんよね?」

(私はいつも、最初から時間をたっぷり与えている。だから間延びしていたのか? 短めにセットして、途中で自己申告できるようにすれば、見通しが生まれる…)

 指で自己申告した後、部屋の空気はガラッと変わっていた。

(「ギアをシフトする」「転調する」とは、こういうことか…)

 ところで、私は悲しくなるほど絵が下手だ。他の先生の絵を見ると、カラフルでとても上手。だんだん自信がなくなっていく。そんなときに、また中嶋先生の声が聞こえてきた。

塾長「絵は、丁寧に描かないことです。丁寧に準備をしてしまうと、逆に知りたいという気持ちが消えます。少しくらい下手に描く方が、関心が生まれていいんですよ」。

 丁寧に絵に色を塗り始めるなど、作業に入る受講生が増え始めた矢先だった。

塾長「教師が仕上がったものを用意して理解させようとするのではなく、あえて不完全なものを提示し、知的にハングリーになった学習者と共に授業を紡いでいくことが大事です」。

(さっとノートを取り出し、メモをする受講者、ブツブツ頭の中で反芻をしている受講者)

 1人目の先生の人生紙芝居がはじまるところで、塾長より指示が出る。「一番よかった人は、みんなの前で代表として発表してもらいますね」。一人目が終わり、次の人に入ろうとしたのをみられた塾長がボソッと呟かれた。

塾長「活動を拍手で終わっていませんか? 質問ができないということは理解できていないということですよ。プレゼンは、内容を深掘りするための大切な素材ですよ」。

(しまった!質問もせずに、次の生徒の発表に移る指導。それって、いつも私がやっていることじゃないか…)

 塾生たちは、慌てて質問をし始めた。1人目の先生は、先輩から教えられた教員としてあるべき姿、部活指導の失敗談などを、笑いを交えて発表された。1人目の先生の発表終了されたとき、絶妙なタイミングで、塾長から「これから10分休みます」という指示。(全員キョトン。え? 準備したのに、続けてやらないの?)

塾長「10分の休憩が入ったことで、何がしたくなりますか?」

塾生「修正したくなります」「一部、変えたくなりました」「しめた、時間ができたのでもっと練習しようと思いました」。

 実際、私も、1人目の先生の発表を聞きながら、「ああ、ユーモアがあると聞いていて楽しいな」「自分のここの部分、ちょっと直した方がいいかな」と数々の気づきが湧き上がってきており、自分の紙芝居に修正を加えたくなってきたところだった。だが、修正の時間がなければ、そのまま練習した通りにやってしまう。

 塾長「全員が順に行う。何のためですか?」(一同シーン)

 塾長「成績のためですか? 全員が一斉にやるのは当たり前ですか?」(また、ドキッ)

塾長「表現力を高めたいなら、一気にやっても効果はないですよ。保健体育で跳び箱の授業をする場合、毎時間、跳んだ箱の段数を記録しますか? 最後に力が発揮できるようにするために、途中で良いモデルに触れて自己修正できる場面を与えることです。だとすると、教師は、評価計画を立て、この活動は何のためか。どんな力をつけるためか。評価をするのか、しないのか。それを生徒にも伝えておくことが大事になりますね」。

(そんなこと、考えたこともなかった。全員を時間内に終わらせることにばかり必死になっていた… )

 一同、カチッと心のスイッチが入ったように、熱心に自分の紙芝居の修正を『「脳」動的』に行っていた。休憩後、1人ずつ立って、紙芝居を再開。色んな先生から出てくる、失敗談。気が付くと、1人目の先生の発表時には緊張していた教室内の雰囲気が一変していた。他のグループからも笑いと共に、苦労した経験談が聞こえてきた。

 いよいよ自分の番だ。頭の中で流れはできていたはずだったが、先生方に質問され、やり取りをすると、しどろもどろになった。まさしく『導管メタファー』。伝わると思っていたのは自分だけ。頭の中で練習するのではなく、実際に何度も「音読」してみることの大切さを思い知った。紙芝居はまさに、授業そのものだった。(フーッ、とため息)

 最初、思ったほど「教師年輪」がなかったことに悲しくなっていた。だが、終わってみると、不思議なことに、「今の私は、この年輪から出来上がっているんだな。つらいこともたくさんあったけど、全部、意味があることだったんだ」。そう思えた。何だか、今まで出会った生徒たち、同僚に感謝をしたくなるような、そんな気持ちになれた。

 紙芝居が終わった後、中嶋先生はそのまま次の内容へ移っていかれた。「あれ、代表の発表は結局やらないのかな?確かに1人1人の発表に、結構時間かかったしなぁ。でも、もしかしたら、中嶋先生、忘れてらっしゃるだけかも」「モヤモヤ」しながら、授業が続いた。

 そうこうしているうちに、時刻はちょうど17時になろうとしていた。

塾長「それでは、最後に紙芝居で1番よかった人を選んでください。次回の授業は、まずその人たちの発表から始めます。その方にアドバイスをしましょう」

(ええっ? 目が点になる受講者)

 みんなが頑張ったことを、来月につなげるなんて、まるで映画の予告編。最後をあえて中途半端にすることで、意識を残すという荒技、いや奥義ー。 「モヤモヤ感」の『伏線回収』―。

(やられた…。間違いなく、次につながる。しかもバージョンアップして…)

  実は発表後も、私は授業を受けながら、自分の気づきを紙芝居に重ね、「ああ、あそこ、こうすればよかったな」「これ言うの、忘れてた」と自己反省を繰り返していた。紙芝居の直後に代表を決めていたら、意識がプツンと切れていただろう。でも、そうしなかったことで、自然に、ああでもない、こうでもないと考えていた。また、最後に代表を選んで終わることで、再度、お互いよかったところを褒め合い、研修を温かい雰囲気で終わることができた。全てがつながっていた。いかに、教師の「脚本」が大事であるかを痛感させられた。

 こうして、1回目の塾が終了した。(脳みそが心地よい筋肉痛だ…)しかし、「振り返り」(まとめではなく、マイ・アクションを申告)をしなければ、いつまで経っても活用はできない。そこで、研修中の気づきを通して学んだ「原理原則」を振り返ってみたい。

①「中間発表」後に休み時間を取る、という「振り返りの時間」を入れることで、生徒のやる気に一気に火をつけることができる。(「中間」の指導をどこに取ればいいのか?)

②「視覚情報」や「聴覚情報」を生かして自己紹介を行うことで、『メラビアンの法則』を実感できる。(五感を活かすとは?)

③ 中嶋先生のHP原稿の原案を書くという「成果物」(output)があったことで、学習の必要感(学んだことの紹介で終わらせないinput)が生まれる。(学習者に「こだわり」が生まれる成果物とは?)

  HPの原稿を作成するということで、全国の読者の方々に向けて「端的で、わかりやすく書くためにどうするか」という「目的」が生まれた。それによって、グループ全体でお互いの原稿を推敲する中で、中嶋先生が3月から1ヶ月かけて、グループメールで何度も言及されていた「利他」の意味—仲間を思いやり、互いに相手の立場になる、仲間のために行動しようとする、そんな心情の大切さを理解できた。

「相手のために、という『利他』の心が根底にない限り、何を学んでも吸収することはできませんよ」。

 塾長の言葉に、誰もが納得して頷いていた。

⑹  ちょっと待って!「それは何のためか」を生徒に説明できますか?

  時計の針は17時を指していた。午前9時過ぎから8時間続いた研修は、あっという間に終わった。「脳がアクティブに働くと、こんなにも時間を忘れてしまうものなのか?」「私たちもこんな授業ができるようになりたい!」塾生たち全員の目がキラキラし、心がワクワクした瞬間だった。しかし、実は、研修が進むにつれて、今まで考えたこともないようなことに遭遇していた。 いくつか、その場面を再現する。

塾長「共同、協同、協働の違いを説明できますか」。

  しどろもどろになった塾生は、国語辞典の定義を調べるうちに、どの顔もハッとしていた。学校の仕事のほとんどが「共同」(分担)になっていたなんて初めて知った。学校は、本来、「協働」(目的を知り、ワン・チームとなって取り組むこと)をする場所なのだ。「そうだったの かぁ」と感慨に耽る間も無く、次の問いが飛んできた。

塾長「自主的と主体的の違いは何ですか? なぜ、文科省は主体的という言葉を使っているのですか?」

(え? 主体的って積極的ってことじゃないの?いや、待てよ、じゃあ、自主的とどう違う んだろう?)

塾長「『主体的』とは、状況に応じて、自分がすべきことが何なのかを考えて行動ができることです。ですから『何のため』を考え、最後はどうなるかを早めに想定します。さらには、臨機応変に修正もできます。一方、『自主的』とは、あらかじめ決められたことを率先して実行・実践することを言います。例えば、挨拶や掃除をするといったことは言われなくてもできます。しかし、状況が変わると、パタっと動けなくなります」

 (自主性にばかり目が向いていた…。そればかり褒めていた…)

塾長「いつも通り、例年通りを踏襲している学校、授業でタブレット端末を使うことを目標にしている学校、学校全体に目標の目的化(目先のことを終わらせることを目指す)という文化が染み付いている学校にいると、教師は『主体的』ではなく『自主的』のレベルで終わってしまいませんか?」

 (確かにそうだ…。うーん、反省)

塾長「職員会議、学年部会、教科部会で出される要項や文書の中に、抽象語が出てきますが、 国語辞典で調べた定義が載せられていますか? それがないと、バラバラの認識で取り組むことになるので、途中から『こんなはずではなかったのに』ということが出てきますよ」

 (あるある、何度もあった。冷や汗)

 共通理解しておくべき定義は、「わかっているはず」でスルーされている。どの国語辞典を調べても、「主体」は「自覚や意志に基づいて行動したり、作用を他に及ぼしたりする存在」と書かれている。だとすれば、授業の「主体」は、教師ではなく「学習者」。教師の「教え込み」や「予定調和のプリント学習」は「学び(気づき)」にはつながらない。言葉の定義を曖昧にしたまま、「わかっているはず」でスタートしている学校。それゆえに起こる様々な混乱、学力低下。うーん…。塾長は、さらに続けられた。

塾長「では、目標と目的の違いは何ですか。富士山の頂上を目指すのは目的、それとも目標?」

 (目標? あれ、目的かな? どっちだろう…)

  目的は「何のために」で問えること、目標は「どこまで、どれだけ」という水準だという。そういえば、運動会の「目標」は考えたことがあった。成功と感動。でも、何のために運動会をやるのか?「目的」はなかった。合唱コンクールの「目標」は優勝。それを目指して担任は鬼のようになり、生徒に朝練を課す。しかし、それで生徒に「どんな力をつけるのか」ということなど考えたこともなかった。

塾長「教師が目的も考えずに、アバウトな目標を与えてしまうと、思考することやプロセスがおざなりになってしまい、学校で反社会的な行動、非社会的な行動が増えますよ」

 全員ドキッとした。さらに、ショックだったのは、「戦略」と「戦術」の違いについて考えたときだった。戦略とは、ゴールが決まっていて、途中で変えないことであり、戦術とは、戦略のために臨機応変に変えていくものである。塾長は「テスト、授業(学習指導案)、ディベート」という項目がそれぞれ、戦略か戦術かを聞かれた。塾生の答えはバラバラだった。「テストは戦術だ」と答えた塾生は多かった。だが、塾長は次のように言われた。

塾長「評価規準、CAN-DOリストを作成しているのは何のためですか。実用英語検定試験は、合格ラインが決まっています。なぜですか? 受検者の実態に応じて変えていきますか?」

 会場が水を打ったようにシーンとなった。

塾長(微笑みながら)「テストは、評価規準やCAN-DOリストの水準に到達できているかどうかを確かめるためのものです。よって、変えてはいけません。戦略です。それで成績をつけるのであれば、学期の最初に戦略として用意し、その形式を事前に生徒に伝えておくことが大事です。そうでないと、彼らは何をどう勉強していいかわからないからです。いつまで経っても、教師の指示を待っていなければならなければ、自律的学習者どころか依存的学習者を育てることになりますよ。(間をとって)ちなみに、評価規準と評価基準、どう違うんですか?どなたか説明できますか?」(さっとうつむく塾生を見られて)『基準』は、事を比較するときの拠り所、質または達成の水準です。基準は複数あります。一方、「規準」は何かを決定・判断するための拠り所です。到達目標でもあるので、基本的に一つです。ですから、評価規準は授業の到達目標。ゴールがブレてはいけませんよね」

 衝撃的だったのは、新しいことを知ったからではなく、塾生たちが「わかっている(つもり)」とか「これは当たり前だろう」とアバウトに判断していたことだった。しかし、今回の塾で、「なんのために」という「目的」を考えることで「思考」が始まり、「協働」が生まれた。協働では、気づきと思いやりが土台となり、もっとよくしたいという思いが「バトン」になる。教師から生徒へ、生徒から生徒へ、生徒から教師へ、上級生から下級生へとその「バトン」がつながれていく。学校では、教師も生徒も、「見えないバトン」に気付けるかどうかが鍵になる。そのバトンには「育てたい生徒像」への想い、願いが込められているからだ。学校の全ての教育活動で、全員で「バトン」をつないでいき、最後は「卒業式」でそれを後輩に託す。そのために「学校」が存在する。(【第3部】に続く)

【第3部】の予告です。

⑺ 私は「セミナリアン」? これって「導管メタファー」?                              ⑻ 脳が働きだすのには「理由(わけ)」がある                                        ⑼ 「利他」は相手が感じ取るもの、自己満足の「利他」は空回りする

🔵 4月例会 【第3部】

⑺ 私はセミナリアン? これって導管メタファー?

塾が始まってすぐ、中嶋先生はおっしゃった。

「利他を考えた席にしてください」。

私たちはすぐに、机をモニター向きに動かし、中嶋先生を見た。

私は、心の中で、先生の求める「答え」を探していた。

「自分たちが考えたことは合っていたのか?」

「認めてもらいたい…!」

しかし、中嶋先生は、笑顔で一言。

「頭を働かせましたか? 仲間と話し合いましたか?」

そうおっしゃるだけだった。

“ここにいるメンバーが、皆心地よく参加できるためには–“

そう考えれば、「答え」はきっと1つではなく、

「もしかしたら、こんな考えもあるのかも?」と、

仮説がたくさん出せたはずだった。

私は、グループで振り返りながら、

生徒に「正しい答え」ばかりを要求してしまう自分を反省していた。

研修は進んでいくが、中嶋先生は決して「答え」を言われない。

自分で気づけるように、仲間と解決できるようにと、場面を「演出」されていく。

先生から示された視点で自分自身を振り返る。

「自分の授業はどうだったのか」

その度に、物足りない部分が浮かび上がってくる。

時に、中嶋先生の言葉は、私の心を大きく揺さぶった。

「習ったことをすぐに授業で使おうとするのは、『セミナリアン』の体質です。

それが『導管メタファー』を引き起こしていませんか?」

「セミナリアン」―

「導管メタファー」―

まさに、私のことだった。

「セミナリアン」とは、セミナーや研修で知った内容に飛びつき、クラスの実態や時期も考えずに、すぐにそれをやってみようとする。それがうまくいかなかったとき、「あの先生だからできたのだ」と言い訳したり、「このクラスでは無理だ」と責任転嫁したりする、そんな教師のこと。

「導管メタファー」とは、自分が説明したことはすべて、「伝わったはず」「わかっているはず」と考えてしまう「自分目線」のコミュニケーションのこと。

私は、生徒に伝えるとき、正確さばかりを気にしていた。

正しければ、それでよし。

相手がこちらを向いて話を聞いているなら、それでよし。

あれだけ説明したのだから、わかっているはず。そう考え、次のページに進む。

染み付いてしまった「自分目線」―

生徒の心に「届かせよう」とするのではなく、頭で「わからせよう」とする−。

根底にあったのは、いつも「利己」だった。

緊張して臨んだ塾の初日、私の授業観は、根底から覆されてしまった。

だが、不思議なことに、私は心地よさを感じていた。

それがなぜなのかはわからない。

次回から、そのわけを丁寧に読み解いていこう。

⑻ 脳が働きだすのには「理由(わけ)」がある

塾長は視線を全員に「送る」。

一人ひとりと目を「つなぐ」。

視線を「集めて」集中させる。

絶妙に「間」をとり、意図的に余白を「残す」。

そうして、塾生の思考を「促す」。

「知りたい」「わかりたい」「できるようになりたい」–

学習者の心に、そんな知的好奇心の「種火」がともれば、脳は勝手に働き出す。

アクティブになった脳は、「納得解」や「最適解」が見つかるまで止まらない。

穴埋め式のプリントを作ること、それが授業の「準備」だと思っていた。

流れるようなパワーポイントのスライドを作ること、それが「教材研究」だと思い込んでいた。

分かりやすい説明を考え、親切丁寧に教えること、それが「授業」、「教師の仕事」だと信じていた。

でも、全く違っていた。

なんだか、今までの営みが否定されたようで、受け入れるのに時間がかかった。

しかし、自分の中学校、高校時代を振り返ってみると、なんだか納得できた。

そう、教師が丁寧に「教える」のは本当の授業ではない。

生徒自らが「気づき」、「獲得する」ことこそが学習なのだ。

大事なのは、「意味」を理解することではなく、「意義」を考えること。

意味とはWhatの内容、意義とはWhyで問われること。

だから、意義を追求すれば「謎解き」が始まり、自然に「伏線」も用意されるようになる。

「ひらめき」や「気づき」だけでなく、「疑問」や「間違い」も大事な学びとなっていく。

答えをすぐに教えない。

教師の方から伏線を「回収」していかない。

できるだけ、エピソードをちりばめ、たとえ話をする。

イメージが膨らむような言葉を選ぶ。

そうして、教師は「演者」になっていく。

人は、自分で気づいたことしか頭には残らない。

自分で「やろう」と決めたことしか続かない。

自らの力で獲得したものでなければ、使えるようにはならない。

最後は、自分の学びを、自分の言葉で「言語化」する。

それが自分の「概念」となる。

こうして、学習者自身が学びを「回収」していく。

それは、学びを「獲得」するということ。

そのための「伏線」を散りばめる。

それが本来の「教師の仕事(腕)」。

その「腕」を仲間と切磋琢磨しながら磨く。

生徒も教師もともに学びあう。それが本来の「学校」。

1回目の研修が終わる頃、私たちはそんなことを考えていた。

研修を通して気づいた「私なりの学び」をまとめておきたい。

1 言葉の定義を明確にしたときに、本当の「協働」が始まる。

2 「目的」を共有することで、全ての教育活動に「つながり」が生まれる。

3 素材と生徒の実態に合わせて、「指導法」も「指導手順」も変えるのが教師の仕事。

4 「目標」は1つでも、到達のルートを「自己決定」にすれば個性が輝く。

5 伏線をちりばめ、最後は生徒が学びを「言語化」して回収するのが本来の授業。

6 パフォーマンス・テストでは、生徒の心に火を点ける手順を三段階にする。

  ① 導入では「平均よりやや良い作品」を見せ、「私にもできそう」と思わせる。(種火)

  ② 中間で「同学年のモデル」を見せ、学び合い(協働)を機能させる。(着火)

  ③ 終末で「先輩の本当に良い作品」を見せ、画竜点睛にする。(完全燃焼)

これらの要素をどこかで取り入れると、なんだか授業が変わりそうな気がしてくる。

今、それに対して、密かにわくわくしている自分がいる。なんだか、明日の授業が待ち遠しい。

⑼ 「利他」は相手が感じ取るもの、自己満足の「利他」は空回りする

自己満足ではなく、見栄のためでもない。誰が読んでも、端的でわかりやすく、不快に感じることもない。書き手も読み手も共に成長できる。

それが、HPに掲載する原稿で目指したことだった。

もう一度、「掲載不可」になった原稿を読み返してみる。

あちこちで見つかる、ドヤ顔で講じる内容、上から目線の表現。

顔から火が出そうだった。塾長への申し訳なさでいっぱいになった。

塾長のメールの中で、何度も書かれた言葉がある。

–「利他」

塾生にはなじみのない言葉だった。

国語辞典には「自分を犠牲にして他人の利益を図る」とある。

しかし、塾長は「利他」をこう説明された。

「自分がされて嬉しいことは自分からすること、相手の立場に立って考えることです」。

「利他」の反対語は「利己」。

私などは、「利己」にまみれている。

今まで、何事も勝ちたい、目立ちたいという思いが私を奮い立たせてきた。

対立したときは、私は決して間違えていないと信じていた。

今、冷静になって考えれば、「授業がうまくいかない」のも、

「学年セクトになってしまう」のも、すべて当たり前のことだった。

「人間性」を謙虚に見つめ直した先に自己更新がある。

人間性こそが、全ての根幹。それを教えてくださったのが中嶋先生だった。

先生は、塾生たちにDVDのプレゼントをもってきてくださった。

当日参加した塾生は20名、一人に2本ずつプレゼントしてくださった。

全部で40本。予備も含めると50本以上持ってきてくださった。

これまでの卒業文集、研究紀要、研修報告書、生徒や教員のアンケート、教育実習生に向けて作られた書籍、ALTの先生方と作った指導案集など普段絶対に見られない「成果物」。それらをいっぱいに詰め込んだキャリーバッグと大きなかばんを全部で3つ、遠路、自宅から運んできてくださった。

帰りに荷物を運ばせていただいた。ずっしり重く、軽く10キロは超えていた。研修室は4階。気づいたときには遅かった。先生はすでに一人で運んでくださっていた。

昼間、1時間の休憩があった。中嶋先生は昼食を食べられなかった。その間、午後の授業の準備をしてくださっていた。今日の日のために用意された「6種類のスライド」をものすごい勢いで編集されていた。対面で会ったことのない塾生たちのために、80枚余りのスライドを、様子を見ながら、瞬時に入れ替え、研修を展開してくださった。一体どれだけの時間がかかったことだろう…。

17時ぴったりに中嶋塾が終わった。最後の1秒まで計算しつくされた先生の授業。昼の編集作業以外、座ることすらなく、塾生一人ひとりに「教師とはどう在るべきか」を体現してくださった。その一挙手一投足がそのまま「教師の在るべき姿」だった。

翌日、パソコンを開くと先生からPDFが届いていた。開けてみて驚いた。「さらに、編集してくださっている…」。昨日見たスライドからさらに編集をされ、新たな情報も加えてくださった。

–「利他」

たったの2文字。

だが、それは、ようやく先に灯りが見え始めた塾生たちにとって、とてつもなく深く、重い響きを持つ。

しかし、それが教師にとって必要不可欠な資質であることは論を俟たない。

私たちは、今、それに向けて最初の一歩を踏み出したように思う。

それを体現してくださる中嶋先生と1年間共に歩けることに感謝し、その意義を追究していきたい。

最後に

  やみくもに新しい知識を得ようとするのではなく、今までやってきたことを意味付けてみること、経験則の意義を考えることで、新しい見方、学び方が身に付きます。

🟢 授業をする際に、デジタル教科書に依存してしまう教師、授業の展開を考えずに思いつきでやってしまう教師はいないはずです。今まで、500人近くの授業を見させていただきました。用意された学習指導案を読ませていただくと、指導者の授業観(指導・評価)が透けて見えます。学習指導案は、「授業進行案」でも「教科書の取り説」でもありません。それは、むしろ「脚本」(シナリオ)を書くようなものだと考えれば、授業に対する今の固定観念が覆されるのではないでしょうか。

  脚本といっても、音楽のジャズのように即興の要素も入っています。その余地も残しておくことが不可欠です。脚本はいきなりパソコンに向かって作ることはできません。情報カード(1枚が10分)を用意し、事前に絵コンテを描き、並べ替えて構想を練ります。5枚のカードがカチッとはまったら、清書をします。仕上がった脚本の主人公(主語)は、もちろん教師ではなく「生徒」です。「指導上の留意点」には、教師自身が授業を想像しながら、そして楽しみながら「ト書き」を書き込みます。伏線回収の謎解きも入れておきます。こうすると、授業後は、参観者と授業デザインについて話題が深まります。

🟢 何事も、ノルマ(must)ではなく「楽しい!」(will)という境地にまで行けるかどうかです。誰のためなのか、なぜ、それが大事なのか。それを考え続けることで、「やりがい」が見つかり、楽しくなってきます。楽しいことは、ずっと続けられます。続いていることは自信となります。自信がつくと自分が好きになれます。すると、心にゆとりが生まれ、他者への眼差しも温かくなり、「誰かのために」と動き出せるようになります。それが、人生の「基盤」となります。

 今、地球市民オンライン塾の方でも、活発にやり取りが生まれています。別の機会に、番外編として、メーリング・リスト内で起きている「化学変化」(学びの磁界の発生、接近の原理への気づきなど)についてまとめてみたいと思います。それらを包括し、「比較すること・推測すること・創造すること」が、いかに「思考・判断・表現」につながるかという具体をご紹介します。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント