🕰️ 正確すぎる日常が感覚を奪っていく
私が普段使っている時計は、電波時計でもソーラー時計でもありません。
アイキャッチの写真「アナログ式の自動巻き時計」です。
ですから、うっかり外したままにしておくとすぐに止まります。
時間がずれていれば、自分で合わせなければなりません。
電波時計などと比べると、はるかに不便です。
しかし、この「不便さ」が、私の時間に対する感覚を呼び戻してくれます。
正確な時間が”与えられる”のではなく、「今、どれくらい進んでいるか」を自分で感じ取るようになるからです。
同じ理由で、授業や講義では教室の黒板に大きなタイマーを貼ることをしていませんでした。
代わりに、手元で操作できるタイマーを使っていました。
まず、ピピピという大きな音で、思考や対話の流れを切りたくないという思い、時間をタイマー任せにしたくないという思いがありました。
手元にあると、所要時間を臨機応変に延ばしたり、短くしたりできます。すると、全体の様子と時間を両方確認しながら授業が進められます。
生徒に「時間を見せれば、自己管理ができるようになるのではないか」と考える方もおられると思います。
しかし、試験のように時間配分そのものが課題になる場面と違い、短時間の活動中、生徒は目の前のやり取りに集中しています。実際、活動の最中にタイマーを確認しながら取り組む生徒は、ほとんどいません。
そもそも私は、授業が間延びすることを避けるため、5分以上、同じ形の活動を続けることは意図的に仕組まないようにしてきました。
教師が「10分やります」と時間を提示した瞬間――多くの場合、その10分には明確な根拠がなく、「区切りがよいから」という理由で設定されていることが少なくありません――学習者の中には、「それなら、最初は少しゆっくりでもいいか」という心理が生まれます。
仮に、活動全体として10分程度必要だと判断した場合でも、私はそのまま10分続けることはしません。
まずは「最初の3分」を一つの目安とし、そこで必ず変化を加えます。人間が感覚として「長い」と感じるのは3分と言われており、それを授業にも活かすことで私語や手遊びがなくなります。
つまり、
A → A’ → A’’
というように、10分間をいくつかの短い区切りに分け、活動のギアを意図的に切り替えていくのです。
内容や負荷、やり取りの相手、問いの角度を少し変えるだけでも、生徒の集中力がシフトされていきます。
この「小さなギアチェンジ」を重ねることで、特定の生徒だけでなく、どの生徒も最後まで集中力を切らさずに活動を続けることが可能になります。
時間を「見せる」ことよりも、時間の流れをどう刻み、どう変化を仕込むか。
私は、このように「隙」を作らず、細分化して時間を設定する考え方の中に、授業の集中度を左右する本質があると考えています。
🕰️「任せっぱなし」に潜む危うさ
最近、ふと考えることがあります。
私たちの授業は、
あまりにも多くを「任せすぎて」はいないだろうか、ということです。
・黒板タイマー
・分刻みの指導案(実態は授業進行案)
・デジタル教科書
・「予定通りに終わること」
もちろん、正確さは大切です。
しかし、正確であることと適切であることは、同じではありません。
便利さの裏側で、
教師自身の「見る力」や「感じ取る力」が、
静かに削られていないでしょうか。
この違和感を、二つの日常の比喩から考えてみたいと思います。
🍚 全自動炊飯器と、土鍋ご飯の違い
全自動炊飯器は、とても優秀です。
スイッチさえ押せば、失敗なく、安定したご飯が炊き上がります。
一方、土鍋でご飯を炊くとき、人はこんな情報を頼りにします。
・沸騰する音
・立ちのぼる湯気
・ふたの微かな振動
・漂ってくる匂い
「今、火が強すぎないか」
「そろそろ弱めた方がいいか」
鍋の中を見ながら、判断をしています。
授業も、これとよく似ています。
タイマーが鳴ったから次へ進む。
予定通りだから区切る。
それは、鍋の中を見ずに火を止めているようなものです。
生徒の思考が立ち上がり始めた瞬間。
もう一言で、ぐっと深まる空気。
その「湯気」を見逃してしまうのは、
あまりにも惜しいことです。
🚕 ナビ任せのドライブと、地図を広げるドライブ
車で旅行をするとき、GPSナビがあれば迷うことはありません。表示されたルートを進めば、確実に目的地に着きます。
しかし、
・今どの尾根にいるのか
・谷はどちらにあるのか
・なぜこの道を選んでいるのか
を考えることは、ほとんどありません。
一方、地図を広げて進む人は、何度も現在地を確かめます。
「今、ここにいる」
「少しずれている」
「この先は慎重に行こう」
授業でも、
分単位で設計された指導案は、確かに「迷いません」。
しかしその分、
生徒が今どこにいるのかを感じ取る力は、
教師自身の中で弱くなっていくことがあります。
💻 便利さは、「伝え合う力」まで代行していないか
ここまで、「時間」や「流れ」を通して、便利なものに任せすぎていないか、という話をしてきました。
もう一つ、見過ごしてはならないことがあります。
それは、
伝え合う力そのものまで、便利さに委ねてしまっていないかという問いです。
全自動炊飯器では、「今、どんな状態か」を言葉にする必要はありません。
ナビもまた、
「なぜその道を選ぶのか」を説明しなくても、目的地へ連れて行ってくれます。
便利さとは、本来、人々の負担を軽くするためのものです。
しかし同時に、
・説明する機会
・確かめ合う機会
・言葉を交わす必然性
を奪ってしまう側面も持っていることを理解しておく必要はないでしょうか。
🏫 授業で「当たり前」にしてはいけないこと
モニター画面に答えが並ぶ。
流れは全体で共有されている。
時間通りに活動が切り替わる。
一見、生徒は「分かっている」ように見えます。
しかし、実際は、
「なぜそう思ったのか」
「どこで迷ったのか」
「相手はどう受け取ったのか」
そうしたやり取りを言葉にする場面が、少しずつ削られてはいないでしょうか。
伝え合う力は、
説明しなくても済む環境では育ちません。
むしろ、
・少し不便で
・すぐには共有されず
・立ち止まって言い直す必要がある
そうした場面でこそ、鍛えられます。
手元のタイマーを見ながら、生徒の表情を見る。
そして、「今、どう?」と声をかける。
その一言が生まれるのは、
機械に任せきらない授業だからこそできることです。
✋ペア・グループ活動で起きていること
この話は、英語授業のペア・グループ活動にも、そのまま当てはまります。
ペア活動はある。
グループで話し合っている。
ICTで意見も共有されている。
生徒同士は「伝え合っている」ように見えます。
しかし、よく観察してみると、
・言えたかどうかだけを確認して終わる
・相手の反応を待たずに次へ進む
・「通じたか」を確かめないまま活動が切り替わる
・活動は進んでいる
・時間も予定通り
しかし、相手にどう伝わったかについて、立ち止まる場面がありません。
これは、ナビ任せの旅行とよく似ています。
教師が流れを整えれば整えるほど、
生徒は「現在地」を確かめる必要がなくなっていくのです。
🎙️伝え合う力とは何か
伝え合う力とは、
正しく言えたかどうか、ではありません。
言い直す。
補足する。
相手の表情を見て、選び直す。
その往復があって、初めて育つ力です。
活動が“便利”になりすぎたとき、
私たちはその時間を、
知らないうちに削ってしまっているのかもしれません。
🎞️まとめ|授業は「工程」ではなく「対話」である
授業は、工程の管理ではありません。
炊飯器でも、ナビでもない。
それは、
目の前の生徒と向き合いながら、
火加減を調整し、
現在地を確かめ、
言葉を交わし続ける「営み」です。
便利な道具を否定するつもりはありません。
しかし、当たり前、任せきりにしない。
時間も、流れも、
そして、伝え合う責任も、
最後に引き受けるのは、教師自身です。
私が、今もアナログの自動巻き腕時計を使い続けているのは、
その感覚を忘れないためです。
針が止まる。
気づき、合わせ直す。
言い直し、確かめ合う。
そして、次の一歩を、自分の言葉で決める。
その一つひとつの積み重ねが、
セミナーで出会う先生方の実践に、
特別授業やキャリア教育の講演など
で向き合う生徒たちの学びに、
静かな深みと、確かな手応えを残していく。
―そうありたい、という願いと自戒を、
私は今日も、針の動きに重ねています。
