🍀 英語は「逆上がり」と同じです

逆上がりや25メートル泳と同じように、
英語にも「できるようになった」と
はっきり言えるゴールを与えているでしょうか。

「技能教科」との出会い

私は、30歳の時

埼玉県の吉川南中学校で担任をしながら、

玉川大学の通信課程で小学校免許を取得しました。

その後、小学校の採用試験を受け、

小学校教師として富山に戻りました。

小学校(元・富山県婦中町立音川小学校/現・富山市立音川小学校)では、

国語・社会・算数・理科に加えて、

体育、図工、家庭科も担当しました。

音楽については、正直言って得意ではありませんでした。

ピアノを猛練習し、「ある程度」弾けるようになり、

採用試験(ピアノを弾きながら歌う)には、

何とか合格した、という程度でした。

6年生の担任に決まったとき

合唱の伴奏を務めることは、

自分には荷が重いと判断しました。

そこで、

5年生の先生に音楽をお願いし、

その代わりに、私は5年生の体育を担当

しました。

体育という「技能教科」から学んだこと

この経験が、私の教材観を大きく変えました。

小教研(小学校教育研究会)では

体育部会に所属し、

運動が得意な教師たちの中に飛び込みました。

実技研修の際は、

「できない側」に立つ感覚を、

嫌というほど味わいました。

しかし、先生方は、

不安そうな私に丁寧に助言をくださいました。

と同時に、なんとか上手になりたいと

先生方の演技を見ながら必死にコツを探りました。

体育の授業で、

子どもたちは、驚くほどよく友だちを観察しています。

特に、上手な友だちの演技やプレーを見て、

「どこが違うのか」を考えます。

ビデオに撮ると、何度も繰り返し見て

「ああだ、こうだ」と議論します。

その中で、私ははっきり気づかされました。

「技能教科」では、

「どう指導したか」ではなく、

実際にできたかどうか

これがすべてだということです。

過程よりも、結果が子どもに返ってくる教科なのです。

子どもたちの関心は、すべて1点に集約されます。

できるようになりたい

教師がモデルになる覚悟

それから私は、

口だけで指導をするのをやめました。

陸上、鉄棒、マット、球技のビデオ

を購入して自分で研修をしました。

スキーは週末のナイターも含めて

1シーズンで40回、

県外にも足を運びました。

とにかく死に物狂いで練習をしました。

子どもたちの頭の中に、

仕上がり」が具体的に描けるようにしたい。

それが、内発的動機づけ(Intrinsic Motivation)

を生むと考えたからです。

単元は「楽譜」である

体育の授業では、

教師が説明することに、あまり意味はありません。

考えるべきことは、

子どもたちが「自分でできるようになる」ために、

・どんな場面を用意するか、

・どこで立ち止まり、

・どこで学び合うか、

そのために

中間発表(仲間同士の学び)をどこに置くか、

です。

やがて私は、次のように考えるようになりました。

・ここは「技能」を身につけるために、重点的に取り組む

・ここは、軽く扱い、自分で練習をする時間を増やす

・この部分は、子どもたちに任せる

それはまさに、

単元の中で音楽のフォルテピアノを配置する

という感覚でした。

知識の獲得は、直接の「目的」ではありません。

それはあくまでも「伴奏」です。

響かせるべき「主旋律」は、

英語が使えた」という実感(自信)です。

中学校に戻って気づいたこと

その後、JETプログラム(ALTの配置)の開始をきっかけに、

私は再び中学校で英語を教えることになります。

そのときはもう、以前の私ではなくなっていました。

教室に立つと、体育の授業で得た感覚が、強烈に蘇ってきたからです。

以前(埼玉時代)の私は、

知識を教える授業

教科書の内容を網羅する授業

に、軸足を置いていました。

しかし、

技能教科」を経験したあとでは、

「わかった」よりも「できた」を

「終わる」よりも「楽しい」を

中心に置かずにはいられませんでした。

英語も、やっぱり「技能教科」

逆上がり。
25メートル泳。
跳び箱。

子どもは何度も挑戦します。

なぜでしょうか。

それは、
「できた自分」が見えているからです。

研究授業を重ねる中で、
私は強く問い直しました。

英語も、同じではないのか。

いつしか私は

単元の終わりには

何がどこまでできていればよいのか

それを単元に入る前に考えるようになっていました。

ある教科書との出会い

授業を公開するようになり、
自分の取り組みを意味づけるために、

学習指導要領を読み込み、
当時使われていたすべての中学校英語教科書を自分で購入し比べてみました。

同じ教科書検定を通っていても、
教科書の設計思想は、驚くほど違っていました。

その中で、
強く心を揺さぶられたのが、
The New Everyday English(中教出版。編著:羽鳥博愛・上田明子・樋口忠彦 ほか)です。

編集者は、いずれも当時の日本の英語教育界を牽引しておられる方々でした。

大阪まで伺い、お会いしてお話をすると、丁寧に悩みや疑問に耳を傾けてくださいました。

当時、多くの教科書が
「文法項目をどう教えるか」を軸に

構成されていたのに対し、

この教科書は、

英語を使う」ことを軸に設計されていました。

必要感のある場面から文法が立ち上がる
タスクが先にあり、「言いたい」が生まれる。

私は、心からワクワクしました。

地区採択は別の教科書でしたが、
擦り切れるほど読み込み、
使えそうなタスクを取り入れました。

ペア学習、3人でのやり取り、自己表現活動。

次第に確信が生まれました。

正解を教えるのではなく、
英語を自分の言葉として使えるようになること。

それが、学習意欲を加速させるのだ、と。

知識を「フォルテ」にすると、「技能」は育たない

チャット、スピーチ、ディベート。

もし文法指導を完璧に終えてから、
これらの活動に入ろうとしたらどうなるでしょうか。

  • ワークシートがないと話せない
  • 書けるが口から出てこない

という状況に陥ります。

それは、
「知識が足りない」からではなく、

技能が育っていないのです。

逆上がりの前に、
腕の位置や重心移動について
細かく説明してから
「では、やってみましょう」と言ったら

どうなるでしょうか。

頭で考えすぎてしまい、動けなくなります。

英語でも、同じことが起きます。

「技能」が後回しになると、学習意欲は低下する

「技能」の獲得が後回しになると、
子どもたちは、いつまでも

  • 自信が持てない
  • 「できた」という実感がない

状況が続きます。

それは、

ゴール(どこまでできればいいのか)が見えていないからです。

一方、
単元のすべてをフォルテにしないと決めると、

教室には、はっきりとした変化が生まれます。

それは、

  • ゆとりが生まれる
  • 自己決定が増える
  • 生徒の目の色が変わる

ということです。

それは、単元計画の中で意図的に

  • ここは、繰り返し練習する
  • ここは、時間をかける
  • ここは、細かくやらない

軽重を判断するようになるからです。

これは、
「手を抜く」ことではありません。

どこで技能を育てるかを、はっきり決める

という高度な「設計」です。

「え? もう終わり?」の正体―

技能教科の授業では、

終わりを告げると、

「え?もうそんな時間?」

と驚きます。

夢中になって取り組んでいるからです。

ただ、不思議なことがあります。

その感覚は、
必ずしも「体を動かしている時間」だけに
止まらないということです。

順番待ちの時間も、
鑑賞の時間も、

学びは止まりません。

もっと上手になりたい

納得したい

という思いがあるからです。

現在地を自己理解しているから、

諦めません。

技能教科のゴールは、
「知っていること」ではありません。

  • 浮き輪なしで泳げる
  • 補助なしで回れる
  • 見本を見ずに仕上げられる

何にも頼らず、
自分の力だけでできるようになること
です。

英語の授業でも、

ノートを閉じても、

教科書がなくても、
プリントの助けを借りなくても、

これなら、できる

と、自分で思える地点が、

最初から見えていれば、
生徒は投げません。

むしろ、
できるまで、やり続けます。

教師の役割

教師の役割は、子どもを無理に動かすことではありません。

具体的な「見通し最後のシーンまでのプロセス」

最初に描ききることです。

それが見えた瞬間、
子どもは、
自分で走り始めます。

そして、その姿はー

体育で逆上がりができた瞬間の、

あの表情と全く同じなのです。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント