インターネット、SNS、AIの普及に伴い、世の中がどんどん変化してきています。便利なものが作られる一方で、それが他者とのコミュニケーション不足を招くような事態にもつながっています。
今までの学校教育は、どちらかというと「自分の進路」のための学習が中心であったことは否めません。しかし、現代はVUCA(今後の予想がしにくい、変化しつづける社会)の時代と言われています。今、世界中を震撼させている新型コロナウィルスは、その顕著な例と言えます。このように予想できないことが起こりうる社会では、受け身で学んだ知識ではなく、自分で問題を発見し、自ら解決できる力を身につけることが急務です。
文科省は、10年に1度の学習指導要の改訂で、今までの教育から大きく舵を切りました。しかし、教師自身が過去に経験したことのない「アクティブ・ラーニング」(主体的、対話的で深い学び)は、なかなか浸透して行かないようです。それは、学校の「今までどおり」を捨てきれない体質、教師の「私が、私が」という窮屈な思い込みがその一因となっているように思います。
人は、教えられたことは余程のこと(自分にとって役に立つと思えるかどうか)がない限り、すぐに忘れてしまいます。ところが、自分でハッと気づいたことはずっと覚えています。
授業で「(教科書に載っているから)教えなければならない」というスタンスで内容を教え込むのか、それとも「教科書に書かれていることはこんなに面白いんだよ」というスタンスで、それに自ら気づかせるのか。それによって、学習者の育ちは大きく変わってきます。
様々な研修会で、参加された方々に次のようにお聞きすることがあります。
「終わりのチャイムが鳴ったとき、または授業の終わりを告げたときに、子どもたちが『えっ、もう?』と驚くのはどんなときですか」「小学校では、児童がそのように言うのはどんな教科のときですか」
すると、多くの先生からは、「自分で考えているとき、作業をしているとき、仲間と一緒に何かに取り組んでいるときが多いですね」と言う答えが返ってきます。そして、小学校の先生からは「技能教科の授業のときです。残念ながら、国語、算数、英語のときはそういう反応はないですね」と言われます。
なぜでしょうか。
人が夢中になっているときは時間を忘れてしまうからです。また、技能教科は「ゴール(単元の最後)」が明確です。ですから、毎時間、自分はそれに向けてどうなりたいかを意識しながら学習をしているからだと考えられます。だとすれば、座学中心の教科でも、ゴールを認識し、見通しを持って学習ができれば、意欲的、主体的な学習になります。
英語や国語(日本語)は、技能教科に近いと考えられます。「ことば」を身につけるための教科だからです。ことばは、コミュニケーションのツールとなるだけでなく、人間の教養の土台を作る上で必要不可欠な「人間同士の約束」です。
今、世の中に必要なのは「勝ち・負け」が当たり前の教育ではなく、一人ひとりが幸せになれる(win-winの関係となる)教育を目指すことではないかと考えます。SDGs(持続可能な開発目標)も、AI(人工知能)も、より平和で住みやすい世の中になるように、地球市民が全員で取り組んでいくべきことです。そのときは、「利他」(相手の立場を理解し、人の役に立てること)がその土台となります。