■「忙しいからできない」という言葉の裏側
授業後に助言をすると、
「確かに言われることはわかりますが、忙しくてそのようなことはなかなかできません。現場がどんなに忙しいかご存知ですか」
と言われる方がおられます。
私自身も、生徒指導主事、教務主任、教頭(夜はPTAの会合)まで経験し、確かに忙しい日々ではありました。しかし、当時の私は、
「みんなの夢を叶える学校づくり」という目的があり、同僚と支え合う関係に恵まれていたため、やるべきこと、やりたいことを諦めることはありませんでした。
実際、どんな職業でも、“本当に忙しい”方々ほど「忙しくて…」という言葉を口にされません。
なぜなら——
自分で優先順位を決め、見通しをもって日々をデザインしているからです。
授業で見事なまでに子どもたちを育てている教師たちに共通しているのは、年度の最初から「技能を高める10分の帯学習」を設計し、基本文の徹底・Q&A・Chat を組み合わせ、「聞く・話す」の質を日常的に積み上げている点です。ですから言語活動では、どの子も生き生きと自分のことを語っているのです。
忙しさに流されるのではなく、
一年間の“物語”を頭に描きながら授業をしているのです。
そもそも、人間の脳は、マルチタスク(複数のこと)を同時に処理することを極めて苦手としています。
目の前のタスクに追われるだけでは、忙しさに呑まれ、判断も行動もぶれ続けます。
だからこそ、教師には「段取り」と「見通し」が欠かせないのです。
一年の物語を先に描いておけば、日々の判断が一つの理念に沿って整い、
何を優先するかという“選択”がぶれなくなります。
■「文法ありき」「教科書ありき」では、言語は育たない
授業の冒頭に「文法」「教科書」「活動」を置いてしまうと、
それ自体が“目的化”してしまい(その活動ありきになり)、
その瞬間に授業はコミュニケーションから離れてしまいます。
大事なのは
言葉を教えるとは、理解させることではなく、使えるようにすることです。
しかし、現場では、「理解」に偏りすぎ、
肝心の「言語使用」が先送りされたまま教科書を進める例が後を絶ちません。
入試対策も同様で、
「教科書を終えてから入試用の問題練習をしよう」
という考え方が根強く、
“入力をすべて終えてからでないと出力できない”
という誤解が授業を後手に回しています。
その結果、
覚えさせてから発表させるだけの学習
が繰り返されてしまうのです。
「英検のトレーニングは、授業とは別」と考える方、
「全国学力学習状況調査のために授業をやっているのでない」と言われる方は、
「4技能の力さえついていれば、どのケースにも対応できる」という
言語学習の根幹が抜けてしまっています。
■マンダラ・チャートは「手法」ではなく「物語の入り口」
そのように、物事の捉え方が違ってしまうと、せっかくの「思考ツール」を使った授業も迷走してしまいます。
例えばマンダラ・チャート。
中心に “happy, surprised” と形容詞を置き、
周囲に例文を広げる授業と、
中心に「最近の出来事で一番印象に残っていることは?」
という自分ごとの問いを置き、
その周囲に“友だちに語りたくなるエピソード”を並べてから、
どこにどの形容詞が使えるかを考える授業では、
180度違う世界 が生まれます。
後者では、
不定詞の副詞的用法 I was 形容詞 to 〜 は
文法ではなく、
「自分の伝えたいことを形にする手段」 になります。
学習者は「文法を使わされる」のではなく、
自分の物語のために文法を使い始める のです。
言語活動で最も重要なのは、
誰に向けて、何のために、何を話し、最後にどうなるのか
というコミュニケーションの場面(context)を明確にすることです。
■「目的・場面・状況」がなければ、言語活動は成立しない
教師が単元計画を“絵コンテ”のように描き、
生徒一人ひとりが主人公となるナラティブを設計してこそ、
単元は形式ではなく、物語として立ち上がります。
先日、外国語担当教員(代表)とALTたちが参加する研修に、
アドバイザーとして伺いました。
事前課題は「人物紹介の活動を考えてくる」こと。
しかし、タブレット端末などを準備してきた参加者はごくわずか。
多くのALTたちが示したのは、
Who Am I? のようなゲームや、
文法定着のための既存活動でした。
そこで私は尋ねました。
「誰に向けて、何のためにその人物を紹介し、その後どうしたいのですか?」
すると、ALTたちは言葉を失いました。
しかし、それはALTの責任ではありません。
普段から日本人教師が
• “教科書を終わらせるための活動”
• “文法を定着させるゲーム”
を中心に「何か準備してほしい」と依頼しているからです。
ゴール(育てたい姿)を共有しないまま依頼されているのであれば、
そのように考えるようになるのも当然です。
残念ながら ALTは、
• 教科書を終えることを使命とする“運命共同体”
あるいは
• “プラスアルファの時間に来る人”
のように扱われてしまっているのが現状です。
さらに、講演中のワークとして、
200人の参加者にマンダラ・チャートの中心に「相方の名前」を書き、
情報を書き込んでもらいましたが、
ほとんど手が動かないJTL・ALTが多数いました。
相手を知らないまま、子どもたちの心が動くTT授業はできるのか。
それが、この研修で浮き彫りになった根本的な課題でした。
■“議論”よりも、現状と本質を見つめる
次期学習指導要領から
「主体的に学習に取り組む態度」が評価項目から外れる——
この変更に対して、
• 「やっぱりそうか」と得意げに語る人、
• 「朝令暮改だ」と批判する人
さまざまな声があります。
しかし私は、こう思います。
そもそも、学習は「自律的学習者を育てること(主体性を高めること)が究極のねらい」であり、
それ自体が外れるわけではなく、
根幹が整っていなければ、評価項目がどう変わろうと授業自体は変わらない。
そもそも、3つの観点の関係は並列ではなく、次のようになるはずです。

■ 忙しさに飲まれるてしまうのか、忙しさをデザインするのか
結局のところ、教師の一年を分けるのは、時間の多寡ではありません。
同じ忙しさの中にあっても、ある人は「できない理由」を探し、ある人は「できる形」を探します。
その違いを生むのは——その人が何を大切にし、何を優先すると決めているかという “理念” です。
授業を「教科書を終わらせる作業」と見るのか、
それとも「生徒一人ひとりの物語を立ち上げる場」と捉えるのか。
TTを「教科書消化の助手」とみなすのか、
それとも「子どもたちの言語世界を広げるパートナー」と位置づけるのか。
同じ行為でも、込められた理念によって、その意味も、価値も、手触りまでもが変わります。
忙しさに流される教師は、出来事に反応して一日が終わります。
一方、忙しさをデザインできる教師は、一日の行動を理念によって選び取ります。
その違いが、やがて一年の歩みを変え、生徒の学びの質を変え、教師自身の物語を変えていきます。
自身に問うべきことは、ただ一つ。
私は何を優先し、どんな物語をつくろうとする教師なのか。
理念が決まれば、選ぶ行動が変わり、見える景色が変わり、
“忙しさの意味”そのものが姿を変え始めます。
忙しさに飲まれるか、忙しさをデザインするか。
その分岐点は、目の前の忙しさではなく、
自分がどの道を選び取るかという“理念の選択” にこそあるのではないでしょうか。
