🗻 シルエットが教えてくれること
夕暮れの空に、黒く浮かび上がる富士山。
これは、2025年12月28日、私が横浜市内の高層ビルから撮影したものです。
輪郭しか見えない。
細部は、何一つ描かれていない。
それでも私たちは、一瞬でそれが「富士山」だと分かります。
色も、模様も、説明もない。
あるのは、はっきりとした輪郭だけです。
実は、この一枚の写真は、
学校教育そのものを映し出しています。
🗻 見えなくても「分かる」ものがある
富士山の「シルエット」は、
細部を語っていません。
それでも、
「雄大だ」
「日本の象徴だ」
「特別な山だ」
と、見る人の頭の中には、意味や物語が立ち上がります。
それは、
誰にとっても”完成した姿”が共有されているからです。
頂上があり、
裾野があり、
全体像が、誰の頭にも入っている。
教育も、本来は同じはずです。
🗻 学校は、何のためにあるのか
学校は何のためにあるのでしょうか。
定期テストのためでしょうか。
内申点のためでしょうか。
学校行事のためでしょうか。
どれも大事です。
しかし、どれも「目的」ではありません。
教育の目的は「人格形成」、
学習の目的は「概念形成」。
そして、学校は、
卒業式のためにある。
そう考えてみると、
景色が一変します。
卒業式とは、
単に中学三年間の最後の行事ではありません。
- 自分の言葉で感謝を伝える
- 仲間の成長を認める
- 次の場所へ踏み出す覚悟を語る
それができる人間になっているかどうかを、
社会に向けて示す場です。
🗻 卒業式とは「頂上」
富士山に置き換えてみましょう。
卒業式は、頂上です。
入学からの日々は、登山の道のりです。
登っている最中は、
苦しいこともあります。
遠回りもあります。
雲で先が見えない日もあります。
それでも、
頂上がはっきり見えている登山と、
どこに向かっているか分からない登山では、
一歩一歩の意味が、まったく違います。
教育が迷走するとき、
多くの場合、
教師の頭の中に「シルエット」はありません。
🗻 授業が「細部」に埋もれてしまう瞬間
授業現場では、
こんな会話をよく耳にします。
「今日はこの活動を入れよう」
「このワークもやらせたい」
「この表現も教えておきたい」
一つひとつは正しいでしょう。
しかし、気づくと、
授業は細部で埋まっていきます。
富士山で言えば、
木の一本一本を説明しながら、
どの山を登っているのか分からなくなっている状態です。
その結果、生徒はこう感じます。
「何を頑張ればいいのか分からない」
「やったことは多いけれど、残っていない」
🗻 余韻が残る授業とは何か
印象に残る授業には、共通点があります。
それは、
すべてを言い切っていないということです。
夕焼けの富士山と同じです。
説明しすぎない。
埋めすぎない。
だからこそ、
生徒の頭の中で、授業が“続く”。
- あの問いは何だったのか
- 自分は、どう考えたのか
- 次は、どう言えばいいのか
この「余韻」こそが、
学びを前に進めます。
🗻 振り返りは「終わり」ではない
振り返り(reflection)は、
授業の締めくくりだと思われがちです。
しかし、本質は違います。
振り返りとは、
今日の登りを、明日の一歩に変換する行為です。
- 今日、何が見えたのか
- 何が言えなかったのか
- 次は、どう準備するか
言語化することで、
生徒は、自分の現在地を知ります。
教師もまた、
次の授業を設計し直します。
振り返りは、
授業の「終わり」ではなく、
次の授業の準備です。
🗻 教師の仕事は「シルエットを描くこと」
細かな活動を考える前に、
教師がすべき仕事があります。
それは、
卒業時の生徒の姿を、
はっきりと思い描くこと。
- どんな言葉で話してほしいか
- どんな態度で人と向き合ってほしいか
- どんな判断ができる人になってほしいか
それが、教育の「シルエット」です。
富士山の輪郭がぶれないから、
見る人は迷わない。
教師の頭の中の輪郭が定まるから、
授業の一つひとつが意味を持ちます。
🗻 シルエットから、逆算する
教育で大事なことは「逆算」です。
卒業式という頂上から、
今日の一時間を見下ろす。
すると、
やるべきことと、
やらなくていいことが、自然に分かれます。
それが、授業デザインです。
夕焼けの富士山は、語りません。
しかし、多くのことを伝えます。
学校も、授業も、
すべてを説明する必要はありません。
大切なのは、
教師の頭の中に、確かな「シルエット」があるかどうか。
卒業式から逆算された授業は、
余韻を残し、
生徒の心の中にずっと残ります。
今日の授業は、
昨日の授業の続きではなく、
卒業式へ向かって刻まれる二度と戻らない時間です。
