サプライズの再会から
先日、高知県のALT中間期研修の中学校部会(ALTと日本人教師で72名が参加)でワークショップをする機会がありました。
そこで、懐かしい方々と再会しました。加賀田哲也先生(大阪教育大学)と和泉伸一先生(上智大学)です。事務局からは「サプライズ」のために知らされていなかったので、本当に驚きました。
講師控室での談話中、三浦 孝先生との共著『だから英語は教育なんだ-心を育てる英語授業のアプローチ』(研究社出版)が話題になりました。基調講演をされる加賀田先生は、それに関連した「ヒューマニスティックなTT授業」という内容にしたと言われました。
高校グループ担当の和泉先生とは、『「フォーカス・オン・フォーム」を取り入れた新しい英語教育』(大修館書店)の中で「割り箸とカナダの新聞日曜版-中2,不定詞」を取り上げていただいて以来のお付き合いです。氏は『だから英語は教育なんだ』が上智大学の教職授業のテキストになっていることを話題にされました。
3人で話を進めるうちに、それぞれが感じている現場の空気感から「優先順位が勘違いされているのではないのだろうか」という話になりました。確かに、昨今、呼ばれたところで授業を拝見させていただくと、教師主体で教科書を教え込んでいくスタイルが増えているように思います。
『だから英語は教育なんだ』と続編の『ヒューマンな英語授業がしたい(英語コミュニケーション事典)』では、「自分ごと(セルフエスティームとホスピタリティ)」がテーマになっていました。
そこで、今回は、「自分ごと」と「自分のこと」の違い、そしてそれがどう授業に影響を与えているかについてお話をしてみようと思います。
授業の”熱量の差”はなぜ生まれるのか
授業をしていると、同じ課題に向き合っていても、教室に立ちのぼる “生徒たちのまなざしの温度感”が驚くほど違う瞬間があります。
同じワークシートを前にしていても、片方は淡々と穴を埋め、片方は目を輝かせながら、自分の言葉で世界を広げていく。
この差を生むのは能力ではありません。
「自分のこと」(利己)なのか、
「自分ごと」(利他)なのか。
わずか一文字の違いですが、
学びの広がり方はまったく別のものなのです。
✳️「自分のこと」は、鏡を見る学び
「自分のこと」とは、
自分の気持ち、自分の都合、自分のクラス、自分の学年。
自己完結型の範囲です。
鏡の前で自分の表情だけを整えているような、
内向きの学びです。
これは決して悪いわけではありません。
しかし、残念ながら「世界」は開きません。
✳️「自分ごと」は、窓を開ける学び
一方「自分ごと」は、
最初は“自分とは関係ない”と思えることを、
自分の役割や価値観とつなげて引き受ける姿勢です。
世界に向けて窓を開くように、
風景が自分の中へ入ってきます。
学級づくりでも、
英語学習でも、
学校経営でも、
この「自分ごと化」が起きた瞬間から、
学びは内側から動き始めます。
✳️ 教師の優先順位が違うと、子どもが迷走する
これは、私がある女性教員と同学年を担当していた時の話です。
彼女は非常に有能で、自分の担任学級や担当クラスに注ぐ情熱は、
圧倒的とも言えるほどでした。
ところが、ある日、私が出ている3年生の授業のことを話題にしたとき、こう言われたのです。
「すみません。私は、他学年の授業には関心ありません」
「えっ?」
その瞬間、キュウっと胸が締め付けられるような気持ちになりました。
もちろん、彼女の“自分のこと”への情熱は本物でした。
しかし、「自分のクラス」しか見えていない。
つまり――
自分のクラスは“自分のこと”だが、学校全体は“自分ごと”になっていない。
これは、決して珍しい話ではありません。実は、多くの学校で、静かに起きている現象です。
「自分のこと」に閉じこもると視野が狭くなる
彼女のように“専門性の高い教師”は、担当クラスには圧倒的な力を発揮します。
しかし、「自分のこと」だけに閉じこもってしまうと、学校という共同体を“自分ごと”として捉える視点は生まれません。
学校は本来、
教師たちが共同で子どもを育てる場所のはずなのに、
自分の「扉」を閉じてしまうと、
支え合いや学び合いの力が失われてしまいます。
✳️ 生徒の未来を広げる教師は「自分ごと化」が習慣になっている
教員文化の中で最も大切なのは、
自分のクラスの幸せだけを願う教師ではなく、
学校全体を自分ごととして抱える教師です。
大人が世界に向かって窓を開こうとしないのに、
どうして子どもだけが窓を開けられるでしょうか。
教師が“自分ごと”の姿勢を見せたとき、生徒もまた、世界に向かって窓を開け始めます。
✳️ 一文字の違いが、学校文化を変える
「自分”の”こと」は、自分の部屋の中だけで完結する学び。
「自分ごと」は、自分の部屋の窓を開けて、学校、地域、社会とつながる学び。
この小さな違いが、子どもの未来も、教師の未来も変えます。
授業とは、生徒に“窓を開ける勇気”を渡す営みであり、学校とは、教師自身がその窓を開き続ける場所です。
