◆”卵か鶏か”の問いが突きつける、学校と授業の盲点
多くの学校現場で起きている問題でありながら、
あまり認識されていないことがあります。
それは、「定義の共有の欠如」です。
「これくらい、わかっているはず」
「忙しいだろうから、打ち合わせは省こう」
こうした“善意の思い込み”が重なると、
共通の「定義」や「ルール」が確認されないまま、
議論や討議が始まってしまいます。
しかし、「定義」が共有されていなければ、
身のある討論にはなりません。
後で生まれるのが「こんなはずではなかった」という思い違い、すれ違いです。
◆ そもそも「定義」とは何か
大辞林は、「定義」をこう説明しています。
ある概念の内容や、ある言葉の意味を、他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること。
英語も同様です。definition とは、
A definition is a statement giving the meaning of a word or expression, especially in a dictionary.(COBUILD)
つまり、
言葉の意味を曖昧なまま使わず、
辞書的な意味を確認し、共通理解として押さえること。
それが「定義」です。
会議(職員会議・学年会・教科会)に入る前に、
まず「言葉の意味」を揃える、共有する。
これは、特別な作業ではなく、
議論を成立させるための最低条件です。
◆ 現場で起きているズレの正体
現場では、よくこんな言葉が飛び交います。
「主体的に学ばせたい」
「コミュニケーション能力を育てたい」
「対話的な授業にしたい」
しかし、話している者同士の頭の中にある
「概念」は異なっているのが普通です。
なぜなら、前任校で得た経験値が違うことが
多いからです。
たとえば、主体的ですが、
一方はそれを「積極的」という意味で捉えており、
他方はそれを「自主的」のように捉えている
というケースが少なくありません。
それぞれ、定義の違いをご覧ください。
「主体的」=自分の意志・判断で、見通しを持って行動する(proactive)
* 「なぜやるのか、何のためにやるのか」を理解して動くこと
「積極的」=物事に対し、自分から進んで働きかける(active)
* 行動が外から見える。行動の量や頻度(必ずしも自分で意味付けているとは限らない)
「自主的」=すでに決まっていることを、人に言われずにやる(voluntary, self-directed)
* 学習の開始、継続、管理などを自分で行う
問題は、
当人同士が「定義(本来の意味)」を確認しないまま、
「お互いにわかっているはず」と思い込んで
話を進めてしまうことです。
以前、友人と名古屋駅で待ち合わせをする際に、
「定番の時計の前にしよう。新幹線口に近いから」
と言われました。
当時の私は「金時計」しか知らなかったため、
「ああ、あそこだな」と即座に理解したつもり
になり、そのまま「了解!」と返しました。
しかし当日、どれだけ待っても彼は現れません。
どうしたのかと不安に思っていると
携帯が鳴りました。
「どうしましたか?
ずっと待っているんですが。
来られないので心配になって
電話をしました」
「え? こちらもずっとさっきから
待っているんですが。大きな金時計の前
ですよね?」
すると、「なあんだ、そうだったんですか。
実は、新幹線口に近いのは銀時計なんです」
そのとき、初めて名古屋駅には
待ち合わせ場所として使われる時計が
二つあることを知りました。
確認不足は、正しい知識の欠如から
生まれた思い込みが原因です。
その思い込みが、そのままトラブル
の原因になりました。
名古屋の事情に疎いにもかかわらず、
彼に迷惑をかけてしまいました。
「念の為、調べておこう」という「判断力」
がなかったためです。
しかし、
これが「言葉」になると、
話は厄介です。
同じ日本語であれば、
「その言葉、どういう意味ですか?」
と尋ねることは、ほとんどありません。
多くの場合、「分かっている前提」で
スルーされてしまいます。
しかし、その言葉が
「どの状態を指しているのか」
「どこまでを含んでいるのか」
が共有されないまま、
施策や指導が動き出してしまうと、
一緒に仕事をする場合は、
よく問題が起きてしまいます。
同じ言葉を使いながら、
それぞれの頭の中では
「別の景色」を見ている状態
になっているからです。
ですから、そのまま走り出すと、
必ずどこかでズレが生まれます。
◆ ズレは「設計」の問題
現場で起きる混乱や停滞は、
教師の力量不足や意欲の問題ではありません。
多くの場合、
この「定義」を共有しないまま、
「無知」のまま、動き出すことです。
- 何をもって「できた」とするのか
- どの状態を「育った」と呼ぶのか
その具体が曖昧なまま、
「とにかくやってみよう」
「流れに乗ろう」
と動き出すと、
現場は必ず混乱します、。
それは、努力不足ではなく、構造の問題なのです。
◆ 「卵が先か、鶏が先か」と同じ構造
現場でよく起こる議論に、こういうものがあります。
「まず基礎を固めるべきだ」
「いや、実践しないと身につかない」
「授業では文法理解が先だろう」
「いやいや、大事なのはコミュニケーションですよ」
一見、建設的に見えます。
しかし、この議論は構造的に、
「卵が先か、鶏が先か」と同じです。
なぜなら、
「卵とは何か」「鶏とは何か」を定義しないまま、
順番だけを論じているからです。
だから、いつも平行線になるのです。
◆ 本当に問うべきは「順番」ではない
本当に問うべきなのは、
「何を先にやるか」という順番ではなく、
「どのような状態を“到達”と呼ぶのか」
「どの姿を“育った”と定義するのか」
をきちんと「具体像」で確認し合うことです。
これがされない限り、
- 基礎か応用か
- 知識か活用か
- 指導か支援か
で話し合われたとしても、
最終的に「納得」は得られません。
順番の議論は、「定義」が共有されて初めて意味を持ちます。
◆ リーダーの専門性とは何か
管理職、行政職(指導主事)、
そして学校のミドルリーダーの役割は、
「良い結果を出すこと」ではありません。
一人ひとりの教員が力をつけるために、
生徒たちに力をつけるために
「何を前面に出すのか」を、
言語化し、共有し、方向づけることです。
- この学期、学校として何を大事にするのか
- 今年度、どの力を一番伸ばしたいのか
- その判断は、どんな根拠に基づくのか
これを示さずに、
「主体的に」「対話的に」「深く学ばせて」
など、どれだけ多くの抽象語を使おうが
現場は動きません。
動いたとしても、「概念」はバラバラなままです。
◆ 定義を置くことは、「縛る」ことではない
一方で、時々こういう声を聞きます。
「定義を決めてしまうと、自由がなくなる」
「型にはめたくない」
しかし、これはどちらかというと
問いを閉じてしまう言葉です。
なぜなら、
「定義があるからこそ、自由になれる」
からです。
定義とは「正しい認識」であり、
それを知ることは、
「ゴールを共有する」ことになるので、
迷うことがなくなり、
個々に任される方法は自由(自己選択)
にできるからです。
ですから、様々な工夫が生まれるようになるのです。
この「定義」の共有がないと
「何を目指しているのか」が分からないまま、
「評価」だけ行われてしまいます。
◆ リーダーの仕事は、「定義」を最初に置くこと
リーダーの仕事は、
「何をするか」「どう進めるか」
を決めることではありません。
その前に、
「なぜ、それをするのか」
「何のために、それをするのか」
を、共有することです。
各論の前に、総論を確認すること、
方法の前に、意味を知ること。
そのために、最初に置くべきなのが、
「定義」です。
授業研究も同じです。
「どんな活動をしたか」
「どんな工夫をしたか」ではなく、
その前に、
「最後に、どんな力をつけたいのか」
「どの姿になっていたら“育った”と言えるのか」
そこを確認する。
そこから逆算して、
「では、この授業はどうだったのか」
を問う。
この順序が入れ替わると、
協議の場は「方法論」「生活指導」「好みの話」
に流れてしまいます。
上述した順序が守られると、
議論は自然と、活気を帯び、本質に向かいます。
◆ 学校は、「最初に置くもの」で変わる
学校に必要なのは、
大きな改革ではありません。
最初に置くべきものを
教職員全員が頭の中で
同じイメージを持つことです。
ジグソーパズルのように
仕上がった生徒の姿を
異口同音に語れるようになれば、
学校は確実に変わります。
方法でも、
スローガンでもなく、
何を「できた」と呼ぶのか。
どの姿を「育った」と呼ぶのか。
そこを具体的な言葉にし、共有し、何度も立ち返る。
その一点から、
学校は変わり始めます。
もしも、今、
噛み合わないと感じているなら
職員の温度差を感じているなら
取り組みが「形骸化している」と感じるなら ー
その時こそ、「原点」に立ち返り、
「定義」を確認し、置き直してみてください。
きっと、見えている景色が変わることでしょう。
