🌸『教室の文化は教師の何気ない一言で作られる』ー 思考を止める言葉・動かす言葉ー(2/5)

第2回: その一言が、生徒の「思考」を奪っていないか

1.「ちょっと違うかな」「惜しい」という言葉の正体

「ちょっと違うかな。」「惜しい。」

教室でよく聞くこの一言が、思っている以上に深く残ることがあります。

教師にとっては、次へ進めるための何気ない応答かもしれません。

しかし、その言葉を受け取った子どもの中では、答えだけでなく、その先に続いていたはずの思考まで引っ込んでしまうことがあります。

手を挙げかけた子がやめる、

言いかけた言葉が消える、

教室の空気がわずかに変わるなど、

今回は、その瞬間を見ていきます。

2. 「ちょっと違うかな」が止めていたもの

冒頭でご紹介した言葉、

「ちょっと違うかな。」あるいは「惜しい。」

そんな言葉を、私は若い頃当たり前のように使っていました。

一人の生徒が手を挙げます。
少し迷いながら答えます。

私は答えを聞いて、すぐに言いました。

「うーん、ちょっと違うかな。」

その瞬間、

生徒の表情が変わります。
さっきまで言葉を探していた目が、すっと下を向きます。

教室も止まります。
他の生徒も手を挙げません。

次の発言が出るまで、少し時間が空きます。

当時の私は、それが普通だと思っていました。

違うところは早く直した方がよい。

正解に近づけた方がよい。

そう考えていたからです。

しかし今振り返ると、あの言葉は答えを直していたのではなく、思考を止めていたのだと思います。

きっと生徒は、こう感じていたはずです。

「間違えたら恥ずかしい。それなら、言わない方がいいや。」

そうなると、発言するのは自信のある数人だけになります。
他の生徒は、考えていても口に出さなくなります。

かくして、教室から言葉が消えていきます。

私たちはつい、時間を気にし、正解に近づけようとして言葉を急ぎます。
しかし、子どもが言葉を探している時間は決して遠回りではありません。

そこにこそ、思考が生まれているはずだからです。

3. 人は、選ばなくてもよいと”楽”になる

人は、誰かに決めてもらうと楽になります。

「これがおすすめです」と言われれば、それを選びたくなります。
「この通りに」と示されれば、その通りに進めようとします。

カーナビやネットの口コミなどは、その典型です。

便利になればなるほど、考える前に判断を委ねることが増えていきます。

ただ、厄介なのは、それを自分で選んでいる“つもり”になってしまうことです。

最初に出てきた案に引き寄せられたり、

誰かの一言で選択の幅が決まってしまったり、

書かれたことをなぞるだけで理解した気になってしまうことがあるのがそうです。

あくまでも、用意された枠の中にとどまっています。

ちょうど、スマホで見たいものを選択していると思いながらも、実は「メニューから選んでいる」というのと同じです。

4. その構図は、教室にもある

教室でも同じことが起きています。

教師の説明で方向が決まり、指示や問いかけによって道筋が整えられていきます。

つまり、説明の後、整理され、例が示され、表現が確認され、それから活動に入ります。

生徒は、教師の青写真通りに動きます。

ペアで話し、ノートに書き、発表もします。
一見すると、うまく進んでいるように見えます。

しかし、そのとき、子どもたちは何を選んでいるのでしょうか。

選択肢も教師が用意しているとしたら、おそらく何も選んでいないはずです。

使う表現はすでに示され、考え方も整理されている。

どの順番で話すかも、見えている。

ですから、

迷う必要はなく、困ることはありません。

授業は滑らかに進む一方で、その滑らかさの中で消えてしまっているものがあります。

それは、「自分で判断して選ぶこと」です。

5. 思考は、迷っている時に生まれる

私たちは、早く答えを教えようとするあまり、言葉を急いでしまいます。

しかし、答えだけでなく、根拠も考えて言葉を探すことこそが思考している証です。

どれを使うのか、どうつなぐのか、なぜそう考えるのか。

そうした迷いの中で、思考が動きます。

その時間を奪ってしまうと、学習はただ「なぞるもの」になってしまいます。

迷ったという感覚がなければ、自分で選んだという経験にはなりません。
結果として、自己調整する力や、自分でできたという実感も育ちにくくなります。

大事なのは、「答え探し」ではありません。

「なぜ」と問いを立てられることです。

そして、自分が行き着いた答えについて、「なぜなら」「たとえば」と言葉を重ねていける。

本当に理解しているかどうかは、そこで分かります。

6. 教師の善意が、思考を削るとき

教師は、色々な思惑から言葉を用意します。

(みんなに分かってもらいたい)
(授業を崩したくない)

(時間が余るのは困る)
(沈黙の時間は苦手だ)

また、次のような場面になると、

つい言葉を足してしまいます。

子どもたちの手が止まったとき、

言葉が出てこないとき、

沈黙が少し長くなったとき、

教師はこう考えてしまいます。

(このままだと終わらないかもしれない)
(少しヒントを出した方がいいのではないか)

そして、善意からつい言ってしまいます。

「ヒントを出すね。」
「こういう言い方もあるよ。」
「さっきやったよね。」

途端に、クラスが動き出します。

手が挙がり、ノートが進み、「分かった」という空気が広がります。

それを見て教師は安心します。

(やれやれ、これで大丈夫だろう)

しかし、その一言のあとで何が起きているのか。

そこが見落とされやすいのです。

それは、

教師が整えれば整えるほど、子どもたちは考えなくなる

ということです。

思考とは、知的飢餓感(中途半端、物足りなさ)があるときに起こるものだからです。

教師から示されたものを使い、

整えられた流れに沿って進んでいる状態は、

自分で選んでいるように見えて、

実は何も選んでいません。

この構造は、案外見えにくいものです。

この違いを生んでいるのは、活動そのものではなく、教師の設計によるものです。

そして、その設計の概念が、知らず知らずのうちに日々の「一言」となって現れるのです。

次回(第3回)への接続

では、思考を止めない教師は、具体的にどんな言葉を使っているのでしょうか。次回は、それを様々な角度から見ていきます。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント