◆ 「忙しい」で終わらせないために
先の記事では、「現場の忙しさ」を取り上げました。

管理職として現場に立っていた頃、こんな場面に出会ったことがあります。
部活動後、他の教師と長時間雑談をし、そこからようやく校務に取りかかる。結果として仕事が遅れた際に、「でも、毎日、本当に忙しくて……」と反論されたとき、私は思わず言葉を失いました。
「忙しい」という言葉は、時に現実を説明します。しかし同時に、それは私たち自身の段取りや見通し、優先順位を問い返すサインでもあるのかもしれません。
時間がなくなると、人は焦り、正しい判断ができなくなります。かといって、「とにかく早く始めればいい」というのでは「こなす」感覚になってしまいます。大事なのは、「この仕事は誰のために行うのか」という利他の視点を軸にすることです。
誰もが仕事を持っていますが、テキパキと仕事を進めて行く方は、隙間時間を利用し、すべてを完璧に仕上げようとしていません。100%を求めず、最初は七割の満足度(後で、必ず修正が必要になるので)を目指すだけでも、仕事は前に進み、過度なストレスは驚くほど減っていきます。
若い先生方の場合、つまずきやすいのは「取り掛かりの遅さ」です。初めての仕事は全体像が見えず、どうしても後手に回ってしまいます。しかしその背景には、引き継ぎの際に「何をするのか」だけで終わり、「いつ頃が一番忙しくなるのか」「そのために今から準備できることは何か」「変えた方がよい点はどこか」といった本質的な話が十分に共有されていない現実があります。
前の記事で、「人の脳は、同時に複数のことをこなすようにはできていない」と申し上げました。だとしたら、どの仕事も、まずはゴールを明確にし、見通しを立て、早めに取りかかることが必要になります。
一方で、「忙しさ」そのものを、もう少し冷静に見つめ直してみる必要もあるように思います。
確かに、委員会や市町村から次々と降りてくる調査や報告の中には、後の教育活動に十分還元されていないのではないかと感じるものも少なくありません。気がつけば、教育全体が「何のためにやっているのか」という根本を見失いかけている——そんな空気を、現場で感じておられる方も多いのではないでしょうか。
◆ 忙しさの「正体」
よく、「忙」という漢字のつくりから、「忙しい」とは「心を亡くした状態(冷静ではない)」と言われます。
そもそも、教師の「忙しい」という意識はどこから生まれているのでしょうか。
「忙しい」という意識は、実は仕事量そのものから生まれているとは限りません。
見通しと段取りを持ちながら、複数の仕事を並行して進めている教師も数多くおられます。一方で、「やることがいっぱいある。終わらない」という思い込みが、知らず知らずのうちに心を占領し、優先順位を曇らせ、段取りを乱し、見通しを奪っているのではないかと思われる事例も見られます。
この思い込みは、特に授業づくりの場面で、ある“形”となって表れます。
それは、 同じ授業を繰り返すという「安心」という名の思考停止です。
現場では、今も、「この単元は、このやり方しかない」「毎年、この流れでやってきた」という前例踏襲(今まで通り)で、複数のクラスにまったく同じ授業を提供する光景を見かけます。
同じプリント。
同じ説明。
同じ問い。
同じまとめ。
一見、効率的です。忙しい教師にとっては、“最も安全で、最も手間がかからない選択” に見えるかもしれません。
しかし、ここで一度、こんな場面を想像してみてください。
◆ ブラックチョコレートだけを配る授業
教室にいる生徒一人ひとりは、それぞれ違う「個性(味覚)」を持っています。
・苦い味が好きな生徒
・甘さがないと受け付けない生徒
・少しビターで、口どけのよいものが合う生徒
つまり、
ブラックチョコレート
ミルクチョコレート
生チョコレート
—そのどれを選ぶかは、本来、生徒によって違うはずです。
ところが授業では、教師がこう言ってしまうことがあります。
「忙しいから、今日はこれしか出せない」
「全クラス同じでないと回らない」
「違うことをすると、準備が大変」
その結果、教材は「ブラックチョコレート一択」の授業が生まれます。
苦さ(たとえば、プリントの量の多さ)に耐えられる生徒は、「まあ、食べられなくはない」と黙って受け取ります。
一方で、それを見た瞬間、顔をしかめる生徒もいます。
しかし誰も、「別の味のチョコはありませんか?」とは言えません。
なぜなら、教師が「これしかない」と授業の流れを決めてしまっているからです。
◆ 学習指導案は「全員同じ味」である必要はない
本来、学習指導案の表題は、こう書かれるものです。
「3年1組 英語科 学習指導案」
同じ単元、同じ本時であっても、クラスが違えば、
・理解のスピード
・反応の温度
・得意・不得意
・集団の空気
は必ず異なります。
つまり、授業は“味を調整するもの”であって、“同じ型に流し込むもの”ではありません。
現場にいた時、全国から授業を観にこられた方々が、同じ単元、同じ内容でありながら、「2年1組学習指導案」と「2年3組学習指導案」の2種類が配れられたことに驚いておられました。
しかし、クラスの実態(1組は話す活動が得意、3組は読む・書く活動で力を発揮する)を加味して部分的に変えた内容であったことに、協議会では「本来、授業はこうあるべきなのではないかとわかりました。しかし、私たちは金太郎飴のように指導案を考えてしまっています」という声が続出しました。
「忙しい」という理由で味の調整を放棄してしまうとき、教師は知らず知らずのうちに、生徒の学びの選択肢を奪ってしまいます。
◆ 忙しさの正体は「量」ではなく「設計」にある
ここで、はっきりさせておくべきことがあります。
教師を忙しくしている最大の原因は、仕事量そのものではないということです。
それは多くの場合、
・単元ゴールが曖昧(毎時間が自転車操業)
・「何のための活動か」が見えていない(場当たり的な指導)
・全クラスを同じ構造で回そうとする(個別最適の誤解)
・生徒の多様性やギャップを学習に活かしていない(コメント力の欠如)
という、授業設計の問題です。
単元ゴールから逆算して授業を設計できれば、
「この時間はブラック寄りで」
「このクラスはミルク味にした方がいいかな」
「ここは生チョコのように、滑らかにゆっくりと」
といった調整が可能になります。
設計があるからこそ、選べる。編集ができるのです。
結果的に、教師自身が迷わなくなり、時間(進度)に追われなくなるのです。
では、設計を変えることで、
「忙しさ」そのものの質が変わった教師は、
実際にどのような授業をつくっているのでしょうか。
◆ 上野正純先生(福岡市立三筑中学校)の実践より
先日、神戸市教育委員会の課長さん、係長さん、指導主事の方々、そして神戸市立太山寺中学校の先生方が、福岡市市立三筑中学校の上野正純先生の授業を視察に行かれました。
稲美町(兵庫)の3人の先生方同様、テンポのよいTT授業に大きな衝撃を受けられ、先生方は「絶対に授業を変えたい」と強く決心されたそうです。(指導主事さんからの報告より)
授業後、上野先生から次のようなメールがありました。
授業が始まると、クリスと私のTTは、まるで呼吸が合った二人三脚のように自然に流れ、生徒たちの目は、ひとつの物語を追うように輝きました。いつもの教室なのに、今日だけは少し違って見えました。
「涙が出るくらい感動しました。」太山寺中の先生が、頬を押さえながらそう言ってくださった瞬間、胸の奥で、ひっそりと灯っていた火が大きく息を吹き返すのを感じました。
「本当に夢のような時間でした。」
教育委員会の先生方のその言葉は、私の一年間の葛藤をそっと包み込み、“変わってよかった” という静かな確信へと変えてくれました。
協議会では、こう問われました。
「教科書は、どのように進めているのですか?」
私は迷いなく答えました。
教科書は“理解するもの”ではなく、“使い倒すもの”へと変わりました。単元ゴールから逆算し、生徒が動くために本当に必要な部分だけを取り出して組み合わせて(活用して)います、と。
先生方が「やっぱりそうでしたか」と深く頷かれたとき、自分自身がこの一年で歩んできた道の正しさを重ねました。
中嶋先生のご指導のおかげで、教科書はあくまで“ゴール達成のための素材”であるという視点を持てるようになりました。教科書のタスクを子どもたちの実態や関心に合わせて部分的に編集し、真の「教材」にする。この発想の転換が、今日の授業につながっていることを強く実感しています。
一年前の私は、教科書という一本道から外れるのが怖くて、ページを順に追うことが“安全”だと信じていました。でも今は、生徒の未来に光を当てたとき、その道の方がずっと迷いがなく、ずっと自由であることがわかりました。
単元ゴール(最後の授業の指導案から考えたこと)が明確であるからこそ、TTが生き、授業の言葉は研ぎ澄まされ、生徒たちは迷わずに進むことができます。今日の教室には、それが確かに息づいていました。
今日の公開授業を終えて、私は痛いほど実感しています。それは、授業が変わるのは、生徒が変わったときではない。教師が「設計」を変えたその日から、教室は静かに生まれ変わるのだ、と。
教科書依存を手放した一年は、私にとって“授業を見る目”だけでなく“自分自身を見る目”までも変えてくれました。
これからも、教科書ではなく、生徒の未来を中心に据え、単元ゴールから授業をつくり続けていきたいです。今日、教室に満ちていた静かな熱量を忘れずに。
◆ 教師が配るのは「答え」ではなく「選べる学び」
上野先生は、週末はサッカー部の主顧問、今年度は異動してきたばかりで中2の担任、さらにICT教育の担当として端末更新の年にあたり、全端末の番号確認と配布まで担っておられます。
このような状況でありながら、ご本人はこう語られます。
「大変ではありますが、忙しいとは思いません。」
そこには、「設計」があるからこその余白(心のゆとり)があります。
彼の取り組みから感じられるのは、利他(自分が誰かの役に立っている)から生まれる
生きがい(やり甲斐)です。
このことから、私たちは一度、立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
「私は、本当に忙しいのか?」
それとも、
「ブラックチョコレートしか配らない構造を、自分で無意識につくっていないか?」
努力を増やさなくても、時間を削らなくても、授業は、設計(デザイン)を変えるだけで大きく変わります。
全員に同じ味を押し付ける授業から、選択と調整のある授業へ。
その転換こそが、このHPで語り続けている「単元ゴールから始める授業づくり」と深くつながっています。子どもたちの育った姿がイメージできている教師は、授業中、実に楽しそうです。
授業の体質が変わったとき、いつしか「忙しい」とは言わなくなっている自分に気づくはずです。なぜなら、人は、楽しいことに没頭しているとき、忙しいなどとは微塵も思わないからです。
