🚲「揺れない教室」では、自立心は育たない

支えながら、手を離すと言う「設計」

あなたの教室には、今、「揺れ」がありますか。

すべて予定どおりに進み、

子どもたちは指示通りに動き、

活動は滞りなく終わる。

もしそうだとしたら、

授業が「うまくいっている」と言えるのでしょうか。

自律とは「整った環境」の中で育つのでしょうか。

私は、

初めて自転車に乗れた日のことを、

今でも鮮明に覚えています。

緩やかな坂の田んぼ道でした。

近所のMさん(3歳年上)と

Hさん(2歳年上)が、

代わる代わる

自転車の荷台を後ろから支えながら、

「心配せんでも大丈夫やちゃ」と

声をかけてくれていました。

ハンドルはふらつき、

ペダルを踏む足はぎこちない。

しかし、

倒れそうになるたびに、

ぐっと力強く支えてくれる

気配を感じていました。

何度も何度も

倒れてはやり直しました。

それは、夕暮れも近づいてきた頃でした。

突然、風が変わりました。

ぐん、とペダルが軽くなりました。

「あれっ? 乗れてる…」

さっきまで押してくれていた手は、

すでに離れていました。

「おぉ、そのまま漕ぎ続けろ!」

「いけいけー」

ずつと後方から2人のの声が聞こえました。

支えが消えたのに、

安心は消えていませんでした。

あの日、私が得たのは

「押してもらった経験」ではありません。

「自分で進んでいる」という実感でした。

◆ will は、憧れから始まる

私は「練習しなさい」と言われて

挑戦したのではありません。

先輩たちが楽しそうに乗っていたからです。

風を切る姿

軽やかなハンドルさばき。

「自分もああなりたい」

そんな気持ちでいっぱいでした。

命令でもなく、義務でもなく、

内側から湧き上がる衝動。

自律は外から押されて始まるのではありません。

内側から動いて始まります。

大事なことは、

押すことではなく、

手を離して見守ることです。

自律を育てる三つの柱

自律に必要なのは、次の3つのことです。

 自己選択(自己決定)

どの道を走るか。

どこまで進むか。

それを決めたのは、私でした。

授業でも、

・何を伝えるか

・どの順で話すか

・どの言葉を選ぶか

選択肢があり、

自分で決めます。

その瞬間に、学びは「自分ごと」になります。

教師は、答えを出す人ではありません。

選べる構造をつくる人です。

 判断力

坂道では、一瞬ごとに判断が必要でした。

少し速すぎる、

ここはブレーキ、

カーブはゆっくりとー

判断し、修正し、

また進む。

学びもそうです。

判断があるから、更新がある。

更新があるからこそ前に進める。

教師が整えすぎると、

判断の機会は失われます。

安全ではありますが、

成長はどうでしょうか。

 メンタリング ― 関係の中で生まれるもの

あの日のMさんとHさんは、

私に乗り方を“教えた”わけではありません。

後ろから一緒に走りながら

安定するように支え、

タイミングを見て、

静かに手を離してくれました。

彼らは、私の「自走」を促す伴走者でした。

私の揺れに合わせて、

手の力を変えていたのだと思います。

強く握るとき

少し緩めるとき

そして、離すとき。

そこには、

見えないやり取りがありました。

教師の支援も

迷いながら、

揺れながら、

・問いかける、

・待つ、

そして

・手を離す、

などのことを

場面に応じて選択します。

それは、決まりきった技術ではなく

目の前の子どもの反応によって、

臨機応変に変えていく営みです。

もちろん、設計は必要です。

しかし、設計どおりに進めることが

目的なのではありません。

目の前の揺れに応じて、

関わり方を変えていく。

そこにこそ、

教師の専門性があります。

安心の裏側

補助輪があれば、確かに転びません。

が、そこには「揺れ」はありません。
揺れがなければ、バランス感覚は育ちません。

転ばないことは、「乗れること」と同じではありません。

不安定さは、避けるべきことではありません。
むしろ、成長に必要な条件です。

教室の中はどうでしょう。

プリント、スライドも
活動の流れ、使う表現も、

すべてを教師が提示していく。

やることが決められていると

教師も生徒も安心です。

授業は予定どおりに進みます。

しかし、その状態が続くとどうなるでしょうか。

教師が支え続けなければ、前に進めなくなります。

学びが加速しなくなります。

補助輪を外す瞬間が、

どこにも設計されていないからです。

毎日、なんとなく

ゆとりのなさを感じてしまう原因は、

ここにあるのかもしれません。

「全部、自分が教えなければならない」
という責任感。

一人ひとりを思うあまりの、丁寧さの積み重ね。

それが行き過ぎたとき、
選択も、修正も、方向づけも、
すべて教師が請け負う構造になります。

そのとき、生徒は何を経験しているのでしょうか。

敷かれた道を、正確に歩くことはできても
自分で道を選ぶことは、ほとんどありません。

揺れる教室は、落ち着かないものです。
思い通りに進まない瞬間もあります。

しかし、その揺れの中でこそ、
子どもは自分の足で立とうとします。

補助輪を使わないということは、
突き放すことではありません。

支えながら、手を離すことです。

どの瞬間に任せるのか。
どの場面で見守るのか。
どこまで提示し、どこから委ねるのか。

そこにこそ、教師の設計があります。

教室に生まれる小さな揺れは、
不安の兆しではありません。

それは、
子どもが自律へ向かって動き出した証です。

揺れない教室は整っています。
一方、揺れがある教室では、育っていきます。

私たちは、どちらを目指すのでしょうか。

結びとして

あの日の坂道ー

手を離された一瞬の怖さ

その直後の風。

そして、

「自分で進んでいる」という実感。

あのとき、

私は一人で走っていました。

ですが、

一人で走れるようになるまでには、

誰かとの関係がありました。

支える、

離れる、

そして、見守る。

その間に流れていたものは、

単に「教える、教えられる」という関係ではありません。

揺れながら行き来する、

信頼の関係でした。

教室も、きっと同じです。

教師が設計し、

子どもが動き、

その動きに教師が応じ、

また子どもが変わる。

学びは、

一直線には進みません。

行ったり来たりしながら、

少しずつ、前に進む。

どの子にも、will は芽生えます。

その芽が、

自分の力で風をつかむ日までー

私たちは、

支えながら、

そしていつか、そっと手を離す。

そのために

教育があるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント