第3回(現象編):それは、本当に「言語活動」ですか?

キーワード発表は、なぜ止まるのでしょうか。
ちょっと、授業を覗いてみましょう。
教師:「はい、次の人。」
前に立った子が、タブレットを胸の前で持ちます。
画面には、
soccer
fun
favorite player
go to Spain
と書かれています。
やがてスピーチが始まります。

I like soccer very much.
I play soccer everyday.
It is fun.
My favorite player is Kubo.
He is great.
I want to go to Spain and watch soccer game.
Thank you.
(拍手)
教師 : Good Job!
うまく行ったようです。
でも、何だか違和感が残ってしまうのです。
さて、この発表は「言語活動」と言えるのでしょうか。
そのフリップは、誰のためですか
よく現場で見かけるシーンです。
しかし、
その画面は、相手に情景を渡すためのものでしょうか。
それとも、自分が忘れないためのカンペでしょうか。
もう少し、この場面の続きを見てみましょう。
その後、友だちから質問が出されます。
“Where do you play soccer?”
子どもは一瞬止まります。
視線が画面に落ちます。
書いてありません。
…school … in school … あれ、at かな? …
だんだん声が小さくなります。
原稿があると、言葉が予定通りに出てきます。
しかし、そこから外れたら、慌ててしまう。
スピーチを暗記する生徒によく見られる現象です。
これは「やり取り」でしょうか。
それとも、記憶の再生なのでしょうか。
「優しさ」が敷いたレール
では、何が起きているのでしょうか。
原因は、子どもではありません。
止まらないように、
困らないように、
恥をかかないように、
教師が、先に道を敷いているからです。
たとえば、
・モデル文を書いておく
・型を用意する
・キーワードを書かせる
こうすると、確かにうまくいきます。
でもそれは、
「当てはめる」ことがうまくいっているだけです。
当てはめている限り、「選ぶ必要」はなくなります。
順番を変えると空気が変わる
今度は、「順番」を変えてみます。
言葉から始めません。
場面から始めます。
写真を一枚出します。
自分が写っている写真です。
「そのとき、何があったのか。」
子どもはまず場面を思い出そうとします。
暑さ、音、匂い、友達の顔…。
そこから言葉を探し始めます。
ここで初めて、「何を使うか」が動きます。
“Why?”
“When?”
“How did you feel?”
問いが入るたびに、選択が生まれます。
ここで初めて、言葉が動きます。
逃げられなかった9年間
私は、富山県砺波市立出町中学校で9年間、3年生を担当しました。
毎年、1年間だけの付き合いです。
前年度からの積み上げはありません。
生徒たちの実態は毎年違っていました。
だからこそ、問わざるを得なかったのです。
「この1年で、何を残すのか。」
「どんな力をつけてやるのか。」
1学期は、音読と瞬発力
2学期は、意見を述べる型
3学期は、卒業文集とマイクロ・ディベート
すべてを、そこへ向けて再設計しました。
帯学習を組み替え、
文法項目別の歌を組み込み、
最終到達点を卒業文集に据えました。
理想から出発したのではありません。
「1年間で結果を出す」という制約から出発しました。
前年のやり方をなぞることはできません。
積み上げ型のカリキュラムにも頼れません。
ですから、1学期・2学期・3学期で系統的に力を高める独自の帯学習プログラムを設計しました。
「技能」は偶然では育たない
聞く力
発音記号通りの発音(舌と歯の使い方を徹底)
内容語だけを強く読む指導
Eye Shadowing
Content Shadowing
Silent Shadowing
Repeating
など、段階を踏み、処理速度と理解精度を上げていきました。
読む力
名詞・動詞・副詞の3つのチャンクで捉え、
読解所要時間を設定し、
英語の語順のまま高速で意味を取る訓練を重ねました。
話す力
基本文の徹底暗記。
高速Q&A。
Q&A+1文(理由・意見)。
キーワードから即興で質問を生成する訓練。
90秒間、話題を変えずに10ターン以上やり取りする深掘り対話。
偶発に任せません。
段階を踏みます。
しかし、最後は自分で選び、組み立て、広げさせます。
このように系統立てて積み上げると、
4技能は別々ではなく、一本の線でつながります。
生徒の言葉が教えてくれたこと
最後の授業後に書いてもらった生徒のコメントを
月刊誌『現代英語教育』で、当時編集長をされていた
津田正氏(研究社出版)に見ていただきました。
津田氏は、一通り読まれ、1つのコメントを取り上げてこう言われました。
「教師に教わったというより、自分で掴み取ったという自負心が伝わってきますね。こういう感想が大事ではないかと思います」
生徒は、こう書いていました。
「教科書はいつの間にか終わっていた。
豆を使ったり、映画を見たり、歌を歌ったり、
詩を作ったり、ディベートをしたりしているうちに、いつの間にか英語で点数が取れるようになっていた。不思議な授業だった。」
夢中になって活動しているうちに、力がついていた。
そのとき、はっきりとわかりました。
「活用」とは、特別な活動のことではない。
構造の問題なのだ、と。
第3回のまとめ
私たちは、子どもに何を渡しているのでしょうか。
答え方でしょうか。
それとも、考え方でしょうか。
止まらない発表でしょうか。
それとも、止まっても立て直せる力でしょうか。
言語活動かどうかを判断する基準は一つです。
それは、
子どもが、自分で選んでいるかどうか。
もし選んでいないなら、
それは、一見、活動の形をしていても「応用」であり、練習です。
子どもたちが自分で選んでいるなら、
そこに初めて「言語活動」が生まれます。
授業を変えるとは、活動を増やすことではありません。
構造を変えることです。
その瞬間、教室の空気が今までとは変わります。
そして教師自身も、
以前の授業に戻ることができなくなる感覚を覚えるはずです。
▶️次回(第4回)の予告
では、その判断を支える土台はどこにあるのでしょうか。次回は、系統的にプログラムされた「帯学習」の位置付けを問い直します。
