【第1回】「どの花見ても」と歌いながら、私たちは何を見ているのか
幼少の頃、よく歌ったチューリップの歌を、今でも覚えているという方は多いのではないでしょうか。
ただ、立ち止まって、その歌詞の意味を考えたことはあるでしょうか。
私たちは、チューリップの花を見ると、自然に選び始めます。
赤がいい。
いや、白が好きだ。
やっぱり黄色かな。
どれが一番きれいか。
どれが目立つか。
自分の好きな色はどれか。
どうしても、一つを取り出して見てしまいます。
しかし、この歌は、そこへ向かっていません。
赤、白、黄色と並べながら、実は、一つも選んでいないのです。
「どの花を見てもきれい」と言い切っています。

それは、「比べて評価する見方」ではありません。
全体を、そのまま受け取ろうとする見方です。
私たちは普段、「比べて、選ぶ」という見方で、
身の回りのものを見ています。
スーパーでも、レストランでも、
「どちらがよいか」と比べながら、選んでいます。
その見方は、教室の中でも見られます。
よくできた発言
うまくいった活動
教室の盛り上がり
最後にきれいにまとまった場面。
うんうん、と言いながら
やっぱり、目立つものに目が向いてしまいます。
ただ、本当に見るべきところは、どこなのでしょうか。
◆ 色は偶然ではない
砺波市(富山県)の姉妹都市である、オランダのリッセ市を訪問した際、
キューケンホフ公園に行く機会がありました。
チューリップ公園として世界的に有名で、「ヨーロッパの庭」とも呼ばれている場所です。
会場で、市教委の方から、こんなことを聞かれました。
「チューリップに、青色や緑色がない理由をご存知ですか」
確かにそうです。しかし、正直、そのようなことは考えたこともありませんでした。
すると、その方はこう話してくださいました。
「花の色は、人間が鑑賞するためのものではありません。
そもそも花の色は、受粉のために昆虫へ働きかける役割を持っています。
そして、青は、発色に必要な条件がそろいにくい。
緑は、葉として光合成を担う色であり、花びらでは現れにくいのです。」
「誰(昆虫類)に向けて」
「何(受粉)のために」
色が存在しているということでした。
見えている色は、偶然ではありません。
目的によって選ばれています。
今、現場でなかなか定着していないように思われる
コミュニケーションにおける「目的・場面・状況」
もそうなのかもしれません。
その活動は、誰に向けたものなのか。
何のために、その活動をしようとしているのか。
どのように問題解決をするのか。
教科書を先に進める前に、どうそれを設計できるかが問われています。
◆ 美しさの裏に
今年のGWも、砺波市のチューリップフェアには、
多くの人が訪れていました。例年、30万人超の来場者がありますが、今年はどうだったのでしょうか。

フェアの会場に立つと、誰もが同じような言葉を口にします。
「きれいだ」
「まるで絨毯みたい」
色がそろい、形が整い、どこを見ても見事に配置されています。
そこに立っているだけで、“作品”の中に入ったような感覚になります。
ただ、この景色は、自然に生まれているわけではありません。
砺波市では、GWに見頃が重なるように、
何ヶ月も前から開花時期を調整しています。
開花時期の異なる品種を組み合わせる。
雪を山から運び込み、温度上昇を抑える。
サンシェードで日光を調整する。
スプリンクラーで水分を管理する。
そうやって、膨大な時間と労力をかけながら、咲くタイミングを揃えていきます。
それでも、完全には揃いません。
気温、日照、風、などの
自然条件によって、ズレは必ず生まれます。
制御できないものを抱えながら、それでも、
ぎりぎりまで揃えようと努力を続けています。
◆ 外で起きていること
ところが、会場を離れると、まったく違う光景に出会います。
広大なチューリップ畑では、チューリップの花が次々と切り落とされているのです。

しかも、枯れた花ではありません。
いちばん美しく咲いている花です。
それでも、作業をしている方の手は止まりません。
ためらいもありません。

その光景を見た瞬間、多くの観光客の表情が変わります。
「えっ、なぜ?」「さっき、会場では売っていたのに」
思わず、そこで立ち止まります。
会場の中では、“完成された美しさ”として見ていた花が、
会場の外では、次々と刈り取られていく。
そのギャップに、多くの人が戸惑います。
最初に浮かぶのは、「もったいない」という感情です。
それは、私たちが「花は鑑賞するもの」という見方に慣れているからです。
◆ なぜ、最も美しいときに切るのか
チューリップは、花のために育てられているわけではありません。
その先に残る「球根」のために育てられています。
花を残せば、栄養はそちらへ使われます。
本来、球根へ戻るはずの力が、そこで消費されてしまう。
だから、切るのです。
切るのは、終わらせるためではありません。
戻すためです。
問われているのは、
「何を残すのか」
という視点です。
目の前の完成を残すのか。
次につながる力を残すのか。
チューリップの花は、誰の目にも見えます。
色、形、並び、美しさは、外側に現れています。

一方で、球根は見えません。
土の中にあります。
外からは見えない。
どれだけ力を蓄えているのかも、分かりません。
しかし、実際に花を咲かせているのは、球根です。
見えている花ではありません。

冒頭で、授業では、つい「見えるもの」に目が向いてしまうと言いました。
発表できた。
活動も成立している。
教室はにぎやかで、最後にはうまくまとまった。
それらは、花です。
しかし、その花を咲かせているものの存在を
忘れてはいけないように思います。
迷いながら考えていた時間
言い直そうとしていた瞬間
他者との違いに揺れていた場面
自分で選び直そうとしていた思考。
それらは、外からは見えません。
ただ、そこにこそ、次につながる力があります。
小さな揺れや迷いを、
教師が見落とさずにいられるかどうか。
授業は、そこから変わり始めます。
そして、それを継続させることで、
私たちの授業力が確かなものになっていきます。
◆ 「すぐ使えるもの」の先に
いまは、答えにすぐたどり着ける時代です。
検索すれば、瞬時に情報が手に入ります。
生成AIを使えば、整った文章もつくれます。
授業でも、
すぐ使えるワークシート
すぐに成立する活動
そのまま真似できる実践
現場には、そうしたものを求める空気があります。
便利なものを使うことが問題なのではありません。
問題なのは、
気づかないうちに、「すぐ使えるもの」を探すこと自体が、
授業づくりになってしまっていないかということです。
それに伴い、教師自身の「見る力」が、だんだん劣化していくからです。
時短、コスパ、タイパ ーー
それだけを追い続けていると、
自分自身の技能、視座が磨かれないままです。
今、使おうとしているその方法は、
「何の力をつけるため」にあるのか。
そのあとに、何を残すのか。
子どもたちは、何ができるようになるのか。
この問いを持たないまま、
「とりあえず使えそうなもの」
だけを選び続けていると、
私たちの「教材観」「観察眼」「判断力」が、少しずつ痩せていきます。
■ 第2回 予告
見えているもの。
そして、見えてはいないが、本当は大事にしたいもの。
この違和感は、教室の中でも、繰り返し現れています。
消えているのは、子どもの力なのでしょうか。
それとも、私たちの関わり方なのでしょうか。
もし、後者だとしたら
「うまくいっている授業」そのものが、見直しの対象になります。
私たちは、何を「できた」と呼び、何を見ないまま通り過ぎているのでしょうか。
次回は、
「うまくいっている授業」の中で、実際には何が消えているのかを見ていきます。
