🍀見えているものに、私たちはだまされていないか(2/3)

【第2回】なぜ、「うまくいった」で終わってしまうのか ― 協議会は、授業の何を見ているのか ―

第1回では、チューリップの花を見ながら、

私たちがいかに「見えているもの」に引き寄せられているかを考えました。

花の色、形、並び、美しさ。

どれもが目に見えるものです。

しかし、その花を支えている球根は、土の中にあります。

学校でも、同じことが起きています。
私たちは、見えるものを見て「うまくいった」と感じます。

発表が途切れずに続く、
やり取りが滑らかにつながる、
時間通りに授業が収まる。

行事でも同じです。

進行に乱れがない、
全体が予定通りに動く、
やり切ったという空気が残る。

いずれも、終わったあとに、ほっとします。
その感覚には、確かな実感があります。

ただ、その直後です。

「いい授業でしたね」

「総合学習の発表会、感動的でしたね」

そう言っていなかったでしょうか。

その一言が置かれた瞬間、

そこで閉じてしまったものはなかったでしょうか。

整っていること、
滞りがないこと、
予定通りであること。

それらが重なるほど、疑問が立ちにくくなります。

何も問題がないこと、
それが、当たり前という見方になっていきます。

すると、何が生まれるでしょうか。

そうです。

「例年通りにすれば、問題は起こらない」という考えです。

その協議は、「何を見ている協議」なのか

研究授業後の協議会を思い出してみてください。

協議会では、次のようなコメントが並ぶことがあります。

「今日は、子どもたちが本当によく話していました」
「ICTも効果的でした」
「活動量がありました」

最後は、司会者が型通りに収め、助言者に「まとめ」を委ねます。

ただ、その瞬間、誰も触れていないものが

残っていることがあります。

何人かの教師は、授業で使われたワークシートを

じっと見つめています。

(生徒は、本当に自分で考えていたのだろうか。)
(ワークシートを使った予定調和の授業だったのではないか。)

しかし、そうした問いは、
時間が取られないまま流れていきます。

そして、全てが終わっても、どこかでモヤモヤ感が残ります。

会場に残って話し続ける教師たちがいます。

廊下や駐車場で、まだ議論を続けている教師たちもいます。

生徒に「技能」を身につける指導とは何か、

デジタル教科書と、どう向き合えばいいのか

教科書をどう精選し、どこに時間をかけるべきか

本当は、そこをもっと話し合いたかった。

しかし、現実には、時間通りに進めることが優先されてしまいます。

逆に、自由発言を広げ過ぎた結果、収拾がつかなくなり、助言者の時間が大幅に削られてしまう協議会もあります。

せっかく全員が集まる貴重な機会でありながら、研究授業をした教師の「顔見せ」で終わってしまう。そんなとき、つくづく研究授業は、一人の授業者のためにあるのではないと感じます。

その地区全体の授業を、どう底上げしていくのか。
そこを考えるために、教師たちは集まっているのですから。

なぜ、モヤモヤ感は残ったまま流れていくのか

では、なぜ、そのような「モヤモヤ感」が残ってしまうのでしょうか。

問題は、個々の教師の「力量」だけではなく、

協議会そのものの「構造」にあるように思います。

多くの協議会は、「意見のある人が挙手して述べる」形で進みます。

すると、最初に発言した人の観点が、その後の方向を決めてしまいます。

以後の発言は、その枠の中での賛否や補足に寄っていきます。

「印象に残ったこと」のコメントが続き、

表面的な褒め言葉が重ねられます。

時折り、型通りの質問が出てきます。

すると、「何か違う」と感じていても、

そこを取り上げる声は出にくくなります。

こうして、本来検証されるべきだったものが、

少しずつ消えていきます。

教師の視線は、次第に”見えやすいもの”へ

集まっていきます。

扱われるのは、いつも見えやすい表層です。

活動量、ICTの使い方、授業のテンポ、提示の工夫、などです。

もちろん、それらも必要です。

しかし、それだけ見ていると、

学習者の中で何が育っていたのかが見えてきません。

単元目標との接続」はどうだったのか、

学習者の力は、次の活動に転移できる状態になっていたのか。

そこを掘り下げる見方が、後退していきます。

このような協議会が常態化すると、

表面的な見方が当たり前になってしまい、

日頃の授業も、その方向に引っ張られていきます。

つまり、

何をしたか
どう教えたか
教科書をどう終えるか

という”技術面”の話に終始してしまうのです。

協議会で問われなければならないのは、

自由発言の活発さではありません。

どんな力が育ち、何が変化したのか。

そこです。

協議会は、それを検証する場として「設計」されるべきなのです。

問いが出てこなければ、見えている対象は変わらない

では、誰が次のような問いを持ち出せばよいのでしょうか。

この授業で、学習者は何ができるようになったのか。
単元の目標は、本当に達成されていたと言えるのか。
ワークシートや板書などの支えに頼らないでできていいたか。

悩んでいる若手教師でしょうか。

一定の経験を積んだ教師たちでしょうか。

現場では、残念ながら、

授業者が時間をかけて準備をしてきたことを尊重するあまり、

波風が立たないようにしよう」と、

どこかで遠慮してしまう風潮があります。

一方で、

日頃から、授業づくりに真摯に取り組んでいる教師たちは、

協議会の「視点」が明確になった瞬間、さらに踏み込み始めます。

学習者は、自分で判断し、選び、調整しながら目標に到達しようとしていたか。
それとも、用意された流れの中で“うまく動いていただけ”だったのか。

この層の問いが出てこない限り、どれだけ言葉が交わされても、見ている対象は変わりません。

果たして、見方が変わらないまま、授業だけが変わっていくことはあるのでしょうか。

協議会は「感想の共有」ではなく、「仮説の検証」である

協議会は、単に、授業後に印象や感想を出し合う場ではありません。

授業前に立てた「仮説(単元計画や学習指導案)」が、

どう授業で「検証」されたかを「解明」する場です。

そのためには、最初に「論点」を固定する必要があります。

たとえば、外国語の授業であれば、三つの視点が考えられます。

❶ 見るべきなのは、活動が盛り上がったかどうかではありません。
その活動の中に、目的・場面・状況が本当に生きていたかです。

❷ 次に見るべきなのは、発話量ではありません。
学習者が、何を選び、どこで考えを組み替えたかです。

❸ 最後に見るべきなのは、授業が成立したかどうかではありません。
その活動を通して、次に持ち出せる力が残ったかどうかです。

それぞれについて、

「できていたか、どこで崩れたか、なぜそう見えたか」

を場面ごとに切り取って、分析を加えていきます。

印象や感想ではなく、
観察された事実言語化された根拠で往復します。

この設計にすると、議論は自然に深さを持ちます。

話題が散らばらず、評価軸が揺れず

結論が個人の好みで決まらなくなるのです。

協議会は、「進行」ではなく「設計」で変わる

問題は「誰が進行するか」ではありません。

検証する場として機能させるには何が必要か。

そこを、最初に全体で共有しないまま始めると、

協議会は、ただの感想発表会で終わります。

いつまで経っても、「よい授業とはどのようなものか」を判断する視座は確立されません。

もし、授業をした生徒たちが後ろで協議会の様子を

見ていたら、さぞやがっかりすることでしょう。

確かに、経験の浅い教師ほど、見えやすい部分から見ます。

活動そのもの、発表の仕方、ICTの使い方、授業のテンポ、やり取りの量、など。

ただ、それは、誰もが通ってきた道です。

だからこそ、協議会の設計が重要なのです。

授業者と助言者、司会者が単元計画を立てる段階から打ち合わせを行い、研修テーマと結びつけながら、次のように何を検証するのかを整理しておく必要があります。

⚪︎ 論点を項立てし、グループで具体場面をもとに検証する場とする

⚫︎ どこで目的・場面・状況が立ち上がっていたかを見る。
⚫︎ どこで学習者が選択したかを確認する。
⚫︎ どこで思考が止まり、どこで動いたかを振り返る。

これらの視点が共有されたとき、初めて「見えていなかったもの」が見え始めます。

厳しい問いを、関係を崩さずに出せる場にするには

ただ、 このような検証型の協議は、自然には生まれません。

しかも、場の空気によって、簡単に後退してしまいます。

先ほども述べたように、

「授業者に悪いから」
「そこまで言わなくても」
「せっかく準備してきたのだから」

そうした遠慮が重なると、

本来検証されるべきものが消えてしまいます。

同時に、教師の矜持を萎えさせていきます。

だからこそ、管理職や主任層、そして指導主事の役割が問われます。

厳しい問いを出しても、人格否定にならない。
違和感を言葉にしても、関係が壊れない。

そのような「言語環境」を、日頃から、様々な場面で醸成していくことです。

最近では、「心理的安全性」という言葉で語られることもあります。

ただ、これを勘違いしてはいけないと思います。

協議会が“あたたかい”雰囲気で進むこと自体は悪いことではありません。

問題は、その「あたたかさ」が、

勘違いされてしまい、

問題に触れない、
核心に踏み込まない、
「子どもが頑張っていた」で終わる、

そんな“甘い体質”になってしまうことです。

本当の学びには、時に痛みが伴います。

しかし、その痛みは、
授業を否定するためのものではありません。

よりよいものを目指すための痛みです。

実際、改善点がほとんど出てこない協議会があります。一方で、「ここは、こうすればもっと子どもが考えられたのではないか」「この活動は、本時のねらいにつながっていただろうか」「子どもは、本当に“できる”ようになっていたのだろうか」という議論が次々に出てくる協議会もあります。

違いは、
授業を見る“視点”を持っているかどうかです。

単に、

「ALTとうまく連携していた」
「子どもが楽しそうだった」

という表面の部分だけを見ていると、

教師が教えたことを「わかったはず」と思い込み、子どもが本当に身につけているかどうかを確かめないまま授業を終わってしまいます。

何度も言うように、

本当に問わなければならないのは、

この授業では、
どんな力を育てたかったのか

そして、

その力は、本当についたと言えるのか

そこです。

授業を見るとは、
「流れ」を見ることではありません。

学びが、どこで立ち上がり、
どこで止まり、
どこで変わったのかを見ることです。

協議会とは、教師が、他の教師たちから学ぶ“もう一つの授業”なのです。

問題が見えれば、改善ができます。

見えていなければ、改善は始まりません。

自分の力以上のことには気づけない

という言葉があります。

自分では見つけられないからこそ、
他者の視点、今の自分にはない視点が

必要になるのです。

本気で語り合える場こそが、

教師の確かな指導観を育てます。

逆に、協議会の質が低ければ、やがて

育った子どもの姿を「これくらいでいいか」

と考えるようになります。

協議会で育つのは、授業者だけではありません。
参観者の見方も、そこで育っているのです。

海老名市の研修は、なぜ協議の質を変えているのか

では、そのような協議を、実際にはどのよう成立させればいいのでしょうか。

その一例が、私が三年間、継続して関わっている神奈川県海老名市の小学校外国語の研修です。

それは、点ではなく、線の研修(1年間に4回)です。

市の研修テーマからおろした視点で、授業を時系列で分解していきます。

研修には、関西外大教授の直山木綿子先生(元文科省視学官)も関わり、

協議のあり方そのものを大切にしています。

協議会の進め方は、導入、展開、言語活動、振り返りの各局面で、

先の視点が機能していたかどうかを検証します。

グループごとに、模造紙に授業の流れを書き出し、

三色の付箋に気づいたことを書き込み、

それを時系列で貼っていきます。そして、

できていた事実。
揺れた箇所。
改善できる箇所(仮説とのすり合わせ)。

これらを、グループで徹底的に突き合わせ、討論します。

ここで扱うのは感想ではなく、事実であり、根拠です。

学習指導要領に根ざした観点を、具体の場面に落として確かめる作業です。

「コミュニケーションにおける目的・場面・状況」は、どこで学習者の判断を生んでいたのか。
「見方・考え方」は、どの場面で働いていたのか。
「言語活動を通して」という原則は、活動の形ではなく、力の変化として表れていたのか

同じ場面を見ても、どの視点で見るかによって結論は変わります。

だからこそ、視点を先に共有しておくのです。

このプロセスを通すと、「よかったこと」の内訳が、細分化され、言語化されていきます。

こうして、何が残ったのかが、少しずつ見えるようになります。

若年層の教師が増え続けている地区だからこそ、

彼らに確かな力を身につけてほしい。そして子どもたちを逞しく育ててほしい。

そのような願いが、協議会での熱い討論から透けて見えます。

TTとALTを、活動の外側から見直しているか

協議会で見落とされやすいのは、TT授業でも同じです。

現場からの依頼で、TTの授業を拝見することが多いのですが、

考え直さなければならないことがあります。

それは、「TTは、何のためにするのか」という視点です。

たとえば、

役割分担が機能している
テンポよく進む
英語に触れる機会が増える

果たして、それで十分なのでしょうか。

本来のTT授業とは、準備(分担決め)ではなく、授業が終わった後の反省から始まるものです。

次の点はクリアーできているでしょうか。

⚫︎ ALTは、単元のゴールを知っていたのか。それに向けて、自分が何をすればいいかを

最初の単元計画の時点で共有されていたか。
⚫︎ ALTの特質や背景情報や考えを活かす単元計画がされないまま、教科書をなぞる役割に閉じていなかったか。
⚫︎ その関わりは、学習者の思考の選択や組み替えに影響していたのか。

⚫︎ コメントが Good job! や Excellent! レベルで終わっていなかったか。個々の発表者に対して、具体的に何が良かったのか、そして更なる改善点が何かを示していたか。(それを日頃から教師間で話し合っているか)

役割を分担(共同)し、50分(45分)で授業を無事に終わらせることが目標になっているとしたら、それは本当にTT授業と言えるのでしょうか。

TTとは「協働」であり、それはゴールを熟知し、それに向けて責任を持って取り組み、お互いに良い影響を与え合う関係になることを言います。

確かに、分担は効率を上げます。
ただ、思考の質を上げるとは限りません。

これも、球根、協議会と同じです。

見えているのは、役割分担や授業の進行です。

しかし、本当に見るべきなのは、

その協働が学習者の判断や思考の深まりにどう作用したのか

という土の中の部分です。

TTの根幹は、事前の打ち合わせ(Before)よりも、

授業で見えた問題をどう解決するかを話し合うこと(After)なのです。

協議会は「結果の評価」ではなく「設計の再構成」である

最後に、もう一度、協議会に戻りましょう。

協議会で扱うべきは、「よかった点の列挙」ではありません。

設計」がどのように機能し、どこで機能しなかったかを「再構成」することです。

単元目標から逆算して、

どの局面で、どの支えが入り、どのタイミングで外れたのか。
そのとき学習者は何を選び、どこで迷い、どう修正したのか。

このように分析すると、「うまくいった」も、何がどのように効果的だったのか、

その具体に分解されるのです。

そして、大事なことは、分解できたもの(どこでも一般化できる原理原則」)だけが、次に再現可能になるということです。

これは、学校の研究主任や研修部だけに任せればよいというレベルの話にはなりません。

地教委や指導主事が、最初の単元構想づくりから関わり、方向性についてアドバイスをし、

協議会の方向性を明確に示す必要があります。

協議会の質が変われば、参加者の「授業を見る目」が変わるからです。

授業を見る目が変われば、日頃の授業のつくり方も変わります。

定期テストの内容を「初見の問いに答える」に変えれば、授業は大きく変わります。技能を身につけないとできないからです。教え込む授業ではなく、実際に使わせる活動が増えていきます。

要になるのは、教師の「視座と視点」であり、時間を惜しまずに「戻そう」とする勇気、そして「見えないものを見よう」とする気概です。

新型コロナで対面研修ができなくなったとき、依頼を受けて、全国の指導主事(参加者は50人)を対象にオンラインで2時間の研修を行いました。授業の見方、助言のあり方、協議会の持ち方などについてお話をしましたが、どの方も真剣でした。終わってから、たくさんの参加者からレポートが送られてきました。日本の教育を少しでもよくしたいという責務の念を強く感じました。今回も、一人でも多くの指導主事、管理職、そして研究主任が本記事を読まれ、現場での小さな一歩につなげていただければと心から願っています。

■ 第3回の予告

では、「思考」は、どうすれば“戻る”のでしょうか。

答えは「進め方」ではありません。
戻し方」にあります。

「戻す」とは具体的に何をすることなのか。

次回は、授業、協議会、思考ツールの実践場面を通して、そのプロセスを見ていきます。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント