生徒が”夢中”になる授業はどこが違うのか(全3回)

 今回から3回に分けて、「授業づくりの秘訣」について述べようと思います。長引くコロナ禍により、対面で行うべき研修の機会が激減し、新しい学習指導要領の3観点(特に「思考・判断・表現」)の理解が深まっていないように思うからです。 3回の内容は、それぞれ次のようになります。

🔵第1回 教科書の「内容理解」だけを目指す授業の問題点(個で終わる教育)
🟠第2回「内容理解」だけで終わらない授業デザイン(仲間とつながる教育)
🟢第3回「思考」を言語化する授業の醍醐味(未来に活きる教育)

第1回 教科書の「内容理解」だけを目指す授業の問題点(個で終わる教育)

まずは、次の写真をよくご覧ください。生徒はどこを見て、何をしているでしょうか。

写真を一目見た瞬間、思わず引き込まれてしまうのはなぜでしょうか。

どの生徒も発表者を凝視し、傾聴しています。発表者 は、教師の「問い」に対して準備した「答え」ではなく、今まで学んできた英語を駆使して「自分の考え」を朗々と述べています。他の生徒たちは、彼女の意見について、なぜそのように考えるのか、自分ならどのように考えるかという視座で集中して聞いているのです。このようなシーンを、自分の授業でも見られたらと思うと、心がときめくのではないかと思います。

生徒が授業に集中している、夢中になって活動をしている。これは、多くの教師の願いです。そこで、教師は「相手の 目を見て聴く」というルールを作ることが多いのですが、残念ながら形骸化してしまうことが多いようです。なぜなら、発表者が答えを言って終わったり、ノートに書かれたことを読んでいたりするなど、「傾聴する」必要感がないからです。生徒がどんな答えを言っても、教師はコメントをしなかったり、または教師が再度言い直したことだけ聞いていればよい状況だったりするからです。そして、それは教科書本文の構造や意味、言語材料の理解がゴールになっており、生徒同士が「自分の考え」(本来の表現活動)をやり取りするというプロセスが抜けてしまっているからです。

なぜ、そうなってしまうのでしょうか。ターン(情報や意見のやり取り)の回数が増えると、それだけ時間がかかってしまい、教科書の進度がどんどん遅れていくからです。やがて、予定調和で、用意したことを時間通りに進める授業が当たり前になってしまうと、教師は、自分が意図した方向に必要な生徒の考えや意見だけを取り上げるようになります。考査のための進度確保に重きがおかれ、授業では、教科書「を」教えることに終始してしまいます。すると、生徒がワクワクするような課題、学習内容を深める発問、生徒同士の意見をつなげるコメントや問いかけができなくなくなってしまうのです。英語が、高校入試、大学入試のための1教科になってしまうと、テストの点数をどう上げるかに重きが置かれるようになります。すると、赤ちゃんのように、さまざまな場面で「思考・判断・表現」することを通して、ことばを獲得するプロセスではなくなります。

この写真が撮られたクラスでは、どの生徒も、ストーブの暖気以上に熱い熱気を持って、意見のやり取りを自在に行っています。生徒たちは、日頃から英語の授業で、「討論」(ペア、3人、4人、クラスなど)に慣れ親しんでおり、それを心から楽しんでいるのです。教師は「教育ディベート」(勝ち負けや論破ではない、授業を通じて意見や考えを伝えあう)を通して、生徒の「知的好奇心」や「知的飢餓感」を喚起しています。高等学校であれ、小学校、中学校であれ、人が行動を起こす時の原理原則は同じです。幼少のときの「知的好奇心」は、大人になっても健在です。また、人間の学習心理は、年齢によって大きく変わるものではありません。

写真の授業を展開されたのは、福井県立藤島高等学校の三仙真也先生です。第2回は、彼の授業を参観し、衝撃を受けられた方々が、三仙先生の授業の謎解きに挑戦します。

第2回 「内容理解」だけで終わらない授業デザイン(仲間とつながる教育)

 私(中嶋)は、三仙先生の授業(ビデオを含む)を何度か拝見し、「これこそが、『思考・判断・表現』を具現化された授業だ」と痛感しました。そこで、昨年度、大修館書店『英語教育』で一緒に連載をした仲間(「教師のための綴り方教室」のメンバー)にその授業の凄さを映像と共に紹介しました。心を動かされたメンバーは、三仙先生に授業参観の依頼をし、藤島高等学校側の快諾を得て令和5年2月24日に訪問できる運びとなりました。

 三仙先生の授業を参観されたのは、宮崎貴弘先生(神戸市立葺合高等学校)と同僚の中野裕太先生、そして宮浦陽子先生(大阪府立咲くやこの花高等学校)です。 まずは、宮崎先生からのポートです。(下線は筆者)

🔵  授業を観ながら、解き明かしたいと思ったことがありました。それは、なぜ生徒たちは知的好奇心が高いのかということです。ルールとして発表者の方を全員が見ているというより、発表者の話すことに関心を持ち、自然と全員が発表者に体を向けていました。なぜ、このような生徒が育っているのだろうか、を解き明かしたいと思いました。
授業後の三仙先生との協議から、少し謎解きができました。三仙先生の授業では、教科書を理解させることが目標になっておらず、教科書を「思考」の材料として扱っています。それを授業内でのインタラクションで実現されていました。
拝見した授業では、生徒同士のインタラクションが  
 教科書の内容を正しく伝え合うため   
❷ 個々が気付いたことをシェアするため 
❸ お互いの思考を深めるために、行われていました例えば、準備した自分の考えをペアで伝えた後、10秒間、自分のメモを追加したり、修正したりする時間を取っていました。その時間が与えられた瞬間、多くの生徒がすぐにペンを走らせました。これは、ペア相手の意見を聞いているときや、自分が話しているときにも考えているからこそ、即座にメモを追加したりできるのだと思います。つまり、聞きながら、話しながら、自分の意見を常に修正しているのです。         
これは、習慣化されているからだと思います。きっと、レッスン毎にこのような場面を作っているからこそ、生徒はまたメモを追加・修正する機会があることを前提に、活動に取り組んでいるのだと思います。英語を使って発表できていれば、それでよしとする授業(正しい文法や語彙を使っていれば、発言の内容は特に問わない)をよく拝見することがありますが、三仙先生の授業は全く別次元のものでした。
三仙先生は、生徒の発話を予想し、それに対してどう深掘りするかといったことまで準備しておられたのです。つまり、教師と生徒のインタラクションが、教科書で学んだ内容を深めるための手段となっているということです。教科書の本文理解を目的とした授業では、使われるのは事実発問(fact-finding questions)がほとんどです。これでは、学習者はワクワクできません。答えが決まっているからです。確かに、テストでは「正答」が必要になりますが、生徒が学習への知的飢餓感や知的好奇心を感じるのは、自分にはない仲間の考え方、またはそう考える理由に触れたときです。
三仙先生にとって、事実発問は、あくまでも教科書の内容を確かめ、次のステージに導くための素材であり、大事なのは、三仙流の推論発問(行間を読み取る発問)で生徒の多様な考えを引き出し、評価発問によって、ギャップを生み出し、深掘りをすることです。
その一連の発問が、最後のパフォーマンス課題とも関連しており、毎回のレッスンで同じように授業内で考えたことが、最後のパフォーマンス課題ともつながっているからこそ、生徒たちはゴールを認識しながら、他の生徒の考えに関心を持って聞いたり、メモをしたり、考えたりしているのだろうと推察できました。
今回、神戸市の英語実践グループ研修の一環として参加させていただきました。夏には、三仙先生の授業からの学びを神戸市の高等学校の英語科全体に還元していきます。参加された先生が、形だけのインタラクションで満足するのではなく、内容を深めるインタラクションに取り組んでみたいと強く思えるようにしたいです。三仙先生、中嶋先生、この度は、貴重な研修の機会をありがとうございました。
         続いて宮浦先生のレポートです。(下線は筆者)
🔵 50分の授業を通して、生徒同士が協働し合う教室、授業を通して個々の学びが深まっていく様子を見ていて驚愕しました。生徒の様子を観察していると、頻繁に自分で教科書に戻ったり、ノート(ハンドアウト)にメモを加えたりしていました。
生徒が持っているノートは、4つの共通する質問が書かれていました。また、それに対する生徒の考えを書くメモは、後にそれをもとに話ができるように工夫されていました。マッピングによって、キーワードの並べ方、情報の持ち入り方など、共通する部分はあっても、一人一人違ったノートになっていました。
なぜ、個々の生徒が主体的に学び続けられるのか、生徒の意思を確認してみたくなり、授業後に一人の女の子に「どうして1分間も話し続けることができるのですか?」と尋ねてみました。
すると、「私たち生徒の言葉で単元の大枠が語られ、段階を踏んでリテリングをしてきているので1分間話すことは習慣になっています。また、どこがあたっても答えられるように常に準備をしています」と答えてくれました。その生徒は、2回目のリテリングでは、相手の話していることを聴きながら、相槌を打つなど、良い反応を繰り返していました。そして、3回目に話し手になったときには、自分が用意したことを話すのではなく、他者からの学びを得て、頭の中で整理したことを話していました。つまり、回数が増えるごとに、内容がバージョンアップしていったのです。
三仙先生にお話を伺うと、単元の最後には既習した内容をベースに自分の意見を書く課題設定がされていて、生徒たちはこれまで授業を通して考えてきたことを活用する機会があることがわかりました。それまで書き溜めてきた思考の痕跡が、オリジナルノートになっていたのです。
三仙先生の教材研究の質は本当に深く、感嘆の声が漏れました。生徒が身近に感じられる生の情報(レアリア)を入手し、生徒の考えを予測し、発問を入念に準備するなど、どこでどんな伏線をはり、どう回収するかを緻密に準備されていることがわかりました。帰りの道中、福井から大阪までの間、ずっと続いた宮崎先生や中野先生とのディスカッションは、興奮覚めやらぬまま、心躍る時間となりました。そして、授業の本質と向き合い、授業を改善したいという気持ちがぐんと強まりました。最後になりますが、今回、三仙先生の授業見学を通して、多くのことを学ばせていただき、本当にありがとうございました。

2つのレポートを読まれて、何に気づかれたでしょうか。下線部について、日常的にどんな指導をすればいいのかを知りたいと思われた方が多いのではないでしょうか。そこで、次回は、三仙先生ご自身の授業観(教材観、生徒観を含む)をご紹介し、私(中嶋)が三仙先生の授業から学んだことを、どうこれからの授業(特に「思考・判断・表現」の力を高める指導)に活かしていけばよいか、そのポイントについて述べていきます。      

第3回 「思考」を言語化する授業の醍醐味(未来に活きる教育)

第1回と第2回の内容を読まれて、教科書を先に進める授業、教科書の内容や新しい言語材料の理解・定着を目標とする授業では、生徒が発信したい、知りたい、関わりたいという気持ちにはなりにくく、目指すべき「思考・判断・表現」の力はなかなか身につかないということがわかられたのではないかと推察します。

では、それを実現させている三仙先生は、一体、普段からどのようなことを考えて授業づくりに取り組んでおられるのでしょうか。(下線は筆者)

🔵 協議では「生徒の知的好奇心の高さ」を指摘いただき、やはり自分(三仙)は、生徒たちに恵まれているなぁと痛感します。単に「楽しい」授業ではなく、既存の概念を揺さぶられたりする「知的に楽しい」授業ができるよう日々意識しているつもりなので、それが少しでも伝わったのであれば、望外の喜びです。                       4月から一定のルール(マナーに近い)を伝えていますが、3年生へむかう分岐点にさしかかるタイミングで、
① 人の意見を聞くこと
② 自分に取り入れること
③ 授業を通じて様々な「きっかけ」が得られること
などが、少しずつ伝わったり、実感することができたりしているのではないかと思っています。                                                  🔵いろんな生徒がいますが、授業を通して互いを認め合っていること、自分の考えを伝え合うことが自分の気づきにつながることなどが、学習の土台として構築されつつあるのかな、と感じています。私は、意見・考えのやりとりこそが、授業づくりのエッセンスだと位置づけていますが、年度当初、新たに受け持った生徒には不慣れなことに対する抵抗感が生まれます。やがて慣れてくれますが、単なるT→Sの単調なやりとりではなく、学習者を知的に楽しませたいがゆえに、いろいろと生徒の発言をリフレーズする中で、意図的に新しい表現を取り入れたり、ネットなどで事前に調べておいた、生徒が知らなかった知見を紹介したりすることをモットーにして教材研究をしています。
🔵「知識・技能」は、ある程度課題や家庭学習でもできると思いますが、題材について深く思考し、表現する部分、いわゆる「思考・判断・表現」は、授業でしか培えない要素だと考えています。生徒の「深い思考」を誘うような問いを、生徒の目線に立っていかに準備できるか、授業のダイナミズムに合わせて適宜対応できるか、それをこれからも追求していきたいと思っています。あとは、その対応を言語化できると良いと思っています。感覚的な理解では教師としての本質的な成長とは言えないと思います。朝、出勤したら、授業公開をしたクラスの生徒がひとり職員室で待っていて、「この前のディスカッションで、自分ダメダメでとても悔しかったので、次、また当ててください」と言いました。つくづく、生徒に助けられる毎日だと感謝しています。

三仙氏のコメントを読まれて何に気づかれたでしょうか。

第2回の参観者のレポート同様、3人(授業者と参観者)とも、「どう教えるか」ではなく、「生徒の成長」(変容)に大きな関心を持っているということです。生徒の力を伸ばす教師は、「教師の教え方」ではなく、「学習者の学び方」に焦点を当てているからです。

三仙氏の授業から見えてくる「生徒が夢中になる授業づくり」の謎解きのポイントは、まさにそこに現れています。

🟠 学習者は、自分の考えを書くことで「思考」し、話すことで「整理」している

三仙氏の授業の母体となっているのは「教育ディベート」です。ディベートでは、論題が Yes と Noの両方で拮抗するようなものであることが大切です。教育ディベートは、勝ち負けがゴールではありません。どの生徒も「複眼的な見方」や「論理的な伝え方」を身につけられるように、最後の振り返りを大事にします。相手のどこに説得力があったのか、それは何故かを丁寧に意味付けていきます。三仙氏の授業では、ベースにそれができていると考えられます。相手に勝つこと、論駁することに喜びを感じる生徒は存在せず、互いに意見のやり取りをして高みを目指すことが「当たり前」(クラスのマナー)になっており、生徒がそれを心から「楽しい」と感じているからこそ集中できているのだと思います。                                                        

今回の学習指導要領では、4技能5領域となり、「話す」が「(即興の)やり取り」と「発表」に分けられました。「即興のやり取り」とは、英語でto exchange at the same time という意味です。つまり、話者が自分の考えを述べ、相手にWhat do you think? How about you? Do you agree? というメッセージを送り、そのレスが即座に返されるということです。このプロセスを教科書の「内容理解」を目的として行ったところで、生徒の必要感は生まれてきません。本文の概要が理解できる、英文の構造を説明できる、リテリング(本文の暗記ではなく、自分の意見も交え、写真などを使ってプレゼンテーションをする)ができる、などは、あくまでも教科書の本文(英語)理解が目標となっているからです。これでは生徒は自分が知りたいことではないので、どうしても受け身になります。

学習に関心が生まれるのは、内容が自分に関係のあることであったり、課題が自分ごとになったりしたときです。そのためには、授業を「事実発問」レベルで終わらせずに、生徒一人ひとりが自分の考えや意見を持てるように働きかけ、さらにそれらを深掘りするような推論発問と評価発問を用意しておくことが不可欠です日頃からcontroversialなトピックで自分の考えを持つという訓練を課していくことが、必要感のあるコミュニケーションの土壌となります。即興のやり取りにばかりシフトしすぎると、内容が稚拙な(ダウングレードされた英文)ものとなります。指導する学年の評価規準、CAN-DOリストの内容を保持するためには、まとまった内容を書くという指導を授業の中で行なっておくことが必要です。三仙氏は、マッピングを有効に使い、授業中、「自分が思ったこと」をすぐにノートに書いて整理をするという時間を確保していおられます。彼が目指しているCAN-DOリストは、一人ひとりの生徒にとって「つながり」を演出する「感動(CANDO)リスト」になっているのです。

三仙氏の授業は、教師の質問に対して正しい答をいかに引き出すかという進め方ではなく、「学習者を楽しませたい」という遊び心(edu-tainment = education+entertainment)があり、間が生まれたとき、生徒が答えに詰まったときに、彼が介入するタイミングとギャップを作ったり、内容を深めたりする発問は実に見事であり、発表者だけでなくクラス全員を巻き込んでいきます。                                        

それは、教室全体の「音(つぶやき)」に耳を傾けながら、要所、要所でそれを引き出し、さらには取り出して、紡いでいるからです。国語辞典(大辞林)では、「紡ぐ」を、「綿や獣毛から繊維を取り出し、よりをかけて糸にする」と説明しています。つまり、三仙氏の授業作りは、授業に必要な要素を「生徒と共に」(生徒のよさを絡ませながら)探し、クラス全体でそれを楽しみながら、しかもいい意味で切磋琢磨できるように演出するという感覚で行われています。本来の授業とは、このように、予定調和の授業のために事前にプリントやスライドを準備することではなく、生徒と「即興」で授業を紡いでいくことです。そうして、初めて「教師としてのセンス」が磨かれていきます

🟠 学習者が、授業の「主体的」な(ど真ん中の)存在となっている

三仙氏の授業では、どの生徒も「主体的」な存在となっています。ここで、言葉の定義について確認をしておきたいと思います。学習指導要領の「主体的、対話的で深い学び」の、「主体」「対話」「深い」の3つの文言は、いずれも抽象的な言葉であり、それぞれの定義を曖昧なままにしておくと、取り組みがバラバラになってしまうからです。

主体」は、大辞林で「自覚や意志をもち、動作・作用を他に及ぼす存在としての人間」「集団・組織・構成などの中心となるもの」と説明されています。授業では、「自覚や意志を引き出す問題発見、問題解決となる課題や発問」が不可欠であり、「教えられる生徒」ではなく、「学ぼうとする生徒」を育てなければならないということです。同じく、大辞林では、「対話」は「双方向かい合って話をすること、またその話。比喩的にも用いる」とされています。「向き合う」とは、正面を向いて対する(意見や情報を交換して内容を深める。問題を解決する)ということです。また、「深い」とは、底までの距離、奥までの距離が長いことであり、それは学習において「考えを十分に巡らしている、物事をよく見極めている」ということになります。 

3つの言葉に共通するのは、「自分のオリジナルの考えを持つこと。討論を通して、問題を解決すること」です。これは、「何のために学んでいるのか」が明確になっているからこそできることです。

多くの授業では、「答え」が出れば指導者は「それで終わり」と考え、流れがそこでプツンと切れているように思います。「はい、次」という教師の指示で、バラ売りのように進められる授業では、「何のために学ぶか」という目的を意識することなく、定期テストのために準備をしていくという目先の目標となってしまいます。三仙氏のように、生徒をレスペクトし、彼らの考えに共感し続ける姿こそが、「育てたい姿、育ってほしい姿」を可能にすることができるのではないかと考えます。

🟠 指導者が、学習指導要領を「正しく」読み解いている     

三仙氏は、自らの解説の中で、「『知識・技能』は、課題や家庭学習でもできるが、『思考・判断・表現』は、授業でしか培えない要素だ」と述べています。この認識は非常に重要です。授業でしかできないということは、「仲間がいなければ成り立たない」という意味です。「思考」とは、単に問題を解くというレベルではなく、問題発見や問題解決をする中で、自分がどうすればいいかを考えることです。そして、自ら判断したり、伝えたりするには「相手」(利他の対象)が必要になるということです。鍵となるのは「自己決定」の場面があるかどうかです。

学校には、2つの特性があります。一つは計画性で、もう一つは集団性です。教師の計画性(行事計画、年間指導計画等)は、概ねどの学校でもできているようですが、「集団性」の方はどうでしょうか。知らず知らずのうちに、学年セクト、学級セクトになっていないでしょうか。学校や学年の運営が、民主的に討論をするようなものではなく、上位下達(あるいは命令遵守)になっていると、クラスの生徒も同じようになってしまいます。生徒は指示待ちになり、互いにレスペクトし合うどころか、自分のことだけを考えるようになります。

学年やクラスで、正しいディベートやディスカッションの指導で「論理的に討論しあう」という土壌を作っていくことで、相手の考え(意見)を尊重し、それをさらに深掘りできるようになります。三仙氏のように、教師が、学習指導要領を正しく読み解くこと、そして生徒が「主体」となれるような授業づくりを目指すことが望まれます。学習者同士が関わり、自分の考えをやり取りすることを心から楽しめるような授業を展開することにより、英語という言葉やコミュニケーションに関心を持ち、授業の終わりを告げるチャイムで「え?もう?」と声を上げる生徒たちが育ちます。そんなシーンを想像するとワクワクしてきませんか。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント