教えたはずなのに、使えない
◆ 授業は、ちゃんと進んでいる
「とにかく、教科書を終わらせないと」。
そう思うのも無理はありません。授業時数には限りがあり、行事で授業がつぶれることもあります。教える文法も、扱う本文も残っています。
比較級を教え、練習問題を解かせ、ペアで例文を言わせる。できたことを確かめたら、次へ進む。教師がゆっくり立ち止まっている余裕はありません。
授業は、ちゃんと進んでいます。では、子どもはどうでしょう。比較級を教えたあと、練習問題は正しく解けています。ペアでも例文が言えます。ところが、「海外から来る人に、地域の二つの場所を比べて、どちらをすすめるか伝えよう」とすると、途端に言葉が止まります。
文型がまだ定着していないのでしょうか。そうとは限りません。例文なら、比べるものも、使う表現も決まっています。ところが、実際に誰かに伝えようとすれば、相手が何に関心を持っているのかを考え、何と何を比べるのかを選び、その違いのどこを取り上げるのかを決めなければなりません。練習では必要のなかった判断が、そこで初めて求められます。
私たちは、「教えた。練習した。だから、できるはず」と考えがちです。
しかし、「できるはず」と「実際に使える」の間には、まだ確かめなければならないことがあります。
◆ 同じ「できない」ではない
本文を読んだあと、「あなたは筆者の考えに賛成ですか」と尋ねる授業があります。
生徒は「賛成です」「反対です」と答え、理由も話します。
ところが聞いていくと、自分の経験については話せても、本文のどこを読んでそう考えたのかを示せないことがあります。
この子には、もう一度本文を読ませればよいのでしょうか。
本文そのものが読めていないのなら、読み直す必要があります。しかし、内容は分かっているのに、それを根拠にして自分の考えを組み立てられないのであれば、必要な学習は違います。
話す場合にも、同じことが起こります。
使いたい単語そのものを知らなくて止まることもあれば、知っている表現はいくつもあるのに、目的に合わせて選べずに止まることもあります。相手に伝わっていないと気づきながら、別の言い方を試せない子もいます。
外から見れば、どの子も同じように「言えなかった」ように見えますが、止まっている場所は違います。
そこを見ないまま「練習不足」と判断すれば、また同じ練習を増やすことになります。
必要なのは、「できなかった」という結果だけを見ることではありません。この子は、どこで止まったのか。そこが具体的に見えて初めて、もう一度練習した方がよいのか、選ぶ経験が必要なのか、それとも別の言い方を試す機会をつくるのかが決まります。
◆ 「終わった」が「育った」に変わるとき
教科書を予定通り進めることは必要です。
限られた授業時数の中で、扱うべき内容を終える責任もあります。ただ、気をつけたいのは、「終わった」という事実が、いつの間にか「できるようになった」という意味に置き換わることです。
昨日は比較級、今日は最上級、来週は次のUnitへ進む。
教科書には順番がありますから、教師もその流れに沿って授業を組み立てます。その仕事を毎日続けていると、「今日はどこまで進んだか」ははっきり残ります。教科書を開けば、次に教える内容も分かります。
一方で、あの子がなぜ言葉に詰まったのか、本文は読めているのになぜ根拠を示せなかったのか、昨日まで言えなかった子が今日はなぜ言えたのかは、教科書のどこにも記されていません。
ページをめくれば次に教えることは出てきますが、目の前の子どもに次に何が必要なのかまでは書いていないのです。
教科書を終えることに意識が向きすぎると、失うのは時間ではありません。こうした小さな違いに立ち止まる機会です。そして、その違いこそが、次の授業を決める手がかりになります。
◆ 次のページを開く前に
「教科書を終わらせるので精一杯」という言葉を、簡単に否定することはできません。
授業時数は増えませんし、教師の仕事も減ってはいません。ただ、「もっと時間をかけて、一人一人を丁寧に見ましょう」と言いたいのではありません。
むしろ、次へ進む前に何を見るのかが大切なのだと思います。
教えたことを覚えているかだけではなく、その子はそれを使って何ができるようになったのか。できないとすれば、どこで止まっているのか。
そこが分かれば、必要のない練習を繰り返さずに済むかもしれません。ワークシートを増やすこともなく、反対に、教科書の進度とは別に、一度戻る必要があることに気づけます。
教科書を進めることと、子どもが育つことは対立するものではありません。ただ、同じものでもありません。「今日はここまで終わった」と教科書を閉じるとき、教師の見方まで一緒に閉じてしまわないことです。
