なぜ見えるものが違うのか
◆ これだけそろっていれば
デジタル教科書を開けば、本文の音声を聞くことができます。映像を見ることもできます。語句や文法を確認し、さまざまな練習に取り組むこともできます。
教師が音声を準備し、教材を自作し、黒板に英文を書いていた頃と比べれば、授業を支える環境は大きく変わりました。
では、同じ教材を使えば、どの教室でも同じ学びが起きるのでしょうか。
ある授業で、二人の生徒が英語でやり取りをしています。
一人は準備した文を正確に、途切れず話しています。もう一人は何度か言い直していますが、相手の答えを聞いて、用意していなかった質問を返しました。
最初の生徒には、学んだ表現を正確に使う力が見えます。もう一人には、足りない言葉を補いながら、相手に応じようとする姿があります。どちらが「よくできているか」と単純に決めることはできません。何を育てようとしていた授業なのかによって、見るべき姿が違うからです。
ここから先は、画面をタップしても答えは出てきません。
「教科書で精一杯」と感じるのは、教科書に載っていることを、教師が一つずつ説明し、理解させ、練習させなければならないと考えているからかもしれません。ページを開くたびに「今日はここまで教えなければ」と考えれば、教師が背負うものがみるみる増えていきます。
ところが、子どもが英語を使う力を身につけてくると、授業の景色が変わります。
まず使ってみる。伝わらなければ言い直す。相手の英語を聞いて、自分との違いに気づく。「こっちの言い方の方が伝わる」と分かれば、次はそれを試してみる。教師がすべてを説明してから使わせるのではなく、使いながら、子ども自身が気づき、選び直し、もう一度使うのです。
そうした経験を重ねるうちに、学んだことは「教えてもらったもの」から、自分で使えるものへと変わっていきます。
教科書を終わらせることに追われているときほど、問い直したいことがあります。
それは、
このページで、何を教えるか。
ではなく、このページを使って、子どもにどんな力をつけるか。
です。
では、その力が本当についたかどうかを、教師は何を見て判断するのでしょうか。
◆ 増えたから、深まったのか
今度は、一人の生徒が書いた二つの文章を並べてみます。
友だちと話す前の文章と、話したあとの文章です。見比べると、後の文章には例が一つ増えています。「交流によって考えが深まった」と捉えたくなる変化です。
ところが、交流中のやり取りをたどると、友だちから「それは誰にとってよいの?」と尋ねられていました。書き直した文章には、その問いへの答えがありません。情報は増えています。しかし、問い直された考えそのものは変わっていないのかもしれません。
ここで、次の授業が変わります。
交流が終わったら、そのまま清書させるのか。それとも、質問された箇所に戻り、もう一度自分の考えを確かめる時間をつくるのか。同じ活動をしても、そのあと何をするかは、子どもの変化を教師がどう捉えたかによって違ってきます。
書く量が増えたことと、考えが変わったことは同じではありません。BeforeとAfterを並べるだけではなく、その間で、友だちの言葉を受けて何に迷い、何を残し、何を選び直したのかを見る。そこで初めて、「交流をした」という活動の記録が、「この子は何を学んだのか」という記録に変わります。
◆ 教材の「次」と、子どもの「次」
デジタル教科書の大きな利点の一つは、必要な教材が整理され、次に何をするのかが分かりやすく示されていることです。音声を聞き、本文を読み、練習に取り組む。教師が一から準備しなくても、学習を支えるものがすぐに使えます。
ただ、その進めやすさには、注意も必要です。画面を切り替えれば、次の活動に移れます。子どもが何に困り、何を考えているのかを確かめなくても、授業は進んでしまうからです。
音声を流した。本文を読ませた。練習も終えた。それだけで、「今日の学習はできた」と受け止めていないでしょうか。
教材には、次のページがあります。しかし、子どもの学びには、いつも同じ「次」があるわけではありません。
もう一度試した方がよい子もいれば、友だちの表現を手がかりにすれば先へ進める子もいます。「本当にこれで伝わるのか」と立ち止まり、自分の表現を選び直した方がよい子もいます。
そのとき、教師は次の画面へ進むのか。それとも、子どもの様子を見て、予定していた流れを変えるのか。
教材に沿って授業を進めることと、その教材を使って子どもが何を学んだのかを確かめることは、別の仕事です。教材がどれほど充実しても、子どもの言葉を聞き、つまずきを捉え、次の一手を判断する仕事は、教師に残ります。
◆ 便利になったあと、教師は何を見るのか
目の前で言葉に詰まった子が、二度目には何を変えたのか。友だちから質問された子が、そのあと自分の考えに戻ったのか。できなかったことができるようになったとき、その間に何があったのか。そうした変化を捉えることができれば、次に何を経験させるかも変わります。
デジタル教科書には、音声も映像も活動もあります。しかし、「この子は、ここが昨日と違う」と知らせてくれる機能はありません。それを見つけるのは教師です。
教材がそろったら、教師の仕事がなくなるのではありません。そろったからこそ、教師にしかできない仕事が、むしろはっきりしてきます。
ただ、ここで一つ難しい問題があります。
同じ子どもの姿を見ても、教師が何を「変化」と捉えるかは同じとは限りません。
話せる量が増えたことに目が向く人もいれば、相手の言葉を受けて表現を変えたことに気づく人もいるでしょう。自分では十分に見ているつもりでも、実は見えていないものがあるのかもしれません。
教材が進化したあとに残る教師の仕事が「見ること」だとすれば、その見る目は、毎日授業をしているだけで育っていくのでしょうか。
