🍀教師は、教室の中だけで育つのか(研修とは何かー3/3)

持ち帰った問いは、どこへ行くのか

◆ 毎日見ているのに、見えていなかった

教師は毎日、子どもを見ています。

思ったようにいかなかった授業もあれば、予想もしなかった発言に驚かされる日もあります。教室ほど、教師に多くのことを教えてくれる場所はありません。だから、忙しい中、わざわざ学校を離れて他校の授業を見たり、研修に出かけたりしなくても、教師は自分の教室で十分に学べる。そう考えるのも無理はありません。

ある学校の公開授業で、一人の生徒が英語で話していました。

途中で言葉に詰まります。教師は助けません。しばらくすると、その生徒は机の上の教科書を開き、少し前に学習したページまで戻りました。そこにある表現を確かめると、顔を上げ、もう一度相手に話し始めました。

授業を見ていた教師が、「分からなくなったとき、自分で戻るように教えているのですか」と尋ねます。授業者から返ってきたのは、「最初からできたわけではありません。困ったとき、すぐ教師に聞くのではなく、自分で使えそうなものを探す経験を何度もさせてきました」という答えでした。

その言葉を聞いたとき、見学していた教師の頭に、自分の教室が浮かびます。

生徒が止まると、すぐヒントを出していた。言えない表現があれば教えていた。それが支援だと思っていた。しかし、その助けによって、自分で探したり、戻ったり、もう一度試したりする機会まで奪ってはいなかっただろうか。

他校の授業を見ていたはずなのに、見えてきたのは自分の授業でした。

◆ 違うのは、子どもではなかった

自分の教室にいると、授業を見る目にも少しずつ習慣ができます。

発言した子を見る。正解した子を見る。活動が予定通り進んでいるかを確かめる。どれも必要なことですが、それを毎日繰り返していると、自分が「何を見ていないのか」には気づきにくくなります。

同じ授業を何人かの教師で見ると、そのことが表に出ます。

「この子、ずいぶん話せるようになりましたね」と言った人の隣で、別の教師が「あの場面で、相手の表情を見て言い方を変えましたね」とつぶやく。二人とも同じ子どもを、同じ場所から見ていました。それでも、目に入っていたものは違います。

そこで初めて、「そこは見ていなかった」と気づきます。子どもの姿が変わったのではありません。他者の見方に触れたことで、自分の見方の輪郭が見えてきたのです。

外へ出る価値は、優れた授業をそのまま持ち帰ることだけにあるのではありません。「あの先生には、なぜそこが見えたのだろう」と、自分の当たり前が揺れることにあります。新しい答えをもらったのではなく、自分が見えていない場所があると知ったのです。

◆ 答えではなく、問いを持ち帰る

研修から戻った先生が、職員室で「このような実践が紹介されました」「こんな活動をされていました」と報告し、資料を配る。情報を共有することには意味があります。ただ、それだけなら、配付された資料を読めば済みます。

せっかく学校を離れ、いつもとは違う授業を見たのであれば、持ち帰りたいものは「何を教わったか」だけではないはずです。

翌日の自分の授業で、以前なら通り過ぎていた姿に目が止まる。そこまでつながったとき、外で見たものが自分の仕事に戻ってきます。

昨日までなら、言葉に詰まった瞬間に助けていた子がいます。

しかし、その日は少し待ってみる。すると、その子は隣の友だちが使った表現を思い出しながら、自分で言い直していました。

そのとき、「あれ?」と立ち止まります。

研修で答えをもらったわけではありません。自分の教室で見る場所が、一つ増えたのです。

そのことを職員室で話してみると、同僚から「では、言い直せなかった子はどうしていたのですか」と返ってくるかもしれません。そこでまた、明日見るものが増えます。

研修で持ち帰った問いが、今度は学校の中で別の教師に手渡され、少し形を変えて自分に返ってきます。

◆ 同じ言葉を使っていたはずなのに

外へ出なくても、学校の中で教師の見方を揺らすことはできます。

例えば、校内研究の方針に「生徒の自己調整を促す」と書かれていたとします。何度も見ている言葉ですから、そのまま読めば、誰も異論を唱えないかもしれません。

ところが、研究主任が「授業中のどんな姿が見えたら、『自己調整している』と判断しますか」と尋ねると、答えが分かれます。

自分で課題を選んだときと考える人もいれば、うまくいかなかった方法を変えたとき、必要な練習に自分から戻ったときと考える人もいます。さらに、「教師に『もう一度やってみたら』と言われてやり直した場合はどうですか」と尋ねると、少し考え込む人が出てきます。

同じ「自己調整」という言葉を使っていても、その向こうに見ていた子どもの姿は同じではなかったのです。

会議でそろえたいのは言葉そのものではありません。その言葉を使って、自分たちは子どもの何を見ようとしているのか。そこを話し合って初めて、研究の言葉が教室の子どもとつながります。

長い協議時間が必要なわけではありません。

一人の子どもの振り返りでも、授業中の短い映像でも構いません。それを机の真ん中に置き、「この子に、何が起きたと思いますか」と尋ねてみる。一人では気づかなかったことを隣の教師が見つけ、自分には見えたものを別の教師は見ていなかった。その違いが表に出たとき、「そこは見ていませんでした」という言葉が生まれます。

教師同士で話す意味は、同じ答えにそろえることではなく、こうして自分の見方を確かめ直せることにあるのだと思います。

◆ 学ぶ側に立ってみる

もう一つ、教室を離れることで見えてくるものがあります。

資料を最初から最後まで読み上げられる研修を、教師はどう感じるでしょう。結論まで説明されたあとで「何か意見はありませんか」と尋ねられても、自分で考える余地はほとんど残っていません。

ところが教室へ戻ると、似たことをしている場合があります。

子どもがまだ考えている途中なのに説明し、自分の考えを持つ前に交流させる。違う考えに出会ったのに、そのあと自分の考えへ戻る時間を取らず、次へ進む。

教師自身が学ぶ側で感じた違和感が、ここで授業を見る鏡になります。

外へ出て学ぶというのは、特別な指導法を仕入れることだけではありません。教師がいったん学ぶ側に立ち、自分がどんなときに考え始め、何によって考えを揺さぶられたのかを経験する。その経験を持って教室へ戻ると、それまで当たり前にしていた説明や指示が、少し違って見えることがあります。

◆ 教師は、どこで育つのか

教師は、教室で育ちます。目の前の子どもほど、自分の授業を問い返してくれる存在はいません。ただ、毎日同じ場所から見ていると、見えなくなるものがあります。

だから、ときには外へ出る。別の学校の子どもを見たり、研修会やセミナーなどで他の教師の授業に触れたり、自分とは違う見取りを聞いたりする。そして、自分の教室へ戻ってくる。

すると、昨日まで見慣れていた教室で、以前とは違うものが目に入ってきます。

研修に何回参加したかが大切なのではありません。新しい活動をいくつ覚えたかでもありません。

以前なら通り過ぎていた子どもの姿に、「なぜだろう」と立ち止まれるようになったか。その問いを誰かに話したとき、また違う見方が返ってきたか。

視点の転換です。

教師が育つのは、教室と外を行き来する、そんな往還の中です。

「教科書を終わらせるので精一杯だから、外へ出られない」。その切実さは消えません。しかし、教科書を最後まで進めることと、目の前の子どもを最後まで見ることは同じではありません。

外へ出るのは、自分の教室から離れるためではない。もう一度、自分の教室に戻ってくるためなのです。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント