学びを「点」で終わらせないために
◆ なぜ、「六月の後半の会議」で見つかるのか
教務主任や教頭をしていた頃、毎日のように大量の資料を扱っていました。
最初の頃は、「校内研修」「行事」「教育委員会」「保護者」など、内容ごとにディレクトリをつくり、その中をさらに細かく分類していました。きちんと整理しておけば、あとで簡単に取り出せると思っていたからです。
ところが、分類を細かくすればするほど、逆に見つからなくなりました。「あの資料は、研修に入れたのか。それとも教育委員会だったか」。自分で分類したのに、自分がつくった分類に迷うのです。
そこで、思い切って細かな分類をやめ、月ごとにざっくり保存するようにしました。すると、不思議なくらい探しやすくなりました。
「あれは六月の職員会議の頃だった」
「あの通知が来たのは、二学期が始まった頃だった」
資料名を思い出せなくても、その資料を扱った頃の出来事は思い出せます。その前後に何があったのかをたどっていくと、目的の資料に行き着くことができました。
この経験が、ずっと気になっていました。私たちは、情報だけを切り離して覚えているのではなく、「いつ、何のために、それを必要としたのか」という出来事と一緒に記憶しているのではないか、ということです。
だとすれば、授業も同じではないでしょうか。
◆ 「現在完了を習った」は、どこにつながっているのか
子どもは学校で、毎日たくさんのことを学びます。英語なら、過去形を学ぶ。比較表現を学ぶ。不定詞を学ぶ。現在完了を学ぶ。教科書には順番があり、教師はそれに沿って授業を進めていきます。
しかし、ページが順番に進むことと、子どもの中で学びがつながることは同じではありません。
友だちに質問されたのに、言いたいことがうまく言えなかった。もう少し詳しく話したくなり、そこで新しい表現に出会った。次に似た場面が来たとき、今度はそれを使うことができた。
「できなかった→必要になった→知った→使ってみた→前よりできた」。
ここには、教科書のページとは違う時間が流れています。
「現在完了を習った」という事実だけなら、それは一つの知識です。しかし、「あのとき、これを言いたかったから必要になった」という経験と結びつけば、その知識には自分の時間が刻まれます。
教科書にあるのは、教材を学ぶ順番です。それがそのまま、子どもの学びの時系列になるわけではありません。
◆ 授業は進んでいる。でも、続いているだろうか
教科書を開く。本文を読む。教師の説明を聞く。ワークシートに書く。答えを確認する。そして授業が終わり、次の時間には新しいページを開き、新しいプリントが配られます。
授業は確実に進んでいます。
でも、学びは続いているでしょうか。
翌週、「前の時間、何をやった?」と尋ねたとき、「プリント」「教科書の続き」「○ページ」という答えが返ってくることがあります。子どもが忘れてしまったから、と片づけることもできますが、教師が一時間ごとに学びを完結させてしまっていた、と考えることもできます。
昨日の学習がなくても、今日の授業が成立する。今日の授業がなくても、明日の活動には困らない。だとしたら、第1時、第2時、第3時と並んでいても、それらは「線」ではありません。
点が、時間割の上で隣り合っているだけです。
◆ きれいに埋まった一枚を疑ってみる
ワークシートには、教師の親切が表れます。どこを見ればよいか、何を考えればよいか、どこに書けばよいか。子どもが迷わないように、教師があらかじめ道筋をつくります。
もちろん、それが必要な場面はあります。ただ、整っているからこそ見えにくくなることもあります。
何を見るかを教師が決め、考える順番も教師が決め、何を残すかまで教師が決める。答えそのものを教えていなくても、考える道筋まで一口ずつ差し出しているとすれば、それは形を変えた spoon-feeding になっているかもしれません。
問題は、ワークシートを使うことではありません。書き終えた瞬間、その紙と学びとの関係まで終わってしまうことです。
前の時間に書いたものを、次の時間にもう一度開く。最初につくったMandala-Flexに、あとから得た情報を書き足す。階層式マッピングの線をつなぎ直す。友達とのやり取りを経て、「ここは違う」と自分の考えを書き換える。
そうすると、紙はだんだん汚れていきます。しかし、その汚れには意味があります。消した跡や書き足した言葉、引き直した線の中に、その子がどこで立ち止まり、何に気づき、どう考え直したのかが残るからです。
一枚の紙に「時間」が残るのです。
教師が毎時間新しい紙を渡すのではなく、子どもが昨日の自分を今日の授業に持ち込む。そこに、学びをつなぐ道具としてのワークシートの役割があるように思います。
◆ 同じことを繰り返すだけでは、昨日とはつながらない
帯活動も、毎時間そこにあるだけでは、学びをつないだことにはなりません。
昨日答えられなかった質問に、今日もう一度出会う。以前は一文で終わった発話に、今度は理由を加えてみる。前に使った表現を、別の相手とのやり取りで使ってみる。そうした経験が重なることで、「あのときは言えなかった。でも、今日は言えた」と、今の自分を前の自分と比べられるようになります。
大切なのは、同じ活動が続いていることではありません。前の自分が、次の時間にも残っていることです。
◆ 次の時間は、どこから生まれるのか
教師は単元計画を持っています。当然、次に何を扱うかも考えています。しかし、教師の計画だけで次の時間が始まるのだとすれば、子どもにとっては毎回、新しいものが外から運ばれてくることになります。
今日、うまく言えなかった。だから、言い方を知りたくなる。友だちの話を聞いて、自分には情報が足りないと気づいた。だから、もう少し調べたくなる。一度伝えてみたら、思いがけない質問をされた。だから、自分の考えを組み直したくなる。
この「だから」が、時間と時間をつなぎます。
教師が「次はこれをやります」と課題を持ってくる前に、今日起きたことの中に、明日学ぶ理由が生まれている。授業を時系列で設計するとは、第1時、第2時、第3時と順番に並べることではなく、前の時間に起きたことが、次の時間を必要としているかを見ることなのだと思います。
◆ 単元計画の「間」に、何があるか
単元計画には、第1時、第2時、第3時 … と数字が並びます。しかし、私が見たいのは、その数字ではありません。その「間」に、のりしろがあるかどうかです。
紙と紙をつなぐとき、端と端をぴったり合わせただけでは、二枚はつながりません。少し重なる部分が必要です。
授業も同じではないでしょうか。
第2時でうまく言えなかったことが、第3時にも残っている。第1時で生まれた疑問が、第4時になってもう一度顔を出す。以前書いたものを見返したとき、「今なら、ここを変えたい」と思う。
前の時間の何かが、次の時間にはみ出している。
私は、この部分を授業の「のりしろ」と考えています。書籍の「帯学習」でも、この「のりしろ設計」について書きましたが、帯学習だけに必要な考え方ではありません。一時間と一時間をつなぐときにも、単元全体を設計するときにも、この「間」が重要になります。
そこで、単元計画を見るとき、もっと単純な問いを置いてみます。
昨日の授業がなくても、今日の授業は成立してしまわないか。
もし、昨日がなくても何も困らないのであれば、二つの授業は隣り合っているだけなのかもしれません。逆に、今日うまく言えなかったことが明日の課題になり、友達とのやり取りで生まれた疑問が次の時間まで残り、一度やってみたことが「今度はこうしたい」に変わるのであれば、そこにはのりしろがあります。
私は、資料を月ごとに保存するようになって、資料そのものを探しているつもりで、実は「その頃の出来事」をたどっていることに気づきました。
授業も同じなのかもしれません。
「あのとき言えなかったから、次にこれを覚えた」「あのとき友達に聞かれて、自分の考えが足りないことに気づいた」「あそこで一度やってみたから、次はここを変えようと思った」。そんなふうに学びを取り出せるなら、過去形も現在完了も、教科書の中だけに置かれた知識ではなく、その子が歩いてきた時間の中に置かれた知識になります。
しかも、次の時間に持ち越されるのは、知識だけではありません。前の時間に「私はこう思う」と考えた自分も残ります。だから、友達の話を聞いたあとで以前の紙を開くと、「あのときはこう思っていたけれど」と、書き足したり、線を引き直したりすることが起こります。
昨日と今日の「間」にのりしろがあるから、昨日の自分と今日の自分を比べることができる。
そこには、学びが続くということの、もう一つの意味がありそうです。
