神戸市立太山寺(たいさんじ)中学校の公開授業で、参観者が受けた衝撃
◆ 教室の後ろで、廊下で、教師たちが驚いていた
「ワークシートも持たずに英語を話す活動をしている姿が衝撃でした」
10月7日、神戸市立太山寺中学校の公開授業を参観した教師の感想です。別の教師は、「教師の指示が少ない。発問も少ない。それなのに生徒が動いている!」とその驚きを記していました。

教室では、生徒たちが英語でやり取りをしています。用意された英文を順番に読み上げているのではありません。相手の答えを聞き、そこから次の質問を考え、言葉に詰まれば知っている表現を使って何とか伝えようとしています。教師が次々に指示を出さなくても、やり取りが続いているのです。
参観者の印象に残った場面がありました。発表者が質問に答えられず困っていると、質問した生徒が、その子の言いたいことを英語に言い換えて助けたのです。教師が間に入って答えを教えたわけではありません。質問した生徒が相手の様子を見て、自分の言葉を変えたのです。
この場面に、参加者たちは目を留めました。覚えた英文を正しく言えることと、相手が困っているときに言い方を変えられることは、同じではありません。相手が何を言おうとしているのかを考え、その場で自分にできることを判断しているからです。
英語を話す力だけでなく、相手とやり取りを続けようとする姿勢が育っている。そのことが、教室の後ろで参観していた教師たちにも伝わったのでしょう。
◆ 一つの教室だけではなかった
「全ての学年のすべての授業で、生徒の雰囲気が一緒なことに驚きました」
この感想には、今回の公開授業の特徴がよく表れています。
研究授業では、授業者が時間をかけて教材を準備し、発問を練り、活動の手順を考えます。当日は、生徒も普段以上に頑張ろうとするでしょう。その一時間だけを見て、日頃の授業の成果を判断することには慎重でなければなりません。
ところが、太山寺中学校の研究発表では、代表ではなく、英語科の教師全員(5人)が、それぞれ異なる学年や学級で授業を公開しました。扱う題材も活動も同じではありません。それなのに、参観者は、どの教室でも生徒たちが自分から英語を使おうとしていることに気づいたのです。
教師が替わっても、学年が違っても、共通する生徒の姿が見られる。これは、一人の教師が優れた授業を行うこととは、意味が違います。
例えば、ある教師の授業では生徒が活発に話すのに、別の教師の授業になると、教師の指示がなければ動けなくなる。そのようなことはないでしょうか。学年が替わり、担当する教師が替わるたびに、授業の進め方や求められることが大きく変われば、生徒はその都度、新しいやり方に慣れなければなりません。そのとき、時間のロスが生まれます。
太山寺中学校の5人は、授業の内容や進め方をすべて同じにしていたわけではありません。それぞれの学級の実態に合わせながら、「育てたい生徒」の姿を共有してきました。
その成果が、公開授業の日の教室に表れていたのです。
では、5人は、最初からそのような授業ができていたのでしょうか。
◆ あのときは、5人が衝撃を受けた
2025年12月、太山寺中学校の英語教師2人が福岡市を訪れました。参観先は、福岡市立原中央中学校の松田由紀子先生と、三筑中学校の上野正純先生の授業です。残る3人も、Zoomを通してリアルタイムで授業を見ていました。
そこで目にしたのは、教師の指示を待たず、自分の考えを英語で伝え、相手の言葉を受けてやり取りを続ける中学生の姿でした。
現地で参観した瀧口麻帆先生は、そのときの感動を、次のように表現しています。
「感動の涙が出ました。まるで高級なオペラの舞台を見ているようでした」
この言葉は、2025年12月15日の『なかよう備忘録』「涙が出るほど感動したTT授業に共通していたこととは(福岡市の授業視察より③)」でも紹介しました。
なぜ、オペラだったのでしょう。
オペラでは、歌い手が自分のパートを歌うだけでなく、相手の声を受け止めながら、一つの場面をつくり上げていきます。福岡の授業でも、生徒たちは覚えた英文を順番に口にしているのではありませんでした。相手の言葉を聞き、その反応によって、次に伝えることを変えていたのです。
しかも、目の前にいるのは、自分たちが毎日教えているのと同じ中学生です。特別な才能を持った生徒だけが活躍しているわけではありません。教室のあちらこちらで、生徒たちが自分の言葉でやり取りを続けていました。
瀧口先生が衝撃を受けたのは、教師の指導技術というよりも、生徒たちがここまで自分の力で英語を使えるようになるのだという事実を目の当たりにしたことです。
そして、その姿を見たからこそ、自分たちの授業を振り返らずにはいられなくなったのです。
◆ 感動は、ときに痛みを伴う
優れた授業を参観すると、私たちは感動します。生徒が生き生きと活動している。教師の働きかけが的確である。教材や活動にも工夫がある。研修会の帰り道では、同僚と授業について熱心に語り合うこともあるでしょう。
しかし、学校に戻ると、いつもの日常が待っています。教科書の進度、定期考査、入試への対応、校務分掌。授業を変えようと思っていても、何から手をつければよいか分からないまま、これまでの授業を続けてしまうことがあります。
そのとき、「あの学校だからできる」「あの先生だからできる」と考えてしまえば、自分の授業を変えずに済みます。生徒の実態や学校の環境が違うことは事実です。しかし、それを理由にしてしまえば、目の前で見た生徒の姿から学ぶ機会も失ってしまいます。
福岡の授業を見た太山寺中学校の5人は、どうだったのでしょうか。
授業の素晴らしさに感動した一方で、自分たちの教室の生徒と比べずにはいられなかったといいます。福岡の生徒たちにできていることが、なぜ自分たちの生徒にはできていないのか。その違いを、生徒の能力や意欲だけで説明してよいのか。
教師にとって、これは簡単に答えられる問いではありません。これまで大切にしてきた指導や、時間をかけて準備してきた教材を、もう一度見直すことになるからです。
しかし、5人は、その問いから目をそらしませんでした。それだけショックだったのです。
太山寺中学校の英語科は、少しずつ授業改善に取り組んでいました。しかし、福岡への視察は、その2年間の歩みの中で、大きな転機となったのです。5人は、福岡で見た生徒たちの姿を具体的な目標に据え、それまでの取り組みを見直していきました。
ここで重要なのは、福岡の授業をそのまま再現しようとしたわけではないということです。生徒の実態も、教師の経験も、学校の環境も違います。だからこそ、自分たちの教室では何を変える必要があるのかを考えなければなりませんでした。
◆ 「英語が一番嫌い」だった生徒の言葉
研究授業の後、一人の生徒に授業の感想を聞いた先生がいました。彼女は、生徒の言葉に耳を疑います。
「自分は英語が1番嫌いで苦手だけれど、7月ぐらいから話せるようになってきて嬉しいです。」
その先生は、そのときの驚きを正直に授業の感想欄に書きました。なぜなら、「英語が好き」ではない。今も、英語は嫌いで苦手だと感じている。それなのに、「話せるようになってきて嬉しい」と言ったからです。
英語が苦手な生徒にとって、「自由に話してみよう」という指示は、必ずしも楽しいものではありません。何を話せばよいか分からない。言いたいことがあっても英語が出てこない。友だちが楽しそうに話している横で、自分だけが取り残されたように感じることもあるでしょう。そのような生徒が、自分の変化を喜ぶようになっていました。
しかも、本人は「7月ぐらいから」と言っています。公開授業の日に突然、英語が話せるようになったわけではありません。日々の授業を通して、それまでできなかったことが、少しずつできるようになってきたのでしょう。
このコメントだけでは、何が直接のきっかけだったのかまでは分かりません。しかし、少なくとも、この生徒は自分の成長を実感している(メタ認知能力がついている)ことは確かです。
教師が「頑張ればできるよ」と励ますことと、生徒自身が「話せるようになってきた」と感じることは、同じではありません。
授業が盛り上がった。生徒が楽しそうだった。活動に積極的に参加していた。確かに、それらは大切なことですが、それだけで「力がついた」と判断することはできません。
教師が一生懸命に教えたという事実と、生徒ができるようになったという事実は、必ずしも一致しません。この生徒の言葉は、そのことを改めて考えさせてくれます。
◆ 参観者は、何を持ち帰ったのか
太山寺中学校の公開授業を参観した教師の中には、基本文トレーニングやQ&A、ペアチャット、思考ツールの活用に関心を持った方が多くいました。使用したワークシートや指導案を参考にしながら、自分の授業に取り入れようと考えた方もいたでしょう。
それは、授業を変えるきっかけになります。ただし、活動の手順を知ることと、その活動によって生徒にどのような力が育つのかを理解することは、別です。
例えば、参観した授業で、生徒が教師の指示を待たずにペアチャットを始めていました。その姿を見て、自分の授業でもペアチャットを取り入れたとしましょう。
ところが、生徒は最初の質問に答えると黙ってしまいます。教師が「次の質問をして」と促しても、何を尋ねればよいか分からない。結局、教師が質問の例を黒板に書き、活動を進めることになります。
そのとき、「うちの生徒には、まだ難しかった」と判断して終わってよいのでしょうか。
太山寺中学校の生徒たちも、最初から即興でやり取りができていたわけではありません。公開授業で見られた姿に至るまでには、日々の授業で積み重ねてきた学習がありました。
参観者が見たのは、その積み重ねの上に成り立っていた一時間です。
同じ活動を取り入れても、同じ生徒の姿になるとは限りません。その活動に至るまでに、生徒が何を身につけ、どのような経験を積んできたのか。そこまで見なければ、授業の本当の姿は分からないのです。
福岡で授業を見た5人が考えたのも、まさにそのことでした。活動をまねる前に、あの生徒たちは、「なぜ、あのように英語が使えていたのか」を考えたのです。
◆ 増やす前に、何を見直すか
授業を改善しようとすると、つい新しい活動を探したくなります。生徒が意欲的に取り組めるゲームはないか。もっと効果的なワークシートはないか。思考ツールをどこに入れればよいか。研修で紹介された方法を、次の授業にどう取り入れようか。
しかし、授業時間は増えません。新しい活動を一つ加えれば、その分、何かに使える時間が短くなります。それでも、私たちは「何を減らすか」よりも「何を増やすか」を考えてしまいます。
太山寺中学校の5人が向き合ったのも、この問題でした。
冒頭でご紹介した感想に戻ってみます。
「教師の指示が少ない。発問も少ない。それなのに生徒が動いている!」
確かに、10月7日の教室では、教師が細かく指示を出さなくても、生徒たちが自分から英語を使い、仲間とのやり取りを続けていました。しかし、ここで見誤ってはいけないことがあります。
指示を減らしたから、生徒が動くようになったのではありません。生徒が自分で動けるように育ててきたから、細かな指示が必要なくなったのです。
では、そのために5人は何をしてきたのでしょうか。
教科書の内容をどう扱うか。何を繰り返し練習させるか。どこまで教師が教え、どこから生徒自身に判断させるか。福岡で目にした生徒の姿を手がかりに、自分たちの授業を一つひとつ見直していきました。
5人が見直したのは、特別な活動ではありません。教科書の扱い方、毎時間の練習、教師の説明や指示。これまで当たり前だと思って続けてきた授業そのものです。
福岡で見た生徒たちと、自分たちの生徒たち。同じ中学生なのに、なぜ、これほど違うのか。その答えを生徒の能力や意欲に求めるのではなく、自分たちが毎日行っている授業の中に探し始めたのです。
生徒に「自分で考えなさい」と指示をするだけで、それができるようになるとは限りません。むしろ、彼らは、これまで当たり前のように行ってきた説明や指示、活動の中に、見直すべきものがあるのではないかと気づいたのです。
私たちは、毎日授業をしています。教科書を進め、文法を説明し、練習問題に取り組ませています。それを当たり前と考えています。しかし、その授業を3年間受けた生徒たちは、初めて聞く質問にも、自分の考えを英語で伝えられるようになっているでしょうか。
太山寺中学校の5人は、福岡でその問いを突きつけられました。
次回は、5人が当たり前のように続けてきた授業の何を見直したのか。
何を残し、何を削ったのか。その判断の根拠に迫ります。
次回 第2回「彼らは、何を削ったのか」
