🍀「苦しくなる」のは、全部を“別々”に見ているから(3/3)

第3回 「単元計画」は、“最後の授業”から逆算する

Project をゴールにすると、「軽重」が見えてくる

「単元計画を立てるのが苦手です。どうしたらいいのでしょうか」

多くの若い先生から、そう質問されます。

よくよく話を聞いてみると、

彼らが最初に考えてしまうのが、

「この文法をどう教えるか」
「どんな活動を入れるか」
「この単語をどう覚えさせるか」

ということのようです。

これまでも述べてきたように、

単元の最初から順に見ていくから、

すべてが「同じ重み」(あれもこれも)に

見えてしまうのです。

小説なら、

最初から順に読むのは当たり前です。

一方で、ダイエット、旅行計画、料理、習い事

どうでしょう。

それらは、ゴールが決まっていなければできません

授業は、作家の書いた小説を楽しむわけではありません。

実際に、

ネイティブの英語が聞き取れる。

初めての英文を読んで概要がわかる。

まとまったことを、

自分が学んだ文法や語彙を駆使して、

相手にわかるように書ける。

即興で質疑応答ができる、

ある話題について

2分から3分、自由に会話ができる。

それによって、生涯学習の基礎を作るためです。

教科書を終わっても、これらのことができない

のであれば、それは「英語」を学んだ(獲得した)

とは言えません。

何よりも大事になるのは、

単元のゴール(教えたことではなく、実際に育った姿)

が明確にするということです。

単元の最後に、「本当に力がついたかどうか(何も見ずに

できるか)」を確認するタスク(教科書であれば、統合的

な出力型のタスク)を用意することです。

逆に、もし今の授業スタイルが

「今日の授業→次の時間→今週の範囲」

という流れになっているとしたら、

それは「自転車操業」の状態であると言えます。

だから、忙しく感じてしまうのです。

生徒に力をつけている教師が、

真っ先に考えるのは、

単元の最後に、生徒がどんな姿になっていてほしいか

です。

先ほど紹介した、

ゴールがイメージできなければ到達しないことのように、

まずは最後の仕上がった状態(場面)を具体的に

思い描いています。

例えば、学期末にALTへ地域の魅力を

紹介するProjectがあるとします。

そのとき、生徒は何を見ながら話しているのかを想像するのです。

そして、そうなるためには、どんな指導が必要になるかを考えています。

原稿を読んでもいいのか。

(いや、ダメだ。書いたものを暗記するのでも力はつかない。

帯学習で、絵や写真を用意し、日頃から picture describing の練習をしよう)

ときどき、メモだけを見てもいいのか。

(5語までなら許可しよう。その際、メモを書いたカードは発表後に回収しよう。

そうしないと文を書いてしまう生徒が出てくる。

マッピングはチラ見してもいいことにしよう)

プロジェクトの発表の後、即興で質疑応答をするのか

(そのためには、マッピングでメモをとり、

関連する質問が考えられるようにしなければならない。)

質問はしないで、全員がコメントを英語で書くのか

(話すだけでは正確さが欠ける。書いたものを確認し、

多い間違いについてしっかり指導をする時間を取ろう)

このように、行き来しながら、

ゴールに到達するために必要な活動と、

練習内容と練習時間について、

思考しているのです。

「軽重」は、教師の勘や思いつきでは決まりません。

最後にどんな学習者を育てたいのか

その姿が見えたとき、初めて何に時間をかけ

何を繰り返し経験させるべきかが、見えてくるのです。

軽重は、「削ること」ではない

軽重という言葉を聞くと、

「どこかを省略すること」「手を抜くこと」

のように感じる方もいるかもしれません。

しかし、そうではありません。

自転車は

乗り方を説明されたからといって、

すぐに乗れるようになる人はいません。

バランスを崩しながら乗る、転ぶ、また乗る。

その繰り返しの中で、少しずつ体が覚えていきます。

英語も、教師が基本文を教えたからといって

すぐに使えるようになるわけではありません。

基本文を使って、

自分がペアの相手に質問をし、相手がそれに答える。

今までに学んだ基本文や語彙を使ってペア・チャットをする。

相手を変え、お題を変え、

何度も話したり、

またはまとめにそれを書いたりする中で、

だんだん自分で使えるレパートリーが増えていくのです。

(なぜ、「スモールトーク」と書かないのかについて。

スモールトークとチャットは、ねらいも質も違います。

現場では、スモールトークを勘違いしている方が

おられるようです。スモールトークは「雑談」であって、

話し合いではありません。

中学校、高等学校では、スモールトークで終わって

いると力がつきません。これについては、また、

別の機会に問題提起をします)

いずれにしても、「練習時間」をしっかり取って、それを

言語活動につなげない限り、

生徒は、いつまで経っても技能が高まりません。

すべての文法事項を同じように扱い、

すべての活動を同じように入れようとすると、

どうしても教師の説明の時間が長くなり、

プリントで学習する時間が増え、

何度も反復して練習する時間がなくなってしまいます。

結果として、「習った」けれども「使えない」

という状態が生まれます。

「軽重をつける」とは、子どもたちが英語が使える

ようになるための時間を確保するということです。

どこで集中的に経験させるのか

どこをどれだけ繰り返し使わせるのか。

それを計画することが「軽重」なのです。

帯活動は、練習か、それともレクリエーションか

帯活動に対して

「帯活動は授業本体ではない」

「楽しく英語に触れさせる時間」

「授業前のウォーミングアップ」

とという捉え方をされている方がおられます。

帯活動は「おまけ」ではありません。

最初の導入の10分をどう指導しているか。

私が今までかなりの数の授業を見てきて

次のように分類できるように思います。

1)忘れ物や宿題のチェック(ある学校は服装検査)から入る

2)教師の授業とは関係のない雑談から入る

3)ビンゴ、歌、ゲーム(本時の内容と繋がっていない)

4)基本文を完全マスターするための練習、Q&A、チャット

5)初出の英文(学年に応じて100語〜200語)読解→TFテスト

  リスニング(シャドーイング、リピーティング)のトレーニング

  英語の歌の聞き取り(リンキングの部分)

  基本文を使って3文以上の文脈のある英文を書き、仲間がそれを

  読んで、3文でコメントを書く

  簡単なマイクロ・ディベートなど

これらの「帯活動」の内容は、そのまま学力差(生徒の

技能の差)として表れているように思います。

境界線が入るのはどこでしょうか。

そうです。

3)

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4)

です。

なぜ、そうなるのかお分かりですか。

生徒の中に、揺れ、迷い、やり直し、再構成があるかどうか

それが、段階的に「練習→言語活動(コミュニケーション活動)」に

つながっているかどうかの違いです。

考えなければならないのは、

その活動が、

4技能の「どの力」を育てるために

やっているのかを生徒に説明しているかどうかです。

それが続くと、1か月後、半年後、1年後に、

どのような姿になっているのでしょうか。

もし、その答えを説明できないのであれば、

それは「活動が目的になっているのではないか

と振り返ってみることが大事です。

野球部が、毎日練習前に10分間、

じゃんけん大会をしていたとします。

子どもたちは盛り上がるでしょう。

チームの雰囲気も良くなるかもしれません。

しかし、それで野球は上達するでしょうか。

帯活動は、苦手な子どもたちが授業を受ける

モードになるための「準備時間」ではありません。

自信をつけるため、「技能」を鍛えるための

トレーニングの時間です。

聞く力、即応する力、読み取る力、表現する力

それらを毎日少しずつ積み上げる時間なのです。

そう考えると、

毎時間の「帯活動」の意味が変わってきます。

毎回同じQ&Aをこなして終わる活動ではなくなります。

例えば、

① 相手に、今まで習った基本文を使って質問をする

② 相手の質問への答えの後に、一文を付け足す
③ 答えの後に、理由や I think で意見を付け加える

④ 相手の言ったキーワードを捉え、関連する質問をする
⑤3つのお題から、自分たちで1つ選んで90秒間、チャットをする

というように、少しずつ負荷を高めながら計画する

ことができるようになります。

大切なのは、

「知っている」と「使える」は違う

ということです。

多くの授業で、生徒は文法や表現を知ります。

本文の意味がわかり、テストでも答えられます。

しかし、いざ会話になると出てきません。

それは、学習が「知識止まり」になっており、

「技能」までつながっていないからです。

帯活動の役割は、そこを埋めることにあります。

質問を作る、返す、付け足す、聞き返す。

そうした練習を積み重ねることで、知識(知っている)が

少しずつ技能(使える)へと変わっていきます。

帯活動は、時間が余ったときに行うメニューではありません。

まして、4技能のどれかを高めることとは関係のない内容

であるなら、それは時間のロスです。

クリスクロス・ゲームで、

クラスが「わーっ」となる状況が

本来の「言語活動(コミュニケーション活動)」とは関係ないことも

お分かりいただけるのではないかと思います。

帯活動は、

単元の最後に求められる力を支えるための「練習」で

あったり、短い「言語活動」であったりします。

学期末のProjectでは、

「知識及び技能」、「思考力・判断力・表現力」が

統合的に求められます。

そのとき必要になるのは、

習った文法を知っていることではありません。

それを使って話せること

それを使って書けることです。

それを、ワークシート(浮き輪)を使わずに

自分の力でできるようになっていなければなりません。

そのためには、

日々の授業の中で繰り返し練習することが欠かせません。

帯活動は、Projectへの伏線です。

Projectにつながらない帯活動は、その場で終わります。

何より、

最後に何の力につながったのかが見えなければ、

学習経験として残りにくくなります。

どこへ向かうのかを、生徒は知っているか

最後の姿が見えていないと、

教師がすべてを抱え込むことになります。

この単語も教えなければならない

この表現も説明しなければならない

この活動も入れなければならない。

そう考え始めると、授業は次第に教師中心になっていきます。

一方で、最後の姿が共有されている授業では、

生徒自身が今どこにいて、次に何を目指せばよいのか

を理解できるようになります。

そのために必要なのが「航海図」です。

教科書を順番に進める授業では、

多くの生徒が今どこへ向かっているのかを見失います。

毎時間、その日のページだけを見て、

その時間の課題だけをこなします、

すると、学びは点のまま終わります。

それは、目的地を知らないまま船に乗るようなものです。

最初は進んでいるように見えます。

しかし、自分がどこへ向かっているのかが分からない状態が続くと、

次第に意欲は失われていきます。

毎日、見えるのは同じ景色(海)ばかりです。

やがて、甲板にも出なくなります。

実は、英語が嫌いになる理由の一つがそこにあります。

授業が難しいから、

教師が厳しい(または、えこひいきをする)からだけではありません。

「何のため」に学んでいるのか分からない。

どこへ向かっているのか見えない。

何よりも、自分が成長している実感を持てない。

そうした状態が続くことで、

少しずつ英語から心が離れていくことも少なくないのです。

それを防ぐのが「航海図」であり、英語の授業ではCan-Doです。

Can-Doは、教師が作って終わりにするものではありません。

あくまでも、生徒が使うためのものです。

今、自分はどこまでできているのか

次は何ができるようになればよいのか

を「見える化」するためのものです。

だからこそ、学期の最初に渡しておかなければなりません。

そして、授業の中で繰り返し使います。

職員室のロッカーや引き出しの中にしまわれたCan-Doでは

意味はありません。

生徒が現在地を確認し、自分の成長を

確かめるために使われてこそ、価値が生まれるのです。

Can-Doは、評価につながっているか

ただし、Can-Doを配るだけでは、生徒は変わりません。

見落とされがちなのが、「評価との一体化」です。

例えば、

「比較しながら伝えられるようになろう」

とCan-Doに書いたとします。

すると、定期テストではそれができているか

どうかを見とる設問を用意しなければなりません。

教師は「思考力」や「表現力」を育てたいと思ったら、

実際に「どのような状態が望ましいのか」という

具体的なレベルを生徒に伝えておかねばなりません。

つまり、A・B・Cの「評価基準(評価規準とは別)」です。

すると、生徒は現在地を確認しながら学習に取り組むように

なります。

「これができるようになろう」を示すのであれば、

「本当にそれを見とる設問」を用意する覚悟が必要です。

また、

Can-Doの中で、

定期テストではどこを評価するか

どのような設問形式になるか

を予告しておきます。

つまり、評価内容評価方法を先に示して

おくのです。

パフォーマンステストも同じです。

それを伝えておけば、

授業で取り組む活動が、

何のため」にやっていることで、

どう「評価」につながるのかもわかり、

授業に主体的に取り組むようになります。

教師が、単元ごとにいちいち説明しなくても、

ジグソーパズルの最後に仕上がった絵

さえ最初に渡しておけば、見通しを

持って準備をしていきます。

体育、音楽、美術(図工)、技術など

の技能教科は、まさにその世界です。

だからこそ、生徒たちは

教師に言われなくても

自ら取り組むのです。

英語も「技能教科(4技能を高める)」です。

ですから、

生徒の目が釘付けになる「最後のシーン」

を手に入れておかなければなりません。

それは、

見事な英語でプレゼンをしている先輩

本気でディベートをしている先輩

楽しそうにチャットをしている先輩

の映像です。

技能教科では、それが最高の「教材」となります。

だとしたら、いつ、その「映像」を

手に入れればいいのでしょうか。

教師が、

単元計画を丁寧に組み立て、

そのような生徒たちを

本気になって育てることです。

すると、いちいち説明しなくても、

その姿が(意欲も)「伝承」されていきます。

そして、何よりも、

そのような生徒を育てた経験が「財産」となり、

教科書(素材)を見ただけで

パッと「軽重」をつけられる箇所が見えてくるようになります。

定期テストを見ると、授業が見える

私はよく、セミナーで

「定期テストを見ると、その教師の日頃の授業が見える」

というお話をしています。

テストでは、

どのような種類の問題かで、

「どのような力」を育てようとしているか

が見えてきます。

定期テストは、授業の最後に作るものではありません。

学期の最初に、それを作り、それができるようになる

練習や言語活動を用意していきます。

思いつきではなく、計画的にそれができるのです。

そして、そのテストにこそ、

教師の「指導観」が表れます。

例えば、

「比較しながら説明する力」を育てたいのであれば、

複数の情報を比較する、

理由を述べる、

立場を選んで説明するという設問が

テストに現れてくるはずです。

なんとか試験範囲まで終わらなければと、

焦って指導をするのではなく、

試験範囲は、「今までやったところ」にしておくと、

教科書の中(特に本文)から問題を出すという

ことがなくなります。

授業で鍛えた「読解力、表現力など」の現状(到達度)を

確かめる内容(定期テストと実力テストの内容に差をつけない)

にしておけばいいのです。

本来は、

「どんな力を育てたいのか」

を考えた段階で、

その輪郭が見えていなければなりません。

評価とはゴールの確認だからです。

だからこそ、バックワードデザイン(育った姿から逆算する設計)

では、「評価」が重要になるのです。

一人で抱え込むから、苦しくなる

さて、ここまできて、不安になった方がおられないでしょうか。

「そこまで考える時間がない」

「全部は無理だ」

一人でやれば、そうかもしれません。

しかし、授業づくりも、評価づくりも、

本当は、個人でやることではありません。

なぜ、「教科部会」があるのでしょうか。

答えは、そこにあります。

授業づくりには、学校という組織(チーム)が

機能すること(評価観の確立)が不可欠なのです。

そのリーダーシップを発揮するのが「教科主任」です。

以前、私が勤務していた富山県砺波市立出町中学校では、

4月の段階で、

「どんな生徒を育てたいのか」

を教科部会で話し合っていました。

それが伝統になっていました。

歴代の校長先生(英語科)が関わり、

「出町の英語教育(ラベル)」を確立する

ために、教科部会がとても大切にされていました。

定期テストも、一人の教師(学年担当)が作るのではありません。

A教諭(教科主任)が、1年、2年、3年のListeningを担当する。

B教諭が3学年のWritingを担当する。

そして、C教諭(中嶋)が3学年のReading(長文、または対話文)を担当する。

そうして全学年を見通しながら問題を作っていました。

担当を学期ごとに、ローテーションで回していました。

教科部会で話し合うことは、

教科書の進度や宿題のことではありません。

本当にこの活動で表現力は育つのか

即興で返す力をつけるにはどんら練習が必要か

そうしたことが、自然と話題の中心になっていました。

ゴール(テストによる評価)を共有すると、

授業を見る視点が変わります。

授業を見る視点が変わると、

教科書の扱い方も変わっていきました。

「発表する」では、何も見えない

優れた教師の指導案を読むと、

いくつか共通点があることがわかります。

たとえば、「発表する」という簡単な表現で

終わっていないということです。

指導案でよく見かけるのは、

「ペアで練習をする」とか

「グループで発表する」

という記述です。

しかし、これでは何も見えてきません。

あまりに抽象的で、頭にそのシーンが浮かんで

こないのです。

このような学習指導案の記述は、

指導者にしかわからない内容

(もしかして指導者もわかっていないかもしれない)

です。

学習指導案を書くということは、それを読む相手が

いるということを考えなければなりません。

文章を書くのと同じで、相手目線で書かなければ

自分本位(自分のやりたいこと、その予定)の

内容になってしまいます。

本当に考え抜かれた指導案では、

何分行うのか

途中でフロアーに質問をするのか

最後に即興で質疑応答をするのか

次の発表者は、廊下で何をして待つのか

そうしたことまで具体的に書かれています。

なぜ、それができるのでしょうか。

それは、教師の頭の中に「育った生徒の姿」があるからです。

指導案は、教師がやりたいことを書くものではありません。

生徒がどこで考えるのか、

どこで揺さぶる(迷わせる)のか、

どこで再構成させるのか、

それを想定して書いていきます。

「授業進行案」ではありません。

生徒が活躍するための「脚本」なのです。

ちょうど、それは「学校行事(修学旅行、卒業式など)」

の「細案」と同じだと考えるといいかもしれません。

感動(ずっと覚えていること)は、

緻密な計画(細案)があってこそ生まれるからです。

軽重は、「何を残すか」を決めること

ここまで来ると、今まで捉えていた

「軽重」のイメージとは

少し違って見えてくるのではないでしょうか。

「軽重」とは、

「どこを削るか」

ではありません。

何を残すか

を決めることです。

だからこそ、

どこで時間をかけるのか

どこを繰り返し練習するのか

どこを統合的に扱うのか

という重みづけが生まれます。

すべてを同じように扱うことはできません。

すべてを同じ時間で扱うこともできません。

すべてを同じ重さで抱え込もうとするから苦しくなるのです。

軽重とは、教師が楽をするための技術ではありません。

子どもに「技能」をつけるために、

限られた時間をどこへ「投資するか」を決める教育的判断です。

軽重をつけるのは、

教師が減らした時間は、子どもが練習する時間だった

教師が手放した部分は、子どもが考える時間だった

にならないようにするための「設計」です。

その視点に立ったとき、授業の見え方は大きく変わります。

単元は、ページの集まりではないということです。

むしろ、最後に育つ姿に向かって積み上げていく「物語」です。

大切なのは、

その日の授業で何をするかではありません。

物語の最後の場面で、

生徒が「できた」と実感している姿を最初に描き、

そこから逆算して、一つひとつの活動に意味を持たせていく。

それが、学習指導要領に書かれている

単元のまとまりを通して」という意味です。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント