教師が「何をするか」を決める授業から、子どもが「どうしたいか」を決める授業へ
◆ よく動いている。それでも……
「まず、一人で考えましょう」
教師の声で、子どもたちが一斉にワークシートに向かいます。しばらくすると、「では、隣の人と交流しましょう」。教室に声が広がります。教師は机間指導をしながら、「もう少し詳しく聞いてみよう」「どうしてそう考えたの?」と声をかけます。そして数分後、「友だちの考えを聞いて気づいたことを、自分のシートに付け足してください」。子どもたちは再びペンを動かし始めます。
個人で考え、友だちと対話し、そこで得たものを自分の考えに取り入れる。子どもたちはよく動いています。教室には対話があり、ワークシートにも変化が見られます。「主体的・対話的で深い学び」が実現しているようにも見えます。
ところが、この授業を少し離れたところから眺めると、別の景色が見えてきます。
一人で考えることを決めたのは教師です。交流を始めるタイミングも、誰と話すかも、いつ終えるかも、その後に何をするかも教師が決めています。子どもたちは確かに動いています。ただ、その動きを決めているのは教師です。
子どもが「活動している」ことと、子どもが「自分で学んでいる」ことは、果たして同じなのでしょうか。
◆ 今、なぜ「実装」なのか
次期学習指導要領に向けた議論では、「主体的・対話的で深い学び」の「実装」が大きな方向性の一つとして掲げられています。
ここでいう「実装」は、何か新しい活動を授業に付け加えることではありません。現行の学習指導要領が目指してきた授業改善を、理念や形式で終わらせず、子どもの実際の学びの姿として、さらに具現化していく(できるようにする)ことが求められています。
「個人思考を入れた」「協働する場面をつくった」「振り返りを書かせた」。それだけで、子どもが主体的に学んだとは言えません。
日常の教室で、子ども自身が考え始め、他者との関わりの中で自分の考えを見直し、必要ならやり方を変えていく。そうした姿が実際に現れるところまで授業を変えていく。そこに「実装」という言葉の重さがあるように思います。
総合的な学習・探究をめぐる議論でも、共通のテーマを全員で追究するだけでなく、一人ひとりの関心や課題から出発する探究や、論文、プレゼンテーションだけに限らない多様な形での表現が検討されています。
大切なのは、新しい活動の名前ではありません。誰が問いを持つのか。途中でうまくいかなくなったとき、誰が「このままではだめだ」と気づき、次の一手を決めるのか。問われているのは、そこではないでしょうか。
◆ 「もう一回、聞いてもいいですか」
授業を見ていると、ときどき子どもが教師の想定した流れから外れようとする瞬間があります。
ペアでのやり取りが終わり、教師が「では、今聞いたことをもとに、自分の考えを書き直しましょう」と指示を出したとします。子どもたちは一斉にシートへ向かいます。ところが、一人だけ手を挙げます。
「先生、もう一回、○○さんに聞いてもいいですか?」
先ほど聞いた友だちの考えが、自分とは違っていた。もう少し聞けば、自分の考えが変わるかもしれない。その子にとって今必要なのは、教師が予定していた「書くこと」ではありません。「もう一度聞くこと」なのです。
教師が「今は書く時間だから、あとにしよう」と答えれば、授業は予定通り進みます。
「どうして?」
「もう少し確かめたいから」
「じゃあ、行っておいで」
こんなやり取りが生まれたら、どうでしょう。
その子は、教師が用意した学習過程から一歩外へ出て、自分に必要な学び方を自分で選び始めます。自己調整は、こういう小さな場面から始まるのかもしれません。
◆ 「選べる授業」の、その先へ
では、教師が選択肢を用意すればよいのでしょうか。
一人で考えるか、誰かと考えるか。紙を使うか、タブレットを使うか。スピーチにするか、プレゼンテーションにするか。自分で選べる場面をつくることには意味があります。
ただ、本当に見たいのは、その後です。
たとえば、英語で自分の考えを伝える場面です。ある子は、最初に書いた英文を見ながら話そうとします。ところが、途中で何度も紙に目が落ち、相手の反応が見えません。言いたかったこともうまく伝わらなかったようです。
その子は、もう一度同じ原稿を読む練習をするのではなく、原稿を机に置きます。そして、伝えたいことをいくつかのキーワードだけにして、もう一度話し始めます。
最初に選んだ方法が、うまくいかなかった。そこで、「もっと練習しなければ」と同じ方法を繰り返すのではなく、やり方そのものを変えたのです。
選択肢の中から一つを選べることが、自己調整のゴールではありません。やってみて、うまくいかなければ、自分で選び直す。そこまで子どもに返されて初めて、「選べる授業」は「自分で学び方を変えられる授業」になっていくのではないでしょうか。
「今日は一人で考える」と決めた子が、しばらく考えても内容を広げられずにいる。ふと隣を見ると、友だちのマンダラ・チャート(フレックス)に、自分にはなかった言葉が書かれています。
◆ 増えたものだけを見ない
授業の終わりにシートを見ると、最初より言葉が増えている子がいます。教師はそこに学びの成果を見取ります。もちろん、それは大切な変化です。
ところが、別の子のシートを見ると、増えるどころか、最初に書いた一文に大きく線が引かれていることがあります。
「どうして、これを消したの?」
「さっきまではこれでいいと思っていたけど、先生が見せた例を見たら、言いたいこととずれている気がしたから」
新しい表現を一つ覚えたわけではありません。誰かの答えをそのまま付け足したのでもありません。モデルと自分の表現を比べたことで、それまで気づかなかったずれが見えてきたのです。
書かれた量だけを見れば、減っています。しかし、その一本の線は、「できなかった跡」ではありません。それまでの自分の考えをいったん手放し、もう一度つくり直そうとした跡です。
教師が見たいのは、「いくつ書けたか」「何分話せたか」だけではありません。その子がどこで立ち止まり、何に気づき、なぜそれまでの方法や考えを変えたのか。そして何より、その変更を誰が決めたのかです。
◆ TeachかCoachか、ではない
子どもが自分で判断する授業というと、「教師は教えず、子どもに任せればよい」と受け取られることがあります。そうではありません。
英語であれば、語彙や文法、音声や文字など、教師が系統的に指導すべきことがあります。子どもだけでは越えられない壁にぶつかっているなら、必要な知識や技能を明確に教えることも教師の仕事です。
難しいのは、その先です。
今は教えるのか。もう少し待つのか。問い返すのか。友だちにつなぐのか。それとも、本人の判断に委ねるのか。目の前の子どもの学びを見ていなければ、その判断はできません。
先ほどの「もう一回、聞いてもいいですか」という言葉も、「予定から外れた行動」と見るか、「自分に必要な学びを選び始めた瞬間」と見るかで、教師の返す言葉は変わります。
TeachかCoachかを先に決めるのではなく、子どもの今を見て、自分の立ち位置を変える。教師の専門性は、教える技術だけでなく、いつ支え、いつ手を離すかを見極めるところにも表れるのだと思います。
◆ 教師が工夫するほど、教師を待つ子を育てていないか
ICT、生成AI、思考ツール、個別最適な学び、協働的な学び、探究。学校には、これからも新しい考え方や方法が入ってきます。
教師が熱心であればあるほど、気をつけたいことがあります。
「今日はこのツールを使います」「まず一人で考えます」「次は二人で交流します」「終わったらここに書きます」。子どもが迷わないように、教師が先回りして道を整える。授業はスムーズに進みます。
その先で、子どもが「先生、次は何をするんですか」と教師を見るようになっていたら、どうでしょう。
教師が授業を工夫することと、子どもが自分で学べるようになることは、いつも同じ方向を向いているとは限りません。
新しい方法に出会ったとき、「これをどう授業に取り入れようか」と考える前に、一つだけ確かめてみたいことがあります。
これを取り入れることで、子どもが自分で決められることは何が増えるのか。
同じ思考ツールも、同じICTも、この問いを通すと見え方が変わってきます。
◆ 教師が握っているものを、少しずつ返していく
もちろん、最初からすべてを子どもに任せることはできません。経験の少ない子どもに「好きなように学びなさい」と言うだけでは、主体性ではなく放任になってしまいます。
最初は教師がモデルを示し、方法を教え、必要な足場を用意する。それは必要なことです。問われるのは、子どもが経験を積んだ後も、教師が同じように握り続けるのかということです。
一学期には教師が決めていたことを、二学期には少し子どもに返してみる。誰と学ぶか、何を使うか、どこまで時間をかけるか。うまくいかなかったとき、同じ方法を続けるか、別の方法を試すか。子どもが経験を積むにつれて、こうした判断まで少しずつ任せていくのです。
すると、教室で聞こえる言葉も変わってくるかもしれません。
「先生、次は何をすればいいですか」から、「もう一回、あの子に聞いてきます」へ。
「ここは消して、こっちに変えます」
「これでは伝わらなかったので、別の言い方を試します」
「もう少し考える時間をもらえますか?」
教師の指示を待つのではなく、自分の次の行動を自分の言葉で語り始める。
おそらく、「実装」はこういう教室の風景として見えてくるのでしょう。
次期学習指導要領に向けて、これから新しい言葉に出会い、新しい方法を学ぶことになります。しかし、方法をいくつ知っているかだけでは、教室は変わりません。
「まず、一人で考えましょう」
「では、隣の人と交流しましょう」
「次は、シートに書きましょう」
この記事の冒頭で、教師が出していた指示です。
その声が少しずつ減り、その代わりに、
「このやり方ではうまくいかなかったので、変えてみます」
「ここは消して、最初から考え直します」
「もう少し時間を使ってから、次へ進みます」
という子どもの声が聞こえるようになる。
変わることを求められているのは、子どもだけではありません。
子どもに「自分で考えなさい」と言ってきた教師自身が、自分の授業を見つめ、「このままでいいのか」と考え、必要なら変えていくのです。
問題は、私たちが本気でそれに取り組めるかどうかです。
私たちは、本当に変われるのでしょうか。
参考資料
ヴィゴツキー「発達の最近接領域」

