担当が替わっても、生徒の学びを途切れさせないために ー
◆ 「全員で取り組む」とは、同じ授業をすることか
「英語科全員で取り組みました」
研究発表会では、よく耳にする言葉です。代表の先生が授業を公開されたとしても、そのように言われると指導案を見ていた参観者の顔が一斉に上がります。研究テーマを共有し、指導案を検討し、互いの授業を参観する。教科部会が一丸となって取り組んだことには、大きな価値があります。
しかし、全員で取り組むとは、どういう意味なのでしょうか。
10月7日、太山寺中学校では、田口隼人先生、井田昌宏先生、花田悠高先生、後藤田幸奈先生、瀧口麻帆先生の5人全員が授業を公開しました。代表者が一人だけ授業をする研究発表会ではありません。1年生から3年生まで、それぞれの教師が、自分の担当する学級で授業を公開したのです。
題材も活動も違います。それでも、生徒たちの姿には共通するものがありました。基本文やQ&A、ペアチャットで身につけた英語を使い、相手の答えを聞きながら次の質問を考える。思考ツールを使って自分の考えを整理し、仲間とのやり取りを通して見直す。教師から細かな指示を受けなくても、自分たちで学習を進めようとしていました。
参観者が見たのは、それぞれの教師が担当する一時間の授業でした。しかし、その背景には、5人が教科部会で積み重ねてきた2年間の取り組みがあります。
興味深いのは、5人が同じような授業をしていたわけではないということです。
では、何をそろえ、何をそろえなかったのでしょうか。
◆ 同じ単元なのに、なぜ指導案が2種類あるのか
3年生を担当する後藤田先生と瀧口先生は、同じ教科書の同じ単元で授業を行いました。しかし、指導案は別々に作成されていました。
後藤田先生は、その理由を次のように説明しています。
「それは、担当しているクラスの実態が異なるからです。」
さらに、こう続けています。
「それぞれのクラスには、それぞれの特徴やカラーがあります」
当たり前のことのように聞こえるかもしれません。しかし、実際には、同じ学年だからという理由で、共通の指導案を使っている学校も少なくないのではないでしょうか。
私が現場にいた頃、全国から授業を見に来られた先生方が驚かれたことがあります。同じ学年、同じ単元、しかも教科書の同じページを扱う授業なのに、2種類の指導案が用意されていたからです。「2年1組」と「2年3組」。しかし、私にとってはそれは当たり前のことだったので、むしろ、なぜ驚かれるのかが不思議でした。
本来、学習指導案は「第2学年 英語科学習指導案」ではなく、「2年1組 英語科学習指導案」のように、担当する学級の実態を踏まえて作成するものです。
今回の後藤田先生と瀧口先生の指導案を読むと、その意味がよく分かります。
後藤田先生が担当する3年5組では、既習表現を使って自分の考えや理由を述べる生徒が増えてきました。しかし、相手の話に沿って質問を重ね、会話を継続・発展させることには課題がありました。
一方、瀧口先生が担当する3年6組では、友だちの発表を受け止め、互いに助け合う姿勢が育っていました。しかし、質問に具体的に答えたり、聞き返したりすることに加え、自分の英語に自信を持てない生徒への支援も必要でした。
同じ学年でも、生徒の姿は違います。
相手の答えから次の質問を考えることに重点を置く学級もあれば、まず自分の考えを安心して伝え、相手の質問に具体的に答える経験を積ませたい学級もあります。
育てたい力は同じでも、そこに至る道筋まで同じにする必要があるでしょうか。
二人の指導案には、もう一つ注目したいことがあります。
当初、教科書の単元末活動に合わせて、日本の文化や習慣が海外の人に伝わるように、4コマ漫画を英語に翻訳することが目標に設定されていました。
ところが、二人とも、その目標を見直しています。
理由は、3年生の最後に学習する Lesson 8「For Our Future」とのつながりです。自分の将来や生き方について語る学習に向けて、この単元では何を考えさせるべきなのか。教科書の活動をそのまま行うだけでは、生徒が自分自身の問題として考えるところまでつながりにくいと判断したのです。
そこで、テーマを What is my happiness? に変更しました。
ただし、その後の展開まで同じではありません。後藤田先生は、仲間やALTとのやり取りを通して自分の考えを深め、伝えることを重視しました。瀧口先生は、幸せについてディベートを行い、最終的には自分の幸せをテーマにした4コマ漫画の作成へつなげる計画を立てました。
同じ単元、同じ研究テーマ、同じ方向を目指していても、学級の実態に合わせて指導案は異なっていたのです。
これは、足並みがそろっていなかったからではありません。何を育てたいかを共有していたからこそ、そこに至る方法をそれぞれが考えたのです。
◆ 「明日は何をするか」から、「育った姿から逆算する」へ
同じ3年生を担当した瀧口先生は、以前の授業づくりを「積み木型だった」と振り返っておられます。
「積み木型」とは、教科書のどこまで進めるか。新しい文法をどう説明するか。次はどの活動を入れるか。その日の授業を一つずつ積み重ねていく方法(「育てたい生徒像」がない、どちらかというと思いつきの指導)です。
もちろん、毎時間の授業を丁寧に準備することは大切です。しかし、目の前の一時間をどう成立させるかに追われていると、単元の終わりに生徒がどのような力を身につけているのかが曖昧になりがちです。
取り組んだのは、単元末に育った生徒の姿を具体的に描き、そこから必要な学習(練習から言語活動へのつながり)を逆算する「バックワード・デザイン」でした。完成図を頭に描き、一つひとつのピースを組み立てていく「ジグソーパズル型」へ、授業づくりの発想を変えたのです。
その転機になったのが、福岡市立三筑中学校の上野正純先生、原中央中学校の松田由紀子先生の授業参観でした。生徒たちが自分から英語を使う姿を目の当たりにし、太山寺中学校の英語科5人は衝撃を受けます。教科書を先に進める授業から、単元全体を見通した授業づくりへと変えていきました。
瀧口先生は、2つの単元の指導案を作成するのに、1か月ほどかかったと振り返っておられます。
1か月です。
「そんなに時間をかけていられない」と思われる方もいるでしょう。しかし、単元の終わりにどのような生徒を育てたいのかが明確になれば、毎時間の授業で何をするかを、その都度一から考える必要はなくなります。途中、迷うこともなくなります。
瀧口先生は、単元全体の計画をつくるまでには時間がかかったものの、その後の日々の準備は「何のためか」「どんな力をつけるためか」という見通しを持ってテキパキと進められるようになり、自転車操業の感覚がなくなったと振り返っています。
大切なのは、指導案を仕上げることではありません。
例えば、My Happiness というテーマであれば、単に幸せについて英語で説明できることを目標にするのか。それとも、仲間と意見を交わし、自分の生き方にも関わる問題として考え、伝えられるようにするのか。
目指す姿が違えば、単元の途中で何を経験させるかも変わります。
また、逆算して指導案をつくったからといって、その計画どおりに生徒を動かすことが目的になるわけではありません。
実際の授業では、教師の予想とは違う反応が生まれることがあります。そのとき、計画を優先するのか、生徒の反応を受けて活動を調整するのか。教師には判断が求められます。
ただし、その判断も、単なる思いつきであってはなりません。目指す姿がはっきりしているからこそ、予定を変えるべきかどうかを考えられるのです。
指導案は、教師が決めた手順を生徒に守らせるための台本ではありません。生徒の姿を見ながら、次に何をすべきかを判断するための設計図なのです。
◆ 「当初の計画はずさんだった」
後藤田先生は、今回の授業づくりを振り返り、次のように述べておられます。
「当初の自分の計画がいかにずさんだったかを思い知ることとなりました」
ずいぶん厳しい言葉です。しかし、私は、この言葉にこそ、「本気で考えた、今までの私とは違う」という自負が表れていると思います。
教師は指導案をつくるとき、何を説明し、どの活動を入れ、何分使うかを考えます。それらが整うと、授業の見通しが立ったように感じます。
ところが、別の教師がその指導案を読むと、疑問が生まれてきます。
「ここで生徒は何を判断するのか」「この段階で、その英語は使えるのか」「この活動は、単元末のどの姿につながるのか」自分の頭の中ではつながっているつもりでも、他の教師には、そのつながりが見えないことがあるのです。
例えば、指導案に「ペアで意見交換をする」と書かれていたとします。何のために意見交換をするのでしょうか。相手の考えを知るためでしょうか。それとも、相手の考えを手がかりに、自分の考えを見直すためでしょうか。目的が違えば、その後に必要な活動も変わります。
しかし、こうした疑問を指摘されたとき、「そこは授業中に説明します」と口頭で答えて終わりにしていないでしょうか。
授業を受けるのは、指導案を検討している教師ではありません。生徒です。教師が説明しなければ活動の目的が伝わらないのであれば、授業の組み立て方そのものを見直す必要があるかもしれません。
活動の順序に無理はないか。必要な経験が抜けていないか。そもそも目標と活動はつながっているのか。
後藤田先生が当初の計画を「ずさんだった」と振り返ったのは、指導案を何度も練り直す中で、それまで見えていなかった問題に気づいたからです。
実際、今回の指導案では、単元末の目標そのものを変更しています。教科書に示された活動をどう実施するかではなく、その活動が本当に目指す生徒の姿につながるのかを問い直したのです。
後藤田先生3年5組の単元計画と本時の学習指導案
指導案を検討するとは、誤字を直したり、活動の順序を整えたりすることではありません。教師が考えた授業を「生徒の学び」という視点から、もう一度組み立て直すことです。
では、彼女の実際の授業の一場面をご覧ください。
後藤田先生の3年生が、マッピングを手がかりに、自分の考えを英語でスピーチしている場面です。5分ほどの短い映像ですが、生徒が整理した情報を、どのように英語で伝えようとしているのかが分かります。
ここで注目していただきたいのは、マッピングの使い方です。生徒は、そこに書いた英文をそのまま読み上げているのでしょうか。それとも、マッピングを手がかりに、自分の言葉で伝えようとしているのでしょうか。
◆ 実際の後藤田先生の授業(My Happiness)
もちろん、この映像だけで、単元全体の学びを評価することはできません。しかし、指導案に書かれた活動が、実際の教室ではどのように行われているのか。その一端を知ることはできます。
映像をご覧になった後で、もう一度、後藤田先生の指導案に目を通してみてください。生徒がマッピングを使ってスピーチする場面が、単元全体のどこに位置づけられているのか。そこを確かめると、短い映像の見え方も変わってくるのではないでしょうか。
授業後に、生徒たちが次のような感想を書いています。
◆ 授業後の生徒の感想



◆ 学習指導案は、知的財産としていつでも取り出せるようにする
私は、研究授業を終えた指導案には朱書きを残しておくべきだという考えです。
予定していた説明が長くなり、生徒が話す時間が減ったのであれば、その場面に書き込みます。教師が問いを出す前に、生徒から新しい疑問が生まれたのであれば、それも残します。活動の途中で会話が止まったのであれば、何が原因だったのかを考え、次に必要な支援を書き加えます。「時間が足りなかった」「生徒が積極的ではなかった」という感想だけでは、次に何を変えればよいかが分かりません。
どの場面で、どのような生徒の姿があったのか。教師は何をしたのか。その結果、何が起きたのか。もう一度同じ授業をするなら、どこを変えるのか。そこまで書いておけば、次に同じ単元を担当する教師も、その記録を手がかりに授業を考えられます。
研究授業が終わった日に、指導案の役目も終わってしまう。それでは、何度も検討し、書き直してきた努力がもったいないです。
授業前の指導案は、教師が立てた仮説です。授業(検証)後に入れる朱書きは、その仮説が実際の生徒の姿とどう違っていたかを残す記録(知的財産)です。
公開授業を終えたからこそ、次に直すべきところが見えてくるのです。
◆研究授業後に指導案に入れた書き込み





◆ ページが真っ赤になるまで、何を話し合ったのか
太山寺中学校の5人が、授業づくりの考え方を共有するうえで、大きな役割を果たしたのが教科部会でした。
5人は、書籍や資料を輪読し、ページが真っ赤になるまで朱書きを入れ、自分の授業と照らし合わせてきました。
ただ、同じ本を読み、同じ説明を聞いたからといって、同じように理解できるわけではありません。
ある教師は、基本文の練習を暗記で終えてしまうかもしれません。別の教師は、思考ツールを取り入れても、情報を書き込ませることが目的になってしまうかもしれません。読んでいるときには「なるほど」と思っていても、実際に授業で使ってみると、思うようにいかないことがあります。
マッピングにはたくさん書けたのに、いざ話すときには使えない。ペアチャットを取り入れたのに、用意した質問が終わると会話が止まってしまう。そのとき、「この方法は自分の生徒には合わない」と片づけてしまうのか。それとも、なぜうまくいかなかったのかを考えるのか。
そもそも、その活動で何を身につけさせようとしていたのか。手順のどこを見落としていたのか。生徒の実態に合わせて、何を調整する必要があったのか。
5人は、資料を読んで終わりにはしませんでした。授業で試し、うまくいかなかったことや疑問に感じたことを持ち寄り、もう一度資料に戻る。そのような検討を続けてきました。
第2回で、田口先生が最初自分の授業を否定されたように受け止めた時期があったことを紹介しました。新しい方法を紹介されても、これまで自分が大切にしてきた授業とどうつながるのかが見えなければ、すぐには納得できません。しかし、田口先生は生徒の成長に驚き、そこから教科部会の仲間と本気で向き合い、生徒の姿を見ながら、従来やってきた授業を見直しました。
教科部会での検討には、もう一つ重要な意味があります。
自分では十分にやっているつもりだったことが、仲間の実践を見ることで、実は途中の段階で終わっていたと気づくことです。
例えば、マッピングの使い方です。ある教師は、マッピングで考えを整理し、それをもとに話す活動で終えていました。一方、別の教師は、話した後にマッピングを見直し、最後は書く活動へとつなげていました。同じ思考ツールを使っていても、そこで終わるのか、次の活動につなげるのかによって、生徒が経験する学びは変わります。
これは「書く活動も加えればよい」という話ではありません。話してみて、相手に伝わらなかったことを、書くことで補えないか。相手から受けた質問を、英文を見直す手がかりにできないか。さらに、書いて整理したことを、もう一度話す活動に戻せないか。
こうしたことを考え始めると、授業は活動を次々に並べるものではなくなります。一つの活動で生まれた気づきや課題を、次の活動にどう生かすか(つながるか)という設計に変わっていきます。
一人で授業を考えていると、自分のやり方が当たり前になり、ほかの可能性が見えにくくなることがあります。しかし、仲間の授業を見れば、「そこまでやるのか」「その活動には、そんな使い方もあったのか」と気づくことがあります。
仲間の工夫をそのまま取り入れればよいわけではありません。自分の学級の生徒にも必要なのか。取り入れるなら、どこを変えるべきなのか。最後は担当する教師自身が判断しなければなりません。
5人の取り組みを見ていると、それぞれが変えたところは同じではありません。田口先生は、思考ツールへの抵抗感を乗り越え、授業の組み立て方を見直しました。井田先生は、自己調整も可視化できないかと考え、黒・赤・青の3色を使う工夫を生み出しました。花田先生は、授業の終わりに目指す姿から逆算し、学習活動のつながりを練り直していきました。後藤田先生と瀧口先生も、同じ単元を扱いながら、それぞれの学級の実態に応じた指導案を作成しました。
5人が互いの実践を見せ合い、意見を交わしてきたのは、自分では気づけなかった問題に気づき、自分の授業を変えるためだったのです。
ここで、私たち自身にも問いかけたいことがあります。
生徒には「友だちの考えを聞いて、自分の考えを見直そう」と言いながら、教師自身は、これまでのやり方を変えようとしていないことはないでしょうか。
研修で紹介された方法を知っていることと、それを使って生徒に力をつけられることは違います。
教科部会で必要なのは、「なぜ、この方法なのか」「うまくいかなかったのは、なぜか」「この学級では、何を変えるべきか」と、互いに問い合える関係ではないでしょうか。
◆ 英語科だけでは終わらなかった
太山寺中学校の取り組みには、もう一つ紹介しておきたい場面があります。
3年生が My Happiness について考えていたとき、同じ学年の数学の先生も、ご自身の授業で幸せについて話されました。
T: My happiness is eating with my wife.
すると、生徒たちはすかさず質問しました。
S1 : What is your favorite food?
T : Oh, my favorite food is Gyoza.
S2 : Really? Which restaurant is good?
S3 : Which restaurant do you recommend?
英語を使う相手が、英語科の教師やALTだけではなくなっていたのです。
ここで注目したいのは、数学の先生が英語を話されたことではありません。生徒たちが、その言葉を受けて、自分たちから質問を始めたことです。
学年集会では、体育の先生がご自身の幸せについて語る場面もありました。学年の教師たちが、英語科で何をしているかを知っており、応援したのです。英語科の5人だけが取り組んでいたわけではありません。管理職も研究を支え、他教科の先生方も、それぞれの立場から協力してくれていたのです。
こうした場面があったからといって、英語を使う文化が学校全体に定着したとまでは言えません。しかし、英語科の授業で取り組んでいたことが、別の教科の教師とのやり取りにもつながっていたことは間違いありません。
◆ 「私の授業」から「私たちの生徒」へ
一人の教師の授業が変わることには、大きな価値があります。
しかし、その教師が担当する生徒しか、その学びを経験できないのであれば、学校としては課題が残ります。
4月に担当が替わった途端、それまで積み重ねてきた学び方が途切れてしまう。「去年まではできていたのに」「隣のクラスではやっているのに」。生徒に、そんな戸惑いを感じさせてしまうことはないでしょうか。教師にとっては新しい学級との出会いでも、生徒にとっては、それまでの学びの続きです。
実は、私はこのことを、砺波市立出町中学校に異動したときに強く感じました。学校行事でも、生徒会活動でも、地域行事でも、生徒たちが教師の指示を待たず、自分たちで考え、判断して動いていたのです。その姿に衝撃を受けました。しかも、生徒たちは特別なことをしているつもりがありません。それが当たり前になっていたのです。私は、生徒たちから多くのことを学ばせてもらいました。
この生徒たちは誰が育てたのでしょうか。もちろん、赴任したばかりの私ではありません。それまで出町中学校で指導に当たってこられた先生方です。先達が「生徒を育てたい」という信念と矜持を持ち、学校全体で積み重ねてこられたことが、生徒たちの姿に結実していたのです。
新しく赴任した教師が、既に育っている生徒たちから学ぶ。担当が替わっても、生徒の学びが途切れないとは、こういうことではないでしょうか。
太山寺中学校の英語科も、その土台をつくり始めています。
基本文を使えるようにする。相手の答えを聞いて、次の質問を考える。自分の考えを整理し、仲間との対話を通して見直す。そうした学び方が学年や学級を越えて積み重ねられていれば、担当する教師が替わっても、生徒は身につけた力を使って学び続けられます。
次に担当する教師が、前任者とまったく同じ授業をする必要はありません。大切なのは、生徒がそれまでに何を学び、何ができるようになっているのかを知ることです。そして、その力を次の学習でどう生かすかを考えることです。
そのためには、指導案や教材だけでなく、実際に授業をして分かったこと、うまくいかなかったこと、次に改善したいことも残しておく必要があります。一人の教師が得た経験を、その教師だけのものにしない。担当が替わっても、次の教師がそこから授業を考えられるようにする。
太山寺中学校の5人が、互いの実践を見せ合い、指導案を検討し、何度も書き直してきたことには、そうした意味もあります。5人が共有したのは、同じ授業の進め方ではありません。3年間を通して、どのような力を生徒に身につけさせたいかということです。
「私の授業」をよくするだけで終わらせない。「私たちの生徒」を、3年間かけてどう育てるか。
そのためにこそ、教科部会があります。
2年間の取り組みについて、瀧口先生が英語科の実践を振り返っておられます。授業を変える中でどのような変化が見られたのでしょうか。
https://nakayoh.jp/wp-content/uploads/2026/10/生徒が変わり、授業が変わった.pdf
さて、いよいよ次回はエピローグ(終章)です。あの生徒たちの姿を目にした私たちは、これからどうすればよいのでしょうか。
次回・最終回 第6回「あの生徒たちの姿を見て、元の授業に戻れますか」
