第1回 優れた料理人は、毎日包丁を研ぐ
◆「昨日切れた」は、今日も切れるという理由にはならない
まだ客のいない厨房に、砥石を擦る音がします。
料理人は包丁を取り出すと、すぐに仕込みには入りません。
まず刃先を確かめます。
光にかざし、わずかな曇りを見る。
指先でそっと触れ、小さな引っかかりを探す。
それから水を含ませた砥石の上に刃を置き、静かに滑らせていきます。
決して急がないし、力まかせに包丁を砥石に押しつけることもしません。
角度を決め、刃先の感触を確かめながら、同じところを何度も往復します。
厨房の一日は、料理をつくる音ではなく、この小さな音から始まります。
もちろん、本格的な研ぎは営業後や休日に行います。
それでも営業前に包丁を手に取り、刃の状態を確かめる時間は省きません。
昨日も使った包丁、
昨日も、よく切れた。
それなのに、なぜまた今日も確かめるのでしょうか。
◆ 刃は、音もなく変わっていく
包丁は、ある朝突然切れなくなるのではありません。
朝から何本もの大根を切り、魚をさばき、肉の筋を取る。
そうして一日の仕事を終えた包丁は、見た目には
朝とほとんど変わりません。
それでも、刃先には、その日の仕事が少しずつ残っています。
昨日と今日では、ほとんど違わない。
ところが、その「ほとんど」は積み重なっていく。
やがて、トマトの薄皮に刃がすっと入らなくなる。
魚の身を引いたとき、断面がわずかに荒れる。
以前なら包丁の重みだけで切れたものに、
ほんの少し力を加えるようになる。
怖いのは、その変化があまりに小さいために
気づけないことです。
切れなくなったのなら、誰でも研ぎます。
料理人が確かめているのは、
「切れるか、切れないか」ではありません。
◆ 忙しい朝に、何を削るか
予約の多い朝があります。
仕込みは山ほど残っている。
届いた食材を確認しなければならない。
鍋には火が入り、厨房の時計も気になります。
そんな朝なら、包丁を研ぐ数分くらい飛ばしてもよさそうに思えます。
今日一日くらいなら、このままでも切れる。
そう考えれば、目の前の仕事を先に片づけた方が
合理的に見えるでしょう。
ところが、腕のある料理人ほど、その数分を削りません。
包丁は「料理人の命」だから、ではありません。
切れ味の鈍った包丁を使えば、料理人は無意識に力を足します。
力を足せば、食材の断面が潰れる。
断面が変われば、火の入り方にも影響する。
最後に皿へ盛られたときには、朝のほんの小さな妥協が、
料理の表情となって現れます。
客には、砥石の音など聞こえません。
包丁を何分研いだのかも分かりません。
それでも、客が口にする一皿の中には、営業前の数分が
残っています。
見えないところで何を省かなかったか。
料理人の仕事は、案外、そういうところに現れるのかも
しれません。
◆ 慣れた包丁ほど、怖いものはない
長く使ってきた包丁は、手になじみます。
握った瞬間に重さが分かり、
どの角度から刃を入れればよいかを
頭で考える必要もなくなります。
包丁が手の一部になったように動く。
それは、料理人が長い時間をかけて身につけた技術です。
ところが、そこには落とし穴もあります。
慣れた道具ほど、疑わなくなるからです。
少し切れ味が落ちても、手が補ってしまう。
以前より刃が入りにくければ、知らないうちに力を加える。
それでも食材は切れるので、「まだ大丈夫」と思ってしまいます。
つまり、包丁の変化より先に、人間の方がその変化に慣れてしまうのです。
怖いのは、切れ味が落ちることだけではありません。
少しずつ変わっているのに、それを「いつもと同じ」と感じるようになることです。
包丁の変化より先に、使う側の感覚が、その変化に慣れてしまう。
だから料理人は、まだ切れるうちに刃先を確かめるのです。
◆ 料理人は、何を確かめているのか
砥石の上を、包丁が静かに往復しています。
シャッ、シャッ、という音を聞きながら、料理人はときどき刃先を見ます。
角度をわずかに直し、力が入り過ぎていれば抜く。
昨日と感触が違えば、そこで一度、手を止めます。
毎日使っている包丁です。
握り方も、刃を入れる角度も、身体が覚えています。
それでも、「いつも通り」をそのまま信用しません。
研ぎ終えた包丁を布で拭き、料理人は仕込みに入ります。
まな板に大根を置き、刃を入れます。
刃はすっと落ちます。
料理人は何も言いません。
その切り口を一瞬見て、次の一切れに包丁を入れます。
客がやって来るのは、まだ先です。
今朝、料理人が包丁を研いでいたことなど、誰も知りません。
それでも、その数分は消えずに残り、やがて一皿になって客の前に置かれます。
では、もし料理人が、その数分を省いたらどうなるのでしょう。
包丁は、すぐに切れなくなるわけではありません。
まだ切れます。
ただ、いつもより、ほんの少しだけ力が要るようになります。
次回は、その「ほんの少しの力」から始めます。
