🍀 料理人は、何をどう「準備」しているのか(1/5)

第1回 優れた料理人は、毎日包丁を研ぐ

◆「昨日切れた」は、今日も切れるという理由にはならない

まだ客のいない厨房に、砥石を擦る音がします。

料理人は包丁を取り出すと、すぐに仕込みには入りません。

まず刃先を確かめます。

光にかざし、わずかな曇りを見る。

指先でそっと触れ、小さな引っかかりを探す。

それから水を含ませた砥石の上に刃を置き、静かに滑らせていきます。

決して急がないし、力まかせに包丁を砥石に押しつけることもしません。

角度を決め、刃先の感触を確かめながら、同じところを何度も往復します。

厨房の一日は、料理をつくる音ではなく、この小さな音から始まります。

もちろん、本格的な研ぎは営業後や休日に行います。

それでも営業前に包丁を手に取り、刃の状態を確かめる時間は省きません。

昨日も使った包丁、

昨日も、よく切れた。

それなのに、なぜまた今日も確かめるのでしょうか。

◆ 刃は、音もなく変わっていく

包丁は、ある朝突然切れなくなるのではありません。

朝から何本もの大根を切り、魚をさばき、肉の筋を取る。

そうして一日の仕事を終えた包丁は、見た目には

朝とほとんど変わりません。

それでも、刃先には、その日の仕事が少しずつ残っています。

昨日と今日では、ほとんど違わない。

ところが、その「ほとんど」は積み重なっていく。

やがて、トマトの薄皮に刃がすっと入らなくなる。

魚の身を引いたとき、断面がわずかに荒れる。

以前なら包丁の重みだけで切れたものに、

ほんの少し力を加えるようになる。

怖いのは、その変化があまりに小さいために

気づけないことです。

切れなくなったのなら、誰でも研ぎます。

料理人が確かめているのは、

「切れるか、切れないか」ではありません。

◆ 忙しい朝に、何を削るか

予約の多い朝があります。

仕込みは山ほど残っている。

届いた食材を確認しなければならない。

鍋には火が入り、厨房の時計も気になります。

そんな朝なら、包丁を研ぐ数分くらい飛ばしてもよさそうに思えます。

今日一日くらいなら、このままでも切れる。

そう考えれば、目の前の仕事を先に片づけた方が

合理的に見えるでしょう。

ところが、腕のある料理人ほど、その数分を削りません。

包丁は「料理人の命」だから、ではありません。

切れ味の鈍った包丁を使えば、料理人は無意識に力を足します。

力を足せば、食材の断面が潰れる。

断面が変われば、火の入り方にも影響する。

最後に皿へ盛られたときには、朝のほんの小さな妥協が、

料理の表情となって現れます。

客には、砥石の音など聞こえません。

包丁を何分研いだのかも分かりません。

それでも、客が口にする一皿の中には、営業前の数分が

残っています。

見えないところで何を省かなかったか。

料理人の仕事は、案外、そういうところに現れるのかも

しれません。

◆ 慣れた包丁ほど、怖いものはない

長く使ってきた包丁は、手になじみます。

握った瞬間に重さが分かり、

どの角度から刃を入れればよいかを

頭で考える必要もなくなります。

包丁が手の一部になったように動く。

それは、料理人が長い時間をかけて身につけた技術です。

ところが、そこには落とし穴もあります。

慣れた道具ほど、疑わなくなるからです。

少し切れ味が落ちても、手が補ってしまう。

以前より刃が入りにくければ、知らないうちに力を加える。

それでも食材は切れるので、「まだ大丈夫」と思ってしまいます。

つまり、包丁の変化より先に、人間の方がその変化に慣れてしまうのです。

怖いのは、切れ味が落ちることだけではありません。

少しずつ変わっているのに、それを「いつもと同じ」と感じるようになることです。

包丁の変化より先に、使う側の感覚が、その変化に慣れてしまう。

だから料理人は、まだ切れるうちに刃先を確かめるのです。

◆ 料理人は、何を確かめているのか

砥石の上を、包丁が静かに往復しています。

シャッ、シャッ、という音を聞きながら、料理人はときどき刃先を見ます。

角度をわずかに直し、力が入り過ぎていれば抜く。

昨日と感触が違えば、そこで一度、手を止めます。

毎日使っている包丁です。

握り方も、刃を入れる角度も、身体が覚えています。

それでも、「いつも通り」をそのまま信用しません。

研ぎ終えた包丁を布で拭き、料理人は仕込みに入ります。

まな板に大根を置き、刃を入れます。

刃はすっと落ちます。

料理人は何も言いません。

その切り口を一瞬見て、次の一切れに包丁を入れます。

客がやって来るのは、まだ先です。

今朝、料理人が包丁を研いでいたことなど、誰も知りません。

それでも、その数分は消えずに残り、やがて一皿になって客の前に置かれます。

では、もし料理人が、その数分を省いたらどうなるのでしょう。

包丁は、すぐに切れなくなるわけではありません。

まだ切れます。

ただ、いつもより、ほんの少しだけ力が要るようになります。

次回は、その「ほんの少しの力」から始めます。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント