学習指導案から「活動名」を消してみると…?
学習指導案から、活動名をすべて消してみたら、何が残るでしょうか。
ペア・チャット、スピーチ、ディベート、思考ツール。こうした名前が書かれていれば、そこで何をするのかは、おおよそ想像できます。
ところが、その名前を消した途端、その時間に子どもが何を学ぶのかが見えにくくなるとしたら、少し不安になります。活動の名前は分かっていても、その中で子どもに何が起きることを期待しているのかまでは、十分に考えられていない可能性があるからです。
では、もう一つ消してみましょう。
「ペアで」「グループで」「発表する」「話し合う」といった、子どもの動きを表す言葉です。それでもなお、その授業で子どもの何を育てようとしているのかを説明できるでしょうか。
もし説明できないとすれば、「何をするか」を決めることで、授業を設計したつもりになっていたのかもしれません。
同じ活動をしていても、同じことは起きていない
同じペア・チャットをしていても、そこで子どもが経験していることは同じではありません。
覚えた表現をそのまま使って終わった子どもがいます。一方で、相手から予想していなかったことを言われ、どう返せばよいか言葉を探した子どももいます。うまく伝わらなかったため、知っている表現で言い直した子どももいるでしょう。相手の話を聞くうちに、最初に用意していた内容そのものを変えることもあります。
教師から見れば、どの子どもも同じ「ペア・チャット」をしています。しかし、そこで経験していることは違います。
活動名から分かるのは、子どもが何をしているかです。その活動の中で、子どもがどこで立ち止まり、なぜ言い方や考えを変えたのかまでは見えてきません。
ここを見落とすと、「この活動を取り入れた」という事実そのものが授業の成果になってしまいます。学びを生み出すために用意したはずの活動を、予定どおりに終わらせることが教師の仕事にすり替わってしまうのです。
見たいのは、「最後の姿」だけではない
では、活動の最後に「できたか、できなかったか」を確認すればよいのでしょうか。
実は、それだけでも、まだ見えないものがあります。
同じ「できた」という姿に見えても、最初からできていた子どもと、途中で何度も試しながらできるようになった子どもとでは、その時間に経験したことが違うからです。
教師が見たいのは、活動の「前」と「後」の間に何が起きたのかということです。
例えば、最初は用意した英文をそのまま読んでいた子どもが、相手の反応を見て言葉を足したとします。最後の発表だけを見れば、「英語で伝えることができた」で終わるかもしれません。
しかし、その途中には、「これでは伝わらない」と立ち止まった瞬間があります。別の言い方を試し、それでもうまくいかず、相手の反応を見ながらもう一度変える。その試行錯誤を経て、最後の姿があります。
ここまで見て初めて、その子どもがその時間に何を学んだのかが見えてきます。
これは、「できた・できなかった」という二つの枠に子どもを分けることとは違います。
最後まで十分にできなかった子どもであっても、最初とは違う方法を試したかもしれません。友だちの言い方を手掛かりに、自分の表現を変えたかもしれません。逆に、最初からできていたように見える子どもが、50分間ほとんど同じことを繰り返していた可能性もあります。
ですから、教師が捉えたいのは「できた」という結果だけではなく、そこへ向かう途中で何が変わったのかです。
その変化が見えれば、次の授業で何を教える必要があるのか、どんな経験をもう一度用意した方がよいのかも見えてくるようになります。
指導案に残したいもの
学習指導案には、教師が行うことや子どもの活動が書かれています。そのため、授業後に見返せば、「何をしたか」は確認できます。
では、そこから「子どもにどんな経験をさせ、その経験によって何が変わることを期待していたのか」まで読み取ることができるでしょうか。
「ペアで意見交換をする」と書くだけなら、分かるのは活動の形だけです。
しかし、そこで、自分とは違う考えに出会わせたいのであれば、教師は相手の組み合わせを考えるでしょう。相手の反応を受けて自分の表現を選び直させたいのであれば、一度話して終わる活動にはしないはずです。うまく伝わらなかった経験を次の試みに生かしてほしいのであれば、途中で考え直す時間も必要になります。
つまり、「何を経験させたいのか」が変われば、同じペア活動でも授業のつくり方自体が変わってきます。
問題なのは、活動が書かれていることではありません。活動を書いたことで、授業を設計したと思い込んでしまうことです。
活動名を消したあとに、何が残るか
学習指導案から活動名がなくなっても、子どもにどんな経験をさせたいのかが見えるでしょうか。
思うようにいかず、立ち止まることがあります。そこで別の方法を試してみる。相手の反応によって、最初に考えていたことを変えることもあります。
そうした過程の先に、「この時間を通して、ここが変わってほしい」という子どもの姿が見えているのであれば、その活動をそこに置いた理由は残ります。
反対に、活動名を消した途端、授業そのものが見えなくなるとしたら、活動を選ぶ前に、まだ考えておくことがありそうです。
授業を考えるとき、どうしても「何をするか」から入りたくなります。活動には名前があり、形があり、50分の中に置きやすいからです。
しかし、子どもの学びは、活動名の中にはありません。
思うようにいかずに立ち止まったとき、子どもは何を考えたのか。そこから、なぜ別の方法を試そうとしたのか。そうした過程まで含めて授業を見ると、教師の仕事の見え方が変わってきます。
私たちが設計しているのは、果たして「活動」なのでしょうか。
それとも、その活動の中で子どもが経験する、まだ目には見えない何かなのでしょうか。
次回は、そのもう一つ奥にあるものを考えます。「何をさせるか」ではなく、子どもがその50分で「何を経験するのか」から授業を見直してみます。
