🍀 料理人は、何をどう「準備」しているのか(2/5)

第2回 切れない包丁ほど、力がいる ― 力を入れるたびに、料理は少しずつ壊れていく ―

◆ 最初に潰れるのは、トマトだった

前回、料理人は毎朝、包丁を研ぐという話をしました。

場面は、朝の厨房です。

真っ赤なトマトがまな板の上に置かれています。

料理人が包丁をそっと当てます。

いつもなら、刃が皮に触れたあと、そのまま中へ入っていきます。

ところが、その朝は違いました。

刃先が皮の上を滑り、止まりました。

もう一度、包丁を引きます。

それでも入っていきません。

そこで、少しだけ力を加えました。

刃はまだ動きません。

さらに力をかけた、その瞬間、トマトが潰れました。

透明な果汁がまな板の上へ広がり、そのあとで、ようやく刃が中へ入りました。

切れたようにも見えます。

しかし、料理人はしばらく考え込みました。

切れたのではなく、押し潰したことがわかっていたからです。

◆ 料理人は、トマトを責めない

こんなとき、料理人は「今日は皮が固かった」とは考えません。まして、もっと強く押せばよかったなどとは思いません。

いったん包丁を置き、刃先を確かめます。

光にかざし、指の腹でそっと刃の状態を見ます。

そして、砥石の方へ向かいます。

まず見るのは、手にしていた包丁です。

うまくいかないと、人はつい自分の動きを増やそうとします。

速く動かしたり、強く押したり、回数を増やしたりします。

ところが料理人は、その逆をします。

力を加える前に、いったん手を止めます。

なぜ、いつものように切れなかったのか。

その原因を、自分の力の不足ではなく、まず包丁の状態から見直します。

◆ 切れ味は、音にも出る

厨房で料理人を見ていると、

包丁の切れ味を目だけで確かめているのではない

ことがわかります。

よく研がれた包丁が野菜に入るとき、

聞こえる音は小さなものです。

「スッ」と刃が通り抜ける音だけが残ります。

ところが、切れ味が落ちてくると、その音が少しずつ変わっていきます。

「グッ」「ギュッ」と、刃の音ではなく、

押している音が混じり始めます。

料理人は、その違いを聞いています。

トマトが潰れてからでは遅い。

大根の断面が荒れてからでも遅い。

包丁が「切る道具」から「押す道具」へ変わり始める、そのわずかな変化を耳で拾っています。

見た目には、同じように包丁を動かしているだけです。

しかし、厨房では、大きな失敗になる前に、

小さな音が何かを知らせています。

◆ 「包丁が疲れているぞ」

若い料理人が、大根を切っていました。

なかなか思うように刃が入りません。

最初は少し速く動かしました。

それでも切れないので、今度は上から押す力を強くしました。

額に汗がにじみ、手元の動きも次第に大きくなっていきます。

その様子を、親方が少し離れたところから見ていました。

しばらくすると、近づいてきて、「貸してごらん」と言いました。

包丁を受け取り、刃先を一度見ます。

そして、少し笑って、「包丁が疲れているぞ」とだけ言いました。

若い料理人は、もっと練習しろと叱られたわけではありません。

力を抜けと注意されたわけでもありません。

親方は包丁を研ぎ、それを戻しました。

若い料理人が同じ大根に刃を当てると、

さっきまで押しても入らなかった包丁が、

今度はほとんど音も立てずに中へ入っていきました。

手に入れた新しい技術はありません。

切り方を教わったわけでもありません。

それでも、目の前の大根はまったく違う切れ方をしました。

若い料理人は、ハッとして包丁を見ました。

親方は何も言いませんでした。

◆ 力を入れれば、前には進むが・・・

料理に力が要らないわけではありません。

魚をさばくときにも、大きな南瓜を割るときにも、

力が必要になる場面はあります。

切れない包丁に力を加えれば、前には進みます。

トマトに刃は入ります。

大根も、最後には切れます。

だから、気づきにくいのです。

問題は、切れなかったことではありません。

切れないものを、力で切ろうとしたことです。

トマトは潰れ、大根の断面は荒れます。

それでも「切れた」という結果だけを見れば、

仕事は終わったように見えます。

料理人が見ているのは、そこではありません。

食材がどのような状態で切れたのか。

自分はどれだけ余計な力を使っていたのか。

大切な食材を、駄目にしていなかったか。

包丁を研ぐ意味は、単に楽に切るためだけではないのでしょう。

余計な力を使わずに済む状態を、料理が始まる前につくっておく。

それもまた、料理人の「準備」なのです。

◆ 忙しい朝ほど、手元は静かになる

注文が入ると、厨房の空気は一気に変わります。

鍋から湯気が上がり、皿が並び、声が飛び交います。

ところが、熟練した料理人の手元を見ていると、

不思議なほど静かです。

急いでいるはずなのに、慌てているようには見えません。

包丁を振り回すこともなく、必要以上に押しつけることもありません。

刃が食材に入る速さに、自分の手を合わせています。

よく切れる包丁を使っていると、料理人は食材を見ることができます。

トマトなら、どのくらい熟しているか。

魚なら、身がどの方向に走っているか。

大根なら、繊維がどちらへ向いているか。

ところが、包丁が切れなくなると、

視線はいつの間にか食材から自分の手元へ戻ってきます。

早く切らなければならない。

どうすれば切れるか。

どこに力を入れればいいか。

その瞬間、料理人は食材を見る余裕を少しずつ失っていきます。

切れない包丁が奪うのは、切れ味だけではありません。

◆ 包丁に残るもの

一日の仕事が終わると、

使い終えた包丁が洗われ、布巾の上に置かれます。

朝、トマトを潰したあの包丁も、今は静かに横たわっています。

料理人は刃についた水分を拭きながら、

その日の仕事を思い返すように刃先を見ます。

どこで刃が止まったのか。

どこで余計な力が入ったのか。

どんな音に変わったのか。

包丁には、一日の仕事の跡が残っています。

だから、次の朝もまた、料理人は刃先を見るのでしょう。

昨日切れたかどうかではありません。

今日、どんな状態で仕事を始めるのか。

料理人にとっての準備は、

料理を始める直前に何かをそろえることだけではないようです。

そして、厨房には、もう一つ、

客の目にはほとんど見えない準備があります。

料理は、火を入れてから始まるように見えます。

しかし、本当はその前に、かなりのことが決まっています。

次回は、その「火を入れる前」の厨房を見ていきます。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント