🍀 子どもはちゃんと見ている

授業には、教師の「生き方」が表れる

教師の考え方も、相手への接し方も、日頃の習慣も、授業と切り離すことはできません。

ある先生は、メールの返事が早い。ある先生は、何日たっても返事がありません。

「忙しかったから」「あとでまとめて返そうと思ったから」。理由はいろいろあるでしょう。もちろん、返信の早さだけで、その人の仕事ぶりを判断することはできません。

ただ、少し気になることがあります。

「あとで」という判断の中に、自分では気づいていない「自分の都合」が入り込んでいることはないでしょうか。

メールも、提出物も、人から頼まれたことも。そして、授業もー

◆ ホスピタリティは教室にも表れる

「時間ができたら返そう」「内容をまとめてから送ろう」「どうせ送るなら、一回で済ませよう」。

その気持ちは分かります。ただ、相手が待っているのは、完璧な返事なのでしょうか。

「メールを拝見しました。ありがとうございます。詳しいコメントは、後ほど送らせていただきます。」

まず、その一言を返す。それだけで、相手は安心します。返信を待つ時間は、「届いているだろうか」「どう受け止められただろうか」と考える時間でもあるからです。

昔は、まず電話やハガキで「受け取りました」と伝え、その後に詳しい返事を届けることがありました。そこにあったのは、単なる作法ではなく、相手を待たせない、相手を不安にさせないという心配りだったのだと思います。

効率とは、自分の仕事を減らすことだけではありません。相手の時間を大切にすることでもあります。

これは、メールの返し方だけの話ではありません。

自分にとって、どうするのが都合がよいか。それとも、相手はいま何を必要としているのか。

その違いは、教室にも表れます。

◆ 「一回やった」は、誰の事実なのか

ペアで一度活動をしたら、「はい、次」。

そんな授業になってはいないでしょうか。

一回目の子どもは、やり方を理解するだけで精一杯かもしれません。「こうすればいいのか」「なるほど、そうやるのか」。ようやく活動の意味が分かったところで、教師の「はい、次」が聞こえてきます。

ところが、相手を替えてもう一度やってみると、様子が変わります。一回目の経験があるから、今度は話し方を工夫できます。質問を変えることもできます。相手の話を聞く余裕も生まれます。

そして、「さっきより、うまく話したい」と思い始めます。

一回目は、活動を「終えた」だけなのかもしれません。二回目になって初めて、子どもは一回目の自分を材料にして、「今度はこうしよう」と考え始めるのです。

だとすれば、「一回やったから、もう次へ進んでいい」という判断は、誰の側から見たものでしょう。

「一回やった」は、教師側の事実です。

「できるようになった」は、子ども側の事実です。

この二つは、同じではありません。

授業を効率よく進めることは大切です。ただ、その「効率」が、教師にとって予定どおり進むことを意味してしまった瞬間、目の前の子どもが置き去りになります。

◆ 「あとで」がつくるもの

「あとで」という言葉そのものが悪いわけではありません。じっくり考えてから返した方がよいこともあれば、時間を置いた方がよいこともあります。

問題は、その判断を誰の側からしているかです。

自分はいま忙しいから。予定どおり進めたいから。ここに時間をかけると、教科書が終わらないから。

それがいつの間にか判断の基準になれば、教師の時間と子どもの時間は、少しずつずれていきます。

教師は「ここまで教えた」と考えている。子どもは、まだ「分かりかけた」ところにいる。

教師は「一回やった」と考えている。子どもは、ようやく「次はこうしたい」と思い始めている。

その小さなずれが積み重なると、「これくらいでいい」という教師の判断が、やがて教室の当たり前になっていきます。

子どもたちは、教師が思っている以上に、その当たり前をよく見ています。

◆ 授業は、教師の考え方を映す鏡

最近、セミナーや研修会で話をしていると、考えさせられることがあります。

子どもの技能が少しずつ高まっていく授業の映像を見ていただきながら、教科書の内容を教え込む授業から、子どもが自ら学び、力をつけていく授業へどう変えていけばよいのか。具体的な事例を交えてお話しすることがあります。

研修が終わったあと、

「できていないことばかりでした。ちょっとショックでしたが、やり直そうと思いました」

そう声を掛けてくださる先生がおられます。

一方で、途中から表情が曇り、その後の活動にあまり参加されなくなる方もおられます。研修が終わると、何も言わずに帰っていかれます。

なぜなのかは、分かりません。

「自分のやり方を否定された」と感じられたのかもしれません。あるいは、まったく別の理由があったのかもしれません。

その姿だけを見て、「この人は学ぼうとしていない」と決めつけてしまったら、私自身もまた、目の前の事実ではなく、自分がつくった解釈を見ていることになります。

だからこそ、研修が終わったあと、私はいただいた評価やコメントをよく読むようにしています。

とりわけ気になるのは、「満足できなかった」「よく分からなかった」という声です。たとえ、それが少数であってもです。

なぜ、届かなかったのだろう。
どこで、置いていってしまったのだろう。
こちらが「伝えたつもり」になっていたことはなかっただろうか。

そこには、次の研修を変える材料があります。

学ぶとは、それまでの自分を否定することではないと思います。まして、これまで積み上げてきたものを、すべて捨てることでもありません。

これまでの経験を材料にしながら、目の前の子どもをよりよくするために、「今までの自分」を少しずつ更新していく。

教師に求められているのが、その姿勢であるならば、それを語る側だけが変わらなくてよいはずはありません。

教師に「更新」を求める研修で、いちばん更新されなければならないのは、もしかすると、前に立っている私自身なのかもしれません。

◆ 子どもは、教師が自分をどう扱ったかを覚えている

教育は、知識を教えるだけの仕事ではありません。

相手を大切にするとはどういうことかを、教師自身の行動で示す仕事でもあります。

子どもは、教師が何を教えたか以上に、教師が自分をどう扱ったかを覚えています。

自分の話を最後まで聞いてくれた。

困っていることに気づいてくれた。

一回できなかったからといって、置いていかなかった。

もう一度やる時間をくれた。

その積み重ねが、「自分は大切にされている」という感覚になり、やがて、その子が誰かを大切にするときの振る舞いになっていくのではないでしょうか。

ホスピタリティは、言葉で教えるものではありません。

メールをどう返すか。頼まれたことにどう応えるか。誰かが困っているときに、どう動くか。そして、目の前の子どもがまだ学びの途中にいるとき、教師がどう判断するか。

それらは別々のことのように見えて、根っこの部分はつながっています。

授業の中だけ、よい教師でいることはできません。

子どもの前に立ったときだけではなく、誰も見ていないところで何を大切にしているのか。

その人の「生き方」は、いつの間にか授業にも現れてくるのだと思います。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント