子どもへの期待と、教師の思い込みは違う
「この子なら、できるはず」
教師がそう期待することは、とても大切です。今はまだできなくても、この子ならきっとできるようになる。その可能性を信じるからこそ、教師は次の手立てを考えます。
一方で、次のような「はず」もあります。
「昨日教えたのだから、できるはずだ」
「前の学年で習ったのだから、できるはずだ」
同じ「できるはず」なのに、何かが違います。
「この子なら、できるはず」は期待。
「教えたのだから、できるはず」は思い込み。
問題なのは、「はず」という言葉そのものではありません。その「はず」が、何を根拠にしているかです。
◆ 「教えた」は、「できる」ではない
授業では、「あの文法は説明した」「あの単語は練習した」「あのページは終わった」という事実が積み上がっていきます。しかし、それは教師が何をしたかという記録であって、子どもが何をできるようになったかとは一致しません。
ところが、「教えた。ということは習っている。習ったのなら分かっているはず。だったらできるはず」と、いつの間にか一本の線でつないでしまうことがあります。
説明を聞いて分かったとしても、自分で使えるとは限りません。一度できたからといって、必要なときに使えるとも限りません。英語でいえば、基本文を習っていても、必要なときに口から出てこないことがあります。質問文を書けても、その場で相手に質問できないこともあります。英文を読んだ経験があっても、語順のまま意味を取れるとは限りません。
「やったこと」と「できること」は、同じではありません。
◆ 「はず」は、学年を越えていく
さらに、「はず」は一つの授業の中だけで完結しません。
「小学校で習ったはず」
「1年生でやったはず」
「前の学年で身に付けたはず」
こうして「はず」は、学年を越えて引き継がれていきます。前の教師は「次で扱うだろう」と考え、次の教師は「前で身に付いているだろう」と考える。その間で、分からないまま進んでいく子どもが生まれます。
そして積み残しが大きくなったときに、「基礎が身に付いていない」「学力差が大きい」と言われます。もちろん、忘れてしまうことや練習不足もあります。しかしその中に、確かめないまま引き継がれてきた「はず」はなかったでしょうか。
◆ 「分かるよね」の向こう側
「これは前にやったよね」
「覚えているよね」
「分かるよね」
こうした言葉は、案外、日常的に使われています。しかし、それが重なると、「分かりません」と言いにくくなる子もいます。「教えてもらったのだから、できないのは自分の問題なのではないか」「忘れてしまった自分が悪いのではないか」と感じる子もいるでしょう。
すると、分からなくてもうなずく。ノートを写す。隣を見て合わせる。ペア活動では、できる友達に合わせる。それでも授業は進んでいきます。
だから、教師には見えにくくなります。
授業が進んでいることと、子どもが学んでいることは同じではありません。 むしろ、「分かっているはず」と思うときほど、分かっていない子どもが見えにくくなるのかもしれません。
◆ 「はず」の主語は誰なのか
学校教育は積み上げです。前の学年の学習を前提にしなければ、授業は進みません。したがって、「習っているはず」と考えること自体が問題なのではありません。
大切なのは、「はず」が浮かんだときに、その根拠を問い直すことです。
「この子なら、できるはず」なのか。
「教えたのだから、できるはず」なのか。
似ているようで、出発点が違います。
「この子なら」の出発点には、目の前の子どもがいます。「教えたのだから」の出発点にあるのは、教師自身の過去です。
そして後者が強くなると、教師の頭の中に「できるはず」の子どもがつくられていきます。目の前にいる子どもではなく、「できているはず」という子ども像を相手に、授業を進めることになりかねません。
もし、「教えたはず」「練習したはず」「できるはず」という言葉が頭に浮かんだら、少しだけ立ち止まって、自分に問いかけてみてはどうでしょうか。
その「はず」が、目の前の子どもから生まれたものかどうか、を。
