差は、突然生まれない
「この子は伸びそうだ。」
そんな予感を持つことがあります。
では、
その予感は、
何を見て感じたのでしょうか。
それは、
ある一つの行動だけではありません。
毎時間の授業の中で、
ほんの数秒だけ現れる、
小さな姿を見続けていたからです。
小さな変化を見過ごしていないか
友だちが自分の考えを言い終わったとき、
A子は、
閉じかけていたノートを、
もう一度開きました。
そして、
消しゴムを使わずに、
自分の答えの下へ赤ペンで書き足します。
ほんの一語です。
次の時間も、
仲間の考えを聞いたあと、
書き足します。
その次の時間も―
友だちの考えを聞くたびに、
自分の考えを少しずつ書き換えています。
その姿を見て、
「真面目な子だな。」
そう思って終わっていなかったでしょうか。
私たちは、違う名前で呼んでいないか
場面は変わります。
ペア・チャットのときです。
相手が話し終わると、
“Why?”
とB男は返します。
返ってきた答えを受けて、
“Really?”
と聞き返します。
教師の指示は、
今日習った基本文を使うことでした。
しかし、
B男の次の一言は、
相手の返答で決まります。
その姿を見て、
それがどのような意味をもつのかに気づき、
クラス全体で価値づけたでしょうか。
それとも、
指示通り、基本文を使うように
元に戻してしまってはいなかったでしょうか。
子どもたちは、
仲間と、習った表現を使うために
やり取りをしているのではありません。
相手とのやり取りの中で、
自分の考えを少しずつ書き換えています。
能力差という言葉の便利さ
「あの子は理解が速い。」
「あの子は苦手だから。」
そう考えると、
全てを説明できたような気になります。
できない原因は、
いつも、子どもの側です。
それなら、今の授業を変える必要もありません。
でも、本当にそれでいいのでしょうか。
教師の仕事は
どの子からも「できた!」という声が
出てくるようにすることです。
相手の考えを受けて、
自分を書き換える経験を、
積み重ねていけるようにすることです。
「能力差」ではなく、
問題は「経験値の差」だと捉えている教師は、
見ているところが違います。
目の前の活動だけを見ているのではありません。
その先にあるゴールを見ています。
ですから、
子どもたちが良い「学び方」を習慣にできるように、その姿を意図的に取り上げます。
その姿を、クラス全体のモデルにしていきます。
「なぜ、その返し方がよかったのか。」
「なぜ、その一語を書き足したのか。」
その意味をクラス全体で共有します。
子どもたちは、
その姿を何度も見ながら、
少しずつ自分の「学び方」を更新していきます。
差は、その日に生まれたのではない
友だちの答えを聞いて、
一語を書き足す。
相手の一言で、
もう一つ質問を返す。
それは、特別なことではありません。
だから、
つい、私たちは安心してしまいます。
そのような姿を、
わざわざ取り上げなくても、
一回くらいでは、
何も変わらないと思ってしまうからです。
しかし、
その安心感(というか、先延ばしした指導)が、
学力差を生み出してしまったのです。
教師が見ていたもの
学力差は、
ある日突然生まれるものではありません。
テストの日に生まれるものでもありません。
教師が毎時間見ている
小さな姿の中で、
少しずつ育っています。
そうして結果となって表れ、
私たちは驚きます。
しかし、
その始まりは、
一番近くにいた私たちが、
何度も見ていたはずなのです。
そして、
それは、紛れもなく
学力差の「予兆」です。
