第3回 見ていないようで、見ている
長良川の夜は、見えないものの方が多い
前回、「待つとは何か」ということを書きました。
鵜は自分で流れに入り、自分で潜り、自分で魚を追います。
その姿を見ながら、私は「待つ」という言葉について考えていました。
長良川から帰ったあと、ずっとあることを考えていました。
「待つ」とは、何もしないことなのかということです。
それなら、誰にでもできるはずです。
鵜匠であれば、縄をゆるめておき、
鵜が戻ってくるのを待てばよいからです。
ところが、鵜匠はそうではありません。
むしろ、誰よりもよく見ていました。
かがみ込んで見るわけでもなく、
実に自然体だったので、気づけないだけなのかもしれません。
長良川の鵜飼は夜に行われます。
かがり火はありますが、
川全体が明るく照らされているわけではありません。
見えるものより、見えないものの方がはるかに多いのです。
暗くなると、人は目だけに頼らなくなります。
耳を澄ませ、水音に意識を向け、火の揺れを見つめます。
舟のわずかな動きでさえ察知できます。
昼間なら見過ごしてしまうような小さな変化に、
自然と感覚が反応していくのでしょう。
待つ人は、変化を見逃さない
鵜匠も同じでした。
鵜が潜る前のわずかな仕草ー
首の向きや
羽の動き。
水への入り方、
そして、川の流れの変化ー
それらを見ながら、今は行かせるのか、
まだ待った方がいいのかを判断していました。
いや、見ていたのではなく、
「感じ取っていた」と言った方が正しいのかもしれません。
見ているものだけを見ているわけではない
鵜匠は鵜だけでなく、
川を、風を、火の揺れを見ていました。
さらに、その変化によって鵜がどう動くかも見ていました。
見えているものを見ているのではありません。
流れの中で起きる小さな変化を、
見えているものの向こう側で起きている変化を見ていたのです。
だからこそ、慌てる必要などなかったのでしょう。
自分の目だけに頼らず、見えないものを感じ取る。
それこそが、鵜匠が何十年もかけて磨いてきた技だったのかもしれません。
あの夜、長良川には、
「見ることとはどういうことか」を考えさせる時間が流れていました。

