🍀 料理人は、何をどう「準備」しているのか(3/5)

第3回 料理は、火をつける前に決まる ― お客様が見ていない時間が料理をつくっている ―

◆ まだ、誰も座っていない

暖簾は、まだ掛かっていません。

店の灯りも半分しか点いておらず、客席には誰もいません。

営業が始まるまで、まだかなり時間があります。

厨房をのぞいても、鍋から湯気が上がっているわけではありません。

フライパンを振る音もしません。

前回まで見てきた包丁も、まな板の横に置かれたままです。

それなのに、料理人の一日は、もう始まっています。

いや、料理そのものが、すでに始まっていると言ったほうがよいのかもしれません。

◆ 市場には、レシピがない

朝、料理人は市場へ向かいます。

魚屋の前で足を止め、一尾の鯛を手に取りました。

魚体を少し傾け、目のあたりを見ています。

今度は腹のあたりに指を当てました。

店の人が声をかけます。

「今日は、こっちのほうがいいよ」

料理人は、隣に並んでいた鯛を手に取りました。

「昨日のより?」

「脂がのってるね」

それだけの会話です。

料理人はしばらく二尾を見比べ、後から手にしたほうを選びました。

その手にレシピはありません。

「鯛」と書いてあれば、どれを選んでも同じというわけではないからです。

昨日ここに並んでいた鯛と、今日目の前にある鯛も違います。

料理人が見ていたのは、今日、何を作る予定なのかだけではありません。

今日、この鯛なら、どう扱うのがいちばんよいか。

料理は、そこからすでに始まっています。

◆ すぐには切らない

店へ戻ると、買ってきた鯛を厨房に運びます。

料理人はすぐには切り始めませんでした。

魚の状態をもう一度確かめ、必要な処理だけをすると、いったん冷蔵庫へ入れました。

朝、市場まで出かけて選んできた魚です。

新鮮なうちに、すぐに包丁を入れたほうがよさそうに思えます。

ところが、料理人は待ちます。

その間に別の仕込みを始めました。

昆布を入れておいた水を確かめ、鍋に手を伸ばします。

火をつけても、すぐには強くしません。

鍋の中をのぞきながら、しばらくその場を離れませんでした。

時計を見ています。

やがて小さな泡が出始めると、料理人の手が動きました。

キッチンタイマーがなったからではありません。

鍋の中が、準備できたことを知らせたからです。

◆ 「あと十分」では決められない

料理には、時計で決められる時間があります。

何分煮るか、何分焼くか。

厨房には時計があり、料理人も何度もそこへ目をやります。

それでも、最後に判断するのは時計ではありません。

同じ五分でも、魚の厚さが違えば火の入り方は変わります。

鍋から立つ湯気、煮汁の動き、焼けてくる匂い。

料理人の目や耳は、時計と鍋の間を何度も往復しています。

急いでいるからといって、火を強くすればよいわけではありません。

早く仕上げたいからといって、待つ時間をなくすこともしません。

厨房には、人間の都合だけでは縮められない時間があります。

料理人は、そのことを知っています。

ですから、待ちます。

何もしないで待っているのではありません。

変わるのを見ながら、待っています。

◆ お客様が見るのは、最後の数分

やがて暖簾が掛かり、客が入ってきます。

注文が厨房へ届くと、それまで静かだった手元が一気に動き始めました。

包丁が入り、火が上がり、皿が並びます。

客席から見れば、料理が生まれるのはこの時間です。

一皿が運ばれてくるまでの十数分。

そこだけを見れば、料理人の仕事は、その十数分に詰まっているように見えます。

しかし、皿の上の鯛は、注文を受けてから突然そこに現れたわけではありません。

朝、市場で二尾を見比べた時間がありました。

店へ戻ってから、すぐには包丁を入れなかった時間がありました。

鍋の前で、小さな変化を待っていた時間もありました。

客には見えなかった時間が、皿の上に残っています。

暖簾が掛かり、客が席についた瞬間から、厨房では、それまでとは違う判断が始まります。

料理人は、いったい何を見ているのでしょうか。

次回は、厨房から視線を移して、客席を見てみたいと思います。

よかったらシェアしてください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント