第3回 料理は、火をつける前に決まる ― お客様が見ていない時間が料理をつくっている ―
◆ まだ、誰も座っていない
暖簾は、まだ掛かっていません。
店の灯りも半分しか点いておらず、客席には誰もいません。
営業が始まるまで、まだかなり時間があります。
厨房をのぞいても、鍋から湯気が上がっているわけではありません。
フライパンを振る音もしません。
前回まで見てきた包丁も、まな板の横に置かれたままです。
それなのに、料理人の一日は、もう始まっています。
いや、料理そのものが、すでに始まっていると言ったほうがよいのかもしれません。
◆ 市場には、レシピがない
朝、料理人は市場へ向かいます。
魚屋の前で足を止め、一尾の鯛を手に取りました。
魚体を少し傾け、目のあたりを見ています。
今度は腹のあたりに指を当てました。
店の人が声をかけます。
「今日は、こっちのほうがいいよ」
料理人は、隣に並んでいた鯛を手に取りました。
「昨日のより?」
「脂がのってるね」
それだけの会話です。
料理人はしばらく二尾を見比べ、後から手にしたほうを選びました。
その手にレシピはありません。
「鯛」と書いてあれば、どれを選んでも同じというわけではないからです。
昨日ここに並んでいた鯛と、今日目の前にある鯛も違います。
料理人が見ていたのは、今日、何を作る予定なのかだけではありません。
今日、この鯛なら、どう扱うのがいちばんよいか。
料理は、そこからすでに始まっています。
◆ すぐには切らない
店へ戻ると、買ってきた鯛を厨房に運びます。
料理人はすぐには切り始めませんでした。
魚の状態をもう一度確かめ、必要な処理だけをすると、いったん冷蔵庫へ入れました。
朝、市場まで出かけて選んできた魚です。
新鮮なうちに、すぐに包丁を入れたほうがよさそうに思えます。
ところが、料理人は待ちます。
その間に別の仕込みを始めました。
昆布を入れておいた水を確かめ、鍋に手を伸ばします。
火をつけても、すぐには強くしません。
鍋の中をのぞきながら、しばらくその場を離れませんでした。
時計を見ています。
やがて小さな泡が出始めると、料理人の手が動きました。
キッチンタイマーがなったからではありません。
鍋の中が、準備できたことを知らせたからです。
◆ 「あと十分」では決められない
料理には、時計で決められる時間があります。
何分煮るか、何分焼くか。
厨房には時計があり、料理人も何度もそこへ目をやります。
それでも、最後に判断するのは時計ではありません。
同じ五分でも、魚の厚さが違えば火の入り方は変わります。
鍋から立つ湯気、煮汁の動き、焼けてくる匂い。
料理人の目や耳は、時計と鍋の間を何度も往復しています。
急いでいるからといって、火を強くすればよいわけではありません。
早く仕上げたいからといって、待つ時間をなくすこともしません。
厨房には、人間の都合だけでは縮められない時間があります。
料理人は、そのことを知っています。
ですから、待ちます。
何もしないで待っているのではありません。
変わるのを見ながら、待っています。
◆ お客様が見るのは、最後の数分
やがて暖簾が掛かり、客が入ってきます。
注文が厨房へ届くと、それまで静かだった手元が一気に動き始めました。
包丁が入り、火が上がり、皿が並びます。
客席から見れば、料理が生まれるのはこの時間です。
一皿が運ばれてくるまでの十数分。
そこだけを見れば、料理人の仕事は、その十数分に詰まっているように見えます。
しかし、皿の上の鯛は、注文を受けてから突然そこに現れたわけではありません。
朝、市場で二尾を見比べた時間がありました。
店へ戻ってから、すぐには包丁を入れなかった時間がありました。
鍋の前で、小さな変化を待っていた時間もありました。
客には見えなかった時間が、皿の上に残っています。
暖簾が掛かり、客が席についた瞬間から、厨房では、それまでとは違う判断が始まります。
料理人は、いったい何を見ているのでしょうか。
次回は、厨房から視線を移して、客席を見てみたいと思います。
