第4回 料理人は、客の顔を見て味を変える ― 同じ料理を作っていても、同じ仕事はしていない ―
◆ 「いつもの」を、そのまま出さない
暖簾が掛かってしばらくすると、常連の客が入ってきました。
いつもと同じ席に座り、料理人に向かって「いつものをお願い」と声をかけます。
料理人も、いつものように笑ってうなずきました。
出す料理は決まっています。使う食材も、基本の手順も変わりません。ところが、その日はすぐに手を動かしませんでした。
客が席につく様子を見て、水を一口飲むまでの時間を見ています。外はかなり暑く、店に入ってきたときの顔にも少し疲れが残っていました。
客は何も言いません。料理人も体調を尋ねません。それでも厨房では、ほんのわずかに仕事が変わります。
いつもの料理を作りながら、味の置きどころを少しだけ変える。
客が気づくほど大きく変えるのではありません。むしろ、「今日は違う」と感じさせない程度に整えます。
「いつもの料理」です。しかし、「いつもの客」が、いつもと同じ状態で座っているわけではありません。
◆ レシピに書かれていないもの
料理人は、基本を軽く考えているわけではありません。
長い時間をかけて身につけた分量や火の入れ方、包丁の使い方を大切にしています。
それでも、レシピに書かれているとおりに作ればいいとは考えていません。
前回(第3回)で見たように、料理人は市場でその日の魚を見ていました。同じ鯛でも、昨日の鯛と今日の鯛は違います。厨房へ戻ってからも、時計だけで決めず、鍋の中の変化を見ながら待っていました。
客が店に入ってきても、していることは同じです。今度は、見る相手が食材から人へ移っただけです。レシピには、今日この席に座る人の顔までは書かれていません。
料理人は、決められた手順をそのまま再現するのではありません。目の前の状態を見ながら、その手順をどう生かすかを決めます。
同じ料理を作っていても、毎日同じ仕事にはならないのは、そのためです。
◆ 料理は、出したところで終わらない
料理が客の前に置かれました。料理人はすぐに次の皿へ取りかかり、包丁を持ち直します。
もう客のことは見ていないようにも見えます。
ところが、客が箸を伸ばしたとき、一度だけ視線がカウンターの向こうへ戻りました。一口食べた客は、すぐには何も言いませんでした。ほんの少し間を置いてから、もう一度箸を伸ばします。料理人は、その様子を見届けると、何事もなかったように手元へ視線を戻しました。
「おいしい」と言われたわけではありません。それでも、わかることがあります。何も言われなかったからこそ、わかることがあります。
皿を出した瞬間に仕事が終わるのであれば、客の一口目を見る必要はありません。
料理人が見ているのは、皿の上だけではありません。
その料理が、皿の向こう側でどう受け取られたのかまで見ています。
◆ 変えているのではなく、戻している
客に合わせて味を変えると聞くと、相手によって料理を自由に変えているようにも聞こえます。
しかし、実際は少し違います。料理人には、守りたい味があります。その味があるからこそ、毎日まったく同じように作るわけにはいきません。
食材の状態が違えば、火の入り方も変わります。
気温が違えば、感じ方も少し変わります。
そこへ、その日の客の状態まで加わります。
昨日と同じ分量にしたから、昨日と同じ味になるとは限りません。
ですから、料理人は少しずつ確かめます。
何か新しい味に変えようとしているのではありません。ずれてしまったものを、元の場所へ戻そうとしているのです。
常連の客が、いつもの料理を、いつものようにおいしいと感じられるようにする。
そのためには、毎日まったく同じことをするのでは足りません。
◆ 「同じ」をつくるために
しばらくして、常連の客が食事を終えました。
会計を済ませ、店を出るときに「今日もおいしかった」と言います。料理人は、「ありがとうございます」と笑って頭を下げました。客にとっては、いつもの店で、いつもの料理を食べた時間だったのでしょう。
その言葉を聞きながら厨房を見ると、あることに気づきます。
朝、市場では、その日の食材を見ていました。店へ戻ってからは、火を入れる前の時間を見ていました。そして客が来ると、今度はその人の顔を見ていました。
何も変わっていないように見える一皿の裏で、料理人は、その時々で違うものを見ています。
同じものを出すために、同じことをしていない。
それが、本当の料理人の仕事なのかもしれません。
◆ 包丁の向こう側
客が帰ったあと、料理人は再び包丁を手にしました。その包丁は、朝のうちに研がれていました。
ただ、料理人は、よく切れる包丁さえ用意すればよいわけではありません。食材を見ます。火の入り方を見ます。客が来れば、その人の顔を見ます。
包丁を持っている時間よりも、その前後で見て、待って、判断している時間のほうが、むしろ長いのかもしれません。それでも料理人は、翌朝になると、また同じ場所に立ちます。
砥石を濡らし、昨日も使った包丁を手に取ります。昨日きちんと研ぎ、その包丁で何皿もの料理をつくったはずなのに、今日もまた刃を砥石に当てます。
第1回では、それを「昨日切れた包丁が、今日も切れるとは限らないから」と書きました。しかし、第4回まで料理人の仕事を見てきた今、あの朝の光景が少し違って見えてきます。
料理人は毎朝、包丁の切れ味だけを確かめるために、砥石の前に立っているのでしょうか。
砥石の上を、包丁がゆっくりと滑っていきます。
その音を聞きながら、料理人は黙って刃を動かしています。
料理人が毎朝、本当に研いでいたものは何だったのでしょうか。
最終回は、それについて考えてみます。
