第5回 料理人は、本当に客を見ていたのか
◆ 見ていることと、見えていることは同じではない
第4回の最後に、こんな問いを残しました。
「料理人が毎朝、本当に研いでいたものは何だったのでしょうか」。
第1回からここまで読んでこられた方なら、すでに答えを考えておられるかもしれません。
研いでいたのは、包丁だけではなく、自分自身だった。
料理人としての技術や感覚、観察眼、判断力を研いでいた。
教師も同じように、授業技術だけでなく、目の前の子どもを見る目を磨き続けなければならない。
慢心は危険だ。
いずれも、間違ってはいないと思います。
ただ、そのようなことを書くだけなら、この話をシリーズとして5回も続ける必要はありません。「教師は子どもをよく見ましょう」「経験に頼らず、自分自身を磨き続けましょう」とまとめれば済むことです。
ただ、「子どもをよく見ることが大切です」と言われて、明日からすぐに授業が変わるでしょうか。
「子どもを見る眼を磨きましょう」と言われて、何をどうすればよいかわかるものなのでしょうか。
「こうあるべき」という一般論だけでは、目の前の子どもは何も変わりません。
そこで、もう一度、厨房へ戻ってみることにします。
◆ 「今日も、おいしかったよ」
最後の客が席を立ちました。第4回に登場した、あの常連の客です。会計を済ませ、暖簾をくぐる前に、いつものように料理人へ「今日も、おいしかったよ」と声をかけました。料理人は「ありがとうございます」と笑って頭を下げます。
客が帰り、店の中が静かになりました。料理人はカウンターの皿を片づけ始めます。そのとき、一枚の皿を手にして、ふと動きが止まりました。
料理が少し残っています。
いつもなら、きれいに食べ終える客です。
料理人は皿を見ながら、今日の仕事を思い返しました。塩が少し強かっただろうか。火を入れすぎただろうか。いや、料理を出したときの表情は悪くありませんでした。一口目のあと、もう一度箸を伸ばしたのも見ています。帰り際には、「今日も、おいしかったよ」と言っていました。
それでも、目の前の皿には料理が残っています。
第4回まで、料理人はいろいろなものを見てきました。
包丁の刃先を見ました。市場では、その日の食材を見ました。厨房では、鍋の中の変化を見ました。そして客が来れば、その人の顔を見ました。
だから、わかるのだ。
私たちは、いつの間にかそう思い込んでいたのではないでしょうか。
◆ 見ていたのに、違っていた
「今日は、少し濃かったかな」
料理人が小さな声でつぶやくと、会計をしていた店の人が言いました。
「さっきのお客さん、明日は人間ドックの検査があるんですって。だから、今日は少しだけにしておいたって、言っておられましたよ」
料理人が顔を上げました。そして、もう一度、手に持った皿を見ました。
同じ皿です。食べ残された料理も何一つ変わっていません。
なのに、さっきまでとは、まるで違って見えます。
「料理を残した」。
これは、目の前で起きた事実です。
「味がよくなかったのではないか」。
こちらは、その事実を見た料理人がつくった解釈でした。
料理人は、客を見ていなかったわけではありません。むしろ、よく見ていました。店に入ってきたときの顔も、水を飲む様子も、箸の動きも、一口食べたあとの表情も見ていました。
それでも、わからなかったのです。
ここに、「見る」という仕事の怖さがあります。
見ていないことよりも、「自分には見えている」と思ってしまうことの方が、実は怖いことなのかもしれません。
◆ 教師も、毎日見ている
教師も、毎日子どもを見ています。
手が挙がった。うなずいた。英語で答えた。ノートに書いた。ペアで話していた。振り返りにも「わかった」と書いてある。そうした姿を見て、「理解できている」「考えている」「身に付いている」と判断します。
その逆もあります。手を挙げない。発言しない。書く量が少ない。英語が途中で止まる。そうした姿を見て、「わかっていない」「考えていない」「まだ力が付いていない」と判断することがあります。
教師が実際に見ているのは、子どもの表情や発言、ノート、行動です。その姿を見て、「この子はきっと、こう考えている」と意味を与えているのは、教師の側です。
食べ残された皿を見て、「今日は味がよくなかったのだろう」と考えた料理人と、どこが違うのでしょう。
子どもを見ている。
だから、子どものことがわかっている。
この二つは、同じではありません。
◆ 見ようとしなければ、見えてこない
「見えないものを、見えるようにする」と言っても、子どもをじっと見ていれば、いつか見えてくるわけではありません。
いつものように問い、いつものように発表させ、いつものようにノートを集め、いつものように振り返りを書かせる。それで十分に見えていなかったのであれば、同じことを繰り返しているだけでは、明日も同じものしか見えないでしょう。
たとえば、昨日まで「発言しない子」だと思っていた子が、友達の話を聞きながら、ノートにはいくつもの考えを書いていることがあります。そこで初めて、「考えていない」のではなく、「みんなの前では発言しない」のかもしれないという別の見方が生まれます。今日の発言だけでなく、昨日のノートや友達とのやり取り、その後に書き直した英文まで見ていくと、それまで別々に見えていたものの間に、その子なりの思考の跡が見えてくることがあります。
「英語が苦手な子」だと思っていた子も、言いたいことはたくさん持っていて、それを英語にするところで困っているだけかもしれません。そうだとわかれば、教師が変えるべきものも変わってきます。
しかし、そこで「やはり、そうだった」と決めつけてしまえば、また同じことが起こります。
本当に、そうなのだろうか。
一度、自分の見立てを疑ってみるのです。別の見方はできないか。自分に都合のよいところだけを見ていないか。まだ見えていないものがあるのではないか。
子どもを見るとは、一度見て、その子をわかることではありません。昨日まで見えていた姿に新しい事実が加われば、それまでの見立てを書き換える。その新しい見立ても、次の日にはまた違って見えるかもしれません。
子どもは、昨日のままではありません。身体も思考も、日々、成長しています。
ならば、教師の中にある「この子は、こういう子だ」という見立ても、昨日のままでよいはずがありません。
見えない思考を見ようとすることは、子どもの中にあるものを見えるようにするだけではなく、教師自身の見方を、日々上書きしていくことなのかもしれません。
◆ 毎朝、包丁を研ぐ理由
「料理人は、本当に客を見ていたのか」という問いは、厨房を離れた瞬間、私たち自身に返ってきます。
本当に、子どもたちを見ていたのだろうか。
第1回で、私はこう書きました。
「昨日切れた」は、今日も切れるという理由にはならない。
第5回まで来た今、この言葉は、もう包丁だけの話ではありません。
昨日、このやり方でうまくいった。昨日、この説明で伝わった。昨日、この活動で子どもが動いた。だから、今日も。
そう考えた瞬間、教師が見ているのは、今日、目の前にいる子どもではなく、昨日の「経験」になってしまいます。
料理人が毎朝、包丁を研ぐのは、昨日の包丁を信用していないからではありません。
今日の刃を、今日、確かめるためです。
教師も同じなのだと思います。
今日見えていた子どもが、明日も同じだとは限りません。今日うまくいった授業が、明日も同じようにうまくいくとは限らないのです。
怖いのは、「いつも通り」という考え方です。
いつも見ている。いつもやっている。いつもうまくいっている。
その「いつも」が、いつの間にか「できているはず」に変わったとき、目の前にある小さな変化が見えなくなります。
まもなく、2学期が始まります。
教科書は、1学期の続きから始まります。年間指導計画もそうです。
1学期にはできていた。
この子なら大丈夫。
ここまではわかっているはず。
だから、授業もそのまま「続き」から始める。
ごく自然なことのように思えます。
では、それは、本当に目の前の子どもを見てから決めたことでしょうか。
それとも、教師の中にある予定通りの「続き」なのでしょうか。
ここまで料理人を追いかけてきてわかったことー
それは、
「見ていた」と「見えていた」は、同じではないということです。
子どもを見ていたつもりで、実は見ていたのは、教科書、パソコン、モニター画面、時計ではなかったでしょうか。
そして、もっと怖いのは、「自分には見えている」という思い込みです。
私はこれまで、休み明けに教師が判断を誤り、つまずいてしまった子どもたちを何人も見てきました。
休みの間に、子どもは変わります。
できていたことが、できなくなっていることもあります。逆に、できなかったことが、できるようになっていることもあります。
表情が変わっている子もいます。友達との関係が変わっている子もいます。以前なら平気だったことに、足が止まる子もいます。
教科書には、その変化の見方は書かれていません。
年間指導計画もそうです。
だからこそ、2学期を「1学期の続き」として始める前に、確かめなければならないことがあります。
今日、この子はどうなのか。何ができるのか。何につまずくのか。何を面白がるのか。どこで表情が変わるのか。
教師にとっての「包丁を研ぐ」とは、何か新しい指導法を身に付けることだけではないのでしょう。
昨日までの見方を、そのまま今日に持ち込まないこと。
目の前の子どもを、もう一度見ること。
1学期と同じ自分のままで、2学期を始めないこと。
料理人は、昨日よく切れた包丁を、翌朝も研ぎます。
昨日切れたことではなく、今日切れるかどうかを確かめるために。
教師もまた、昨日まで見えていた子どもではなく、今日、目の前にいる子どもを見る。
そのために、自分の「見方」を研ぎ直す。
毎朝、包丁を研ぐ理由は、そこにあるのかもしれません。
