🍀その「はず」、何を根拠にしていますか。

子どもへの期待と、教師の思い込みは違う

「この子なら、できるはず」

教師がそう期待することは、とても大切です。今はまだできなくても、この子ならきっとできるようになる。その可能性を信じるからこそ、教師は次の手立てを考えます。

一方で、次のような「はず」もあります。

「昨日教えたのだから、できるはずだ」

「前の学年で習ったのだから、できるはずだ」

同じ「できるはず」なのに、何かが違います。

「この子なら、できるはず」は期待。

「教えたのだから、できるはず」は思い込み。

問題なのは、「はず」という言葉そのものではありません。その「はず」が、何を根拠にしているかです。

◆ 「教えた」は、「できる」ではない

授業では、「あの文法は説明した」「あの単語は練習した」「あのページは終わった」という事実が積み上がっていきます。しかし、それは教師が何をしたかという記録であって、子どもが何をできるようになったかとは一致しません。

ところが、「教えた。ということは習っている。習ったのなら分かっているはず。だったらできるはず」と、いつの間にか一本の線でつないでしまうことがあります。

説明を聞いて分かったとしても、自分で使えるとは限りません。一度できたからといって、必要なときに使えるとも限りません。英語でいえば、基本文を習っていても、必要なときに口から出てこないことがあります。質問文を書けても、その場で相手に質問できないこともあります。英文を読んだ経験があっても、語順のまま意味を取れるとは限りません。

「やったこと」と「できること」は、同じではありません。

◆ 「はず」は、学年を越えていく

さらに、「はず」は一つの授業の中だけで完結しません。

「小学校で習ったはず」

「1年生でやったはず」

「前の学年で身に付けたはず」

こうして「はず」は、学年を越えて引き継がれていきます。前の教師は「次で扱うだろう」と考え、次の教師は「前で身に付いているだろう」と考える。その間で、分からないまま進んでいく子どもが生まれます。

そして積み残しが大きくなったときに、「基礎が身に付いていない」「学力差が大きい」と言われます。もちろん、忘れてしまうことや練習不足もあります。しかしその中に、確かめないまま引き継がれてきた「はず」はなかったでしょうか。

◆ 「分かるよね」の向こう側

「これは前にやったよね」

「覚えているよね」

「分かるよね」

こうした言葉は、案外、日常的に使われています。しかし、それが重なると、「分かりません」と言いにくくなる子もいます。「教えてもらったのだから、できないのは自分の問題なのではないか」「忘れてしまった自分が悪いのではないか」と感じる子もいるでしょう。

すると、分からなくてもうなずく。ノートを写す。隣を見て合わせる。ペア活動では、できる友達に合わせる。それでも授業は進んでいきます。

だから、教師には見えにくくなります。

授業が進んでいることと、子どもが学んでいることは同じではありません。 むしろ、「分かっているはず」と思うときほど、分かっていない子どもが見えにくくなるのかもしれません。

◆ 「はず」の主語は誰なのか

学校教育は積み上げです。前の学年の学習を前提にしなければ、授業は進みません。したがって、「習っているはず」と考えること自体が問題なのではありません。

大切なのは、「はず」が浮かんだときに、その根拠を問い直すことです。

「この子なら、できるはず」なのか。

「教えたのだから、できるはず」なのか。

似ているようで、出発点が違います。

「この子なら」の出発点には、目の前の子どもがいます。「教えたのだから」の出発点にあるのは、教師自身の過去です。

そして後者が強くなると、教師の頭の中に「できるはず」の子どもがつくられていきます。目の前にいる子どもではなく、「できているはず」という子ども像を相手に、授業を進めることになりかねません。

もし、「教えたはず」「練習したはず」「できるはず」という言葉が頭に浮かんだら、少しだけ立ち止まって、自分に問いかけてみてはどうでしょうか。

その「はず」が、目の前の子どもから生まれたものかどうか、を。

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この記事を書いた人

英語 "わくわく授業" 研究所 代表(元関西外国語大学教授)
(公財)日本英語検定協会派遣講師・(株)リンク・インタラック エグゼキュティブ・コンサルタント